トルコには秘密、と自分から言った手前、サディクに買ってもらった宝物は、布にくるんで大切に、机の引き出しにしまっておくことにした。
何をしていても、自然と笑みがこぼれてしまう。
本当に楽しかった。サディクと二人だけで出かけた市場。つないだ手。
胸がどきどきして、この世で一番幸せなのは、自分なんじゃないかと思った。
今日は会ったら何を話そう。
傾いていく日を見ながら、遅々として流れない時間をじれったく思った。
そのうちに空は赤く染まって、だんだん紫に近くなり、そうして真っ暗になった。
いつまで待っても、待ち人は来なかった。
「どうしたんだろう」
昨日調子が出ないと言っていたから、ひょっとしたら具合が悪いのかもしれない。
トルコに隠し事をして、怒られているのかもしれない。
考えれば考えるほど不安になって、いてもたってもいられなくなる。
それでも、どんなに想っても、自分はここで彼を待っている以外の方法を持たないのだとはっきり気づいたとき、虚しくて情けなくて、泣きたくなった。
許してね 恋心よ
次の日もその次の日も、彼は現れなかった。
ひょっとしたら今までのは、全部ギリシャが都合のいいように見ていた夢なのではないかとすら思った。その度にそっと緑がかった石を取り出しては胸に抱く。
夢なんかじゃない。
五日間経って、ようやくギリシャは、行動を起こした。
宮殿の隅から隅まで調べれば、彼がどこにいるのか分かるかもしれない。
お守り代わりに、ターコイズを握りしめて、ギリシャは部屋を出た。
部屋に閉じこもってばかりいたギリシャを見て、多くの人は目を丸くしたり、こっちへおいでと誘ってきたけれど、ギリシャは構わなかった。
自分の目的はひとつだけ、そう、もう一度サディクに会いたかった。
は、と息を呑んで立ち止まる。
前方から、トルコが歩いてくるのが見えた。
てっきり何か言ってくるだろうと思ったが、トルコはギリシャを一瞥すると、そのまま何事もなかったかのようにすれ違い、去っていってしまう。
こんなところで何してる、とも、ようやく外に出る気になったか、とも言わなかった。
なんだか気味が悪い。
けれども、今はそんなことに構ってはいられない。
本当に宮殿の隅から隅まで探し歩いて、最後にギリシャは中庭に立っていた。
部屋を出た時には明るかったはずの外は、もうすっかり暗くなっていて、空気は冷え込んでいる。満月の夜だった。
「……サディク」
絶望してその場にうずくまった。
どこにも、どこにも彼はいなかった。
もう一生会えないような気がしていた。たとえ小さなサディクに羽が生えて、再び飛べるようになったとしても、ともに喜んでくれる彼はいない。
「どうして……」
どうして、自分ばかりがこんな目に遭うのだろう。
どうして彼は消えてしまったんだろう。
ギリシャが悪い子だったから、嫌われてしまったのだろうか。
涙を止めることができなかった。膝を抱えて泣きじゃくる。
そっと握りしめていた手を開く。中から出てきた石は、ギリシャの体温で温められて。
お前の目みたいだ、と言われたことを思い出して、ますます寂しくなった。
このペンダントをもらった時、本当に嬉しかった。サディクと自分はこれでいつでもつながっていられる気がした。
でも残ったのはこれだけで、サディクはいない。
残ったのは、これだけ。
ひとりぼっち。この異国の宮殿に。
「……部屋に入れ。風邪引きてぇのか」
ふいに、背後で静かな声がした。
あぁこの石が、サディクをつれてきてくれたのかと思った。
