「待ってよ」
 声をかけると、男は振り向いた。
 まるで住民のような格好をしていたが、確かにイギリスだった。
「何それ、スパイ活動の途中かな?」
「……お前に銃を向けたくない。……まだ」
「向ければいいじゃないか。俺は君を裏切った、反逆者だぞ」
 イギリスは軽く驚いたような顔をした。
「『裏切った』か……。そんなつもりはなかったって、お前散々言ってたじゃないか」
「は?」
 何を言っているんだろう。
 確かに裏切ったつもりなんかなかった。
 ただ自分は自由になりたかっただけだった。イギリスの手を借りずに、ひとりで歩いて行きたかっただけだった。
 でも、それを「裏切り」と呼んだのはイギリスだ。
 そんなつもりはなかった、と反論したのは、パリでの講和の席でだった、気がする。
 ――「散々言ってた」って、どういう意味だよ。
 言ってないよ、この歴史では、まだ。
「お前はただ、自由になりたかっただけなんだろ」
「……なんで」
「お前は大きくなったよ、本当に」
「なんで君が、ッ」
 そんなことを言う。
 イギリスは静かな目をこちらに向けて、一言、「ごめんな」と言った。
「でも俺は、お前に嫌がらせをしたくて、今まで色んなことをしてきたわけじゃないんだ」
 一呼吸おいて。
「昔も今も、ただお前と、ずっと一緒にいたいと思っ……」
 耐えきれなくなったようにイギリスは顔を覆った。
「俺は確かにお前の言うとおり、自分のことしか考えてない、醜い奴だったよ」
(正義正義ってお前は、少し総合的にものを見ろ! 相変わらず単純バカだな! だからいつまで経っても子供だってい――)
(正しいことをしようって言って何が悪いんだよ! だいたい君は昔から、いい人ヅラして裏であくどいことばっかりやって、結局自分の利益しか考えてないんじゃないか。あぁ、醜い醜い、君のそんなところが昔から大っ嫌いだったよ!)
「アメリカ」
 やけ酒して寝たあの日。
 何でもない嫌みの応酬。いつも通りの、些細なケンカ。
「なんで、お前が泣いてんだよ」
「……嘘だよ」
 あぁ、あれから自分は時を遡って、そうして何百年過ぎたのだろう。
「大嫌いだったなんて、嘘だよ」
 長い長い夢だった。
「……『大嫌い』なんて、お前そんなこと、俺に言ったことあったか?」
「いっぱい言った。でも全部ウソだよ。意地張ってただけなんだ。君を裏切るつもりなんかなかったのに、君をいっぱいいっぱい傷つけて、正しいと思ったから独立したはずなのに」
 まるで子供がいやいやをするように、力いっぱい首を振った。
「君がどんなに俺を大事にしてくれてたか、ちょっと考えればわかったはずなのに、こんな、こんな――過去に来なきゃわかんなかったなんて」
 あぁ、自分はワケのわからないことを口走っている。
 過去に来ただなんて、このイギリスに言ってもわからないし、謝るべきは今目の前にいる過去のイギリスではないのに。
「――俺も過去に来てわかったよ、アメリカ」
「……ッ」
 何、言って……。
「俺はほんとに、自分のことしか考えてなくて……いつまでも俺を慕ってる小さな子供だと思ってたお前から銃を向けられて、すごくショックだったんだ。信じられなくて信じたくなくて、神はなんてひどいことをするんだろうって、ずっとお前もこの歴史も恨んでた」
 自分を怒らせた施策の数々を、昔みたいに意地を張るようにではなく、ためらいがちに実行したイギリス。
(お前も植民地のはしくれなら、本国の危機に協力してしかるべきだろ)
 とは一度も言わなかったイギリス。
「でも、