ぱっと振り返る。
だが、揺らめく炎に照らされたのは不気味な仮面で、どろりとした何かが沸き立つのを感じた。
ギリシャは顔を背け、その言葉を黙殺した。
「聞き分けのねぇガキだな! そんなとこに座り込んでたって、誰も来ねぇよ!」
「うるさい!」
思わず叫んだ。
自分が未練たらしくサディクを待っていることを、トルコなんかに言い当てられたのが悔しかった。
うるさいうるさいうるさい、お前には関係ない、どっか行け、と喚き散らしたかった。
けれど、と目を見開く。
どうしてトルコがそんなことを知っているのだろう。
自分がサディクを待っていることも、サディクが来てくれないであろうことも。
まさか。
まさか、トルコがサディクに、何か――。
激しい怒りで目の前が見えなくなることを、ギリシャは初めて知った。
どこまで、この人でなしは、どこまで邪魔したら、どこまでギリシャを貶めたら気が済むのだ。
「いいから、早く中に入れ!」
ずかずかと大股で近づいてきたトルコに、逃げる間もなく、腕を取られる。はずみで握っていたターコイズが落ちた。
「あ……」
ギリシャがそれを拾い上げるより早く、トルコがそれをかすめ取る。
「こんなもん後生大事に持って……ホントに大バカだなテメェは! こんな安物のクズ、とっとと捨てちまえ!」
「なっ……」
言うが早いか、大きく弧を描いて暗闇に消えていった緑を、愕然と認識した頃には、闇に紛れてまったく見えなくなっていた。
深い深い闇に、呑まれて、消えた。
おお、似合う似合う。
よかったなぁ。
お前の目みてぇだな。
トス、と庭のどこかではかなすぎる音がした。
「ほら、早く立て!」
ぐい、と強く腕を引かれてよろめく。
掴まれた腕が、痛かった。
「う……っ、あぁあああ!」
ドン、と力任せにトルコを突き飛ばして、ギリシャは走り出した。
サディク。
月明かりを頼りに、ギリシャの足は勝手に宮殿の外へ出て、市場へ向かう。
どうして。
サディクと訪れた市場、ターコイズの首飾りを、買ってもらった市場。
どうしてこんなひどいところに、ギリシャをひとりぼっちにするのか。
衛兵が何事かと自分を見たけれど、ぐしゃぐしゃに涙をこぼしながら走っていく子供を、咄嗟には止められなかったらしい。誰にも邪魔されず、ギリシャは走り続けた。
息が上がって死にそうだった。それでも足を、止めることはできない。
止めれば大切な何かを、本当に失ってしまいそうで。
息も切れ切れにたどり着いた市場は、かつて夢のように楽しかった場所とは似ても似つかなかった。
ほとんどの商人は夜中には店を閉めてしまう。薄気味悪い静寂の中で、ところどころ店を出しているのは、怪しい男たちだけだった。
あまりの違いにギリシャが戸惑っていると、頭上から、わざとらしいくらいの猫なで声が降ってきた。
「ぼくぅ、どうしたんだい? 迷子かな?」
舌舐めずりでもしそうな声音に、ぞくり、と体が粟立った。
「おい、コイツ、ずいぶんいい服着てるじゃねぇか」
「ほんとだ……それにこの顔、ギリシャ人かな? かわいいねぇ」
気づけば5、6人の男に囲まれている。
熱くなっていた気持ちが、急速に冷えるのを感じた。足が震える、青ざめてすらいるのではないか。
だが臆していることを、決して悟られてはならない。
ああ、自分はいったい何をしに、こんなところまで来たんだろう。
ギリシャは目の前の男を睨みつけた。
戻らなくては、宮殿に。
踵を返した瞬間、腕を掴まれる。
「はっ、離せ!」
恐怖で声が裏返ったのが、自分でもわかった。
「いいじゃねぇかよぉ、ちょっとくらい。お兄さんたちといいことしようぜ」
「なんか金目のもん持ってねぇか?」
「このガキだったら身代金ふんだくれるだろうよ」
ぎゃはははと下世話な笑い声が響く。
もうだめだ、自分はこの男たちに捕まって、何をされるかわからない、ひょっとして殺されてしまうかもしれない、と思った。
ああ。
どうして。
自分ばっかりこんな目に――。
ひどいひどいひどい。
目の前が真っ暗になりかけた瞬間、背後で「ぐわぁ」と呻き声がした。
連続して鈍い打撃音。
ギリシャを取り囲んでいた男たちが、次々に倒れていく。
真夜中の物騒な市場には不釣り合いな、煌びやかな衣裳が翻る。豪勢ではあるが武人用のそれは、鮮やかに繰り出される突きや蹴りを決して阻害はしなかった。
「ガキに手ェ出すなんざ、やることが卑怯じゃねぇか、お前らよぉ!」
形勢不利を悟ったのか、男たちは一目散に逃げていってしまう。
「サ……」
夢みたいだと思った。
「サディク……」
突如現れて、暴漢たちを次々に薙ぎ倒した男は、名前を呼べば複雑そうな顔をする。
「バカ野郎ッ! こんな夜中に、何かあったらどうするつもりでェ……!」
言い捨てるなり背を向けようとするから、慌ててその背に追いすがった。ここで別れてしまったら、もう二度と会えない気がした。
夢なんかじゃなかった。確かにサディクは、まだ、傍にいた。
「会いたかった……」
本音を漏らせば、ともに涙も溢れる。
サディクは背を向けたまま、何も言わない。
「俺と市場に行ったからいけなかったのか? トルコが何か言ったのか?」
どうして、どうして五日間も姿が見えなかったのか。
問い詰めるギリシャに何も返さず、サディクは歩き出そうとする。
「ずっと会いたかったのに……寂しくて死にそうだったのに……!」
腰に抱きつきながら叫んだ。お願いだから、置いていかないで、ずっと傍にいてと、腕に力を込める。
サディクはためらうように瞳を揺らした。
「お前は……トルコの何がそんなに嫌いなんだ……? ……いや、トルコじゃなくてもいい。宮殿には他に、俺の他にだって、お前に優しくしてくれる奴ぁいっぱいいるだろう」
どうしてそんなに頑ななんだ、と沈痛な声で言われても、「そうだな」なんて返せるわけがない。
まるでそれは、もうサディクには会えないのだと言わんばかりの。
ふるふると首を振った。
子供みたいだ。サディクが困っている。
次から次へと溢れ出る涙で、視界がぼやける。屈みこんで目線を合わせてくれたサディクの顔さえ、よく見えない。
「俺はもう、お前の前には現れない。その方がお前のためだと思う。他の奴と仲良くして、この宮殿で、与えられた場所で、ちゃんと普通に、幸せに生きろ。大丈夫、みんなできてる。お前だって、すぐに慣れる」
冗談じゃない、そんなことをしたらトルコの思う壺で、心を開いたのは、サディクだからこそで。
頭を駆け巡る理屈は、ひとつも上手く言葉にならない。
「どうして、どうしてそんなこと言うんだ、俺は……サディクさえいればいいのに」
ガッと肩を掴まれた。
強い光を宿した瞳が、真っ直ぐにギリシャを射抜く。ぎゅっと寄せられた眉根。
「そんなに……ッ、そんなに俺がいいかッ!」
「うん……、好き……だよ……サディク」
切れ切れの告白に、サディクは顔を歪めた。
とても辛そうな顔だと思った。
「……テメェはッ!」
ぐ、と力をこめて揺すぶられる。とても怒っている。
けれどどうして?
今まで孤独な、惨めなギリシャに優しくしてくれたのは、好きだと慕って甘えてもいいというしるしではなかったのかと、当惑にまた涙が滲む。
「テメェは、唯一心許す好きな奴と、……殺したいほど憎い奴のッ、区別もつかねぇのか!」
何を言っているのかよくわからない。
サディクがとても怒っていて、そしてとても必死なのだと、それだけがわかった。
「どうして? どうして怒ってるんだ? ごめんなさい、ねぇ、サディク……」
きらいにならないで。
呟いた声は自分でも情けなくなるほど惨めだった。
しゃくり上げるギリシャを掻き抱いて、サディクは立ち上がった。
大きな腕に体を預ける感覚。温かくて安心できて、夢のような。
こんなに単純で、そして一番難しい、そんな幸せを軽々と与えてくれる、サディクは神様のようだと思った。今もしサディクを失えば、きっと死んでしまうのだろうと、そう思った。
それでも、至近距離で見上げた顔は憮然と前を見据えて、唇は固く引き結ばれている。
子供の自分にはわからない何かがあるのだ。サディクにこんな顔をさせている何か。
自分の知らないサディクの顔に、急に不安になって、きゅっと首まわりに力を込めて抱きついた。
サディクは何も言わなかった。
市場まではずいぶん遠かった気がしていたのに、サディクの足にかかればほんの近所だったことを知る。
宮殿の門扉は松明が煌々と燃え盛り、ざわめく高官たち、衛兵で騒然としていた。
そのうちの一人が――とりわけ豪華に着飾った彼は、トルコやスルタンの側近中の側近だった、何度か見たことがある――こちらに気づくと、眉根を寄せて口を開いた。
「――トルコ様!」
トルコを呼ぶその声に、無意識に胸の中がざわつくのを感じた。
サディクはもう来ないと言い放ち、サディクからもらった大切な、ギリシャの宝物を安物と言いいとも簡単に投げ捨てた、血が沸き立つほどに憎い、その名前。
けれどどれだけ目を凝らせど、トルコの姿は見えない。側近の目は真っ直ぐにこちらを向いているのだった。
サディクはそっとギリシャを地面に下ろすと、「ギリシャ、……ごめん」と、聞こえるか聞こえないかという音量で言った。
何を? 何を謝るの?
あまりに唐突で反応できないギリシャを置いて、次の瞬間には、まるで、ギリシャなどいなかったかのように、すっと門扉へ向かって毅然と歩き出す。
その彼に、再び側近が口を開いた。
「あなたは……ッ、そのような格好で市中に出て、物取りに襲ってくださいと言っているようなものですよ! おわかりですかッ!」
サディクに掴みかからんばかりの彼は、わなわなと肩を揺らしている。
どうやら相当怒っているらしい。
対するサディクは静かに返した。
「しょうがねぇだろぃ、急いでたんだから」
ため息で人が殺せるとするなら、この瞬間に側近がついたため息には、確かにそんな殺意が含まれていたに違いない。
彼はそっと掌に何かを乗せて、押しつけるようにサディクの眼前に突き出した。
「仮面を、外す理性だけはおありだったようで、何よりです」
頭の奥がしびれる感覚がした。
急に目の前の光景にフィルターがかかったかのように、気が遠くなる。
その、冷徹残酷な表情を貼りつけ、炎に揺らめく不気味な影をまとった仮面を受け取り、サディクは――確かにサディクであった人物は、やはり静かに言う。
「そりゃあ、そんなんして街中うろついたら、ただの不審人物だからな」
応えた様子のない目の前の大人に辟易したのか、側近の矛先は茫然と立ち竦む子供に向かう。
これ以上ないほどに大きく目を見開いて、数メートル先で立ち尽くすギリシャを、親の敵でも見るかのような目で睨みつけると、側近は忌々しげに吐き捨てた。
「トルコ様、あなたは甘すぎる」
はっきりと「トルコ」と呼びかけられたセリフに対して、サディクはためらいもなく答えた。
「……何が」
「申し上げたはずです。征服地の支配は徹底かつ厳格にと。子供だからかわいそうだとか、反抗の意図がないのなら、とか、あなたはいつもそんなことばかり言って、征服地ごときに好き勝手させるから、こういうことになるんだッ!」
「こういうことって、何もなかったじゃねぇか」
「本気でおっしゃっていますか? こんな真夜中に、高貴な者と一目でわかるような格好で、大した武器も護衛もつけず、宮殿の外に大事なあなた様がお一人で! これがどれだけ大変なことか、あなたにはわからないのですかッ!」
ちらり、とギリシャに向けられた目は、氷のように冷たかった。
「それを唆した、そう仕向けた人物がいたのなら大罪です。人なら死罪に値する」
まるで「貴様のような価値のない者は死ね」とでも言われているようで、心の底から怖かった。先ほどまでの人肌の温もりを思い出し、ふいに気が遠くなる。
ああ、その温もりは他ならぬ彼が――今ギリシャの目の前で、悪趣味な仮面を手に静かに立っている、彼がくれたものに違いなかったのに。
頼れるものは、もうギリシャには何一つ残されていないことを、思い知らねばならなかった。
「そもそもお前たちが、ギリシャ様をお止めしないからこういうことになったのだ! 真夜中にこんな小さな子供一人で、出かける大義があるはずもなかろう!」
次いで怒りの矛先は衛兵に向く。彼のような高官に怒鳴られること自体が、そのまま死を意味していた。それを知っている彼らは、涙ながらに許しを乞うたが、原因を作ったギリシャにはどうすることもできない。
サディクは――トルコは、側近と衛兵の間に割り入るように体を動かすと、先ほど手渡された仮面を、慣れた手つきで顔につけた。
途端、夢にまで見た優しい顔は消え、ギリシャの心臓を握り潰さんばかりに憎悪を掻き立てる、無機質な顔がそこに現れる。
「これは勝手に宮殿を脱走した、そいつ一人の責任だ。そいつは牢にぶちこんどけ。――それで文句ねぇだろ」
冷え冷えとした声で言い放つ。
彼が仮面ごしに見下した相手は、確かにギリシャなのだった。
ああ。
ああ、なんて酷い。
殺してやる殺してやる殺してやる。
意味もわからず、頭を廻る言葉を噛み締める。
「……文句ない? 冗談じゃありませんよ。どうせあなたのことです、三日程度で出してしまうおつもりなのでしょうが」
ギリシャの居場所を踏み躙った。慈善者面して高みから見下ろした異邦人。
優しい顔。
母は言った、我らは誇り高く生きねばならない。
夕日に照らされた。
哲学と、歴史を愛し、我らの文化を永久に守らなければならない。
美しい肢体。
死ねばいい。我らがどれだけ崇高な生き物か微塵も理解しようとしない、浅はかな愚者は死ね。
「一年です。最短で一年。それ以下では決して許しませんよ」
奇妙な家に住み奇妙な服を着て、奇妙な言葉を話し、そのくせ自分たちが一番偉いとドームの中でふんぞり返る。
温かな腕。
頭がおかしくなりそうな日々、憎しみに捕らわれて、なんのために生きて、どうして自分ばかりがこんな目にこんな目に許さない死ね死ね死ね死ね……!
幸せだった。
身を灼かれるかのような憎しみ、理性ではどうすることもできない。苦しくて苦しくて、憎くて惨めで辛くて死にたくなるような。
「一年だァ? ふざけるな! こいつはまだ子……」
お前の目みてぇだな。
「――構うものか!」
言いさしたトルコを遮って声を荒げていた。
突然声を上げたギリシャを、誰もが振り返る。
「一年だろうと一生だろうと、好きにするがいい!」
ギリシャ、……ごめん。
「……俺の、一生を懸けても」
「お前を憎しみ抜いてやる、トルコ」
かちゃん、と耳障りな金属音がして、闇の世界に一条の光。
眩しさに目を細めれば、気の弱そうな顔をした衛兵が、そっと入ってくる。
「ギリシャ様、出て下さい」
言いながら足かせを同じようにかちゃかちゃと鳴らしながら外していく。
「……なんで?」
「反省のお時間はおしまいです」
「……だって、まだ三日しか経ってないっ!」
困ったように彼は笑う。
「いくらなんでも、ギリシャ様はそんじょそこらの子供とは違いますし、それにほら、ここは真っ暗でしょう。大の大人だって気が狂います」
「バカにするなッ!」
死ね死ね死ね、みんな死んでしまえばいいのに!
ひどくお腹が空いていた。丸三日体を動かしていないせいで、骨がぎしぎし言うような、手足が自分のものでないような、ひどく痛々しい感覚がした。
力が入らないくせにじたばた暴れようとする様を、客観的に「なんて惨めなんだろう」と観察する自分がいた。
「いやね、お偉い御方は幽閉を続けるおつもりだったそうですが、ほら、あなたは運がいい。トルコ様は優しい御方だから」
「だから、なんだっていうんだッ! バカにするな! ふざけるなふざけるな! ちくしょう……死ね、死ねトルコ……」
そんな優しさはいらない。
欲しいのは、そんな客観的な、聞き分けのいい、模範的な優しさなんかじゃなかった。
夕暮れの庭の片隅で、偶然目が合った子供にだけふと気まぐれで微笑んでくれる、そんなちっぽけな優しさでよかったのに――。
泣き崩れたギリシャを、衛兵はおろおろと扱いあぐねて、そっと背を撫でてくれた。
その手は確かに温かいのに、ちっとも幸せだとは思わなかった。
自分にも、どうしていいのかなどわかりはしない。
泣き疲れたあとは、どう抵抗するのも面倒で、されるがままに着替えを終え、三日ぶりに自室に戻った。
ふと見たテーブルの上の器の中で、白い小鳥が死んでいた。
そっと触れるとまだ温かかった。
ついぞ抜け落ちた羽は生えないまま、再び自分の力で自由に空を飛ぶこともなく、抜け殻となった。
初めて小鳥を見つけた場所に、埋めてやろうとしゃがみ込む。
下を向くと、もうとっくに涸れたはずの涙が、ぽろりと零れた。
あぁ、小さなサディクは死んでしまった。
そうして、ギリシャに生きる希望をくれた、温かな幸せをくれた、大好きなサディクもまた、一緒に逝ってしまったのだ、と思った。
さようならさようなら、心の中で呟きながら、白い体に真っ黒な土をかけていく。
耐えきれず涙を手で拭った。顔が汚れたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
白い体は完全に見えなくなって、あとにはふっくらと土の山が残った。
ぐずぐずとその場を動けないでいると、ふと植込みの隅に、きらりと光るものを見つける。
手に取ってみればそれは、三日前に失くなったはずの、ターコイズの首飾りに相違なかった。
あの日トルコが投げ捨てて、永遠に失われた気がしたそれ。
意外にも、すぐ近くに留まっていたことを知る。嬉しいような、切ないような、言葉にできない感情の波が去来する。
ほんの少し土に汚れた小さな石を胸に掻き抱いて、ギリシャは泣いた。
とうとう耐えきれずに、声が漏れていることにも気づかずに。
「……ふっ……う、……うわあぁああああああぁ!」
切なくて恋しくて苦しくて悔しくて。
それでも超えられない壁。
それはギリシャを作るもの。ギリシャのすべて。
どう足掻いても超えられない。自分はそれを知っている。だからあの小鳥と一緒に、幸せな日々も、大好きな人も逝ってしまった。
こちら側に遺された自分は、ただ恨んで憎むだけ。精一杯嫌い抜く。今まで通り、何もなかったかのように。いや、それ以上に。
なぜ、理不尽じゃないかと誰が言ったって構いやしない。簡単なことだ。国としてある限り、それがギリシャのすべてだから。
それだけは、この胸に宿ったどんな熱い感情にも、決して変えることはできやしない。
簡単なことだ。とても、単純なこと。
小さなみどりの宝石は、再び幾重にも幾重にも布に包まれて、机の引き出しの奥底に眠る。
憂き世を知らず、夢の中で眠るがいい。そうさお前は、「トルコには秘密」だから。
幼いギリシャには、生涯守らなければならない約束が、生きるための理由がある。
一つは母との、そしてもう一つは、最初で最後の、恋の相手との。
ギリシャは一生、トルコを憎む。
思い出を閉じ込めた玉の在処は一生、トルコには内緒。
ここでは「ギリシャのお母さん=古代ギリシャ」、「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)=色んな国の卵がそのもとで同居(ギリシャも)」みたいな感じかなーと思って書きました。
あとがき
(2007/9/15)
(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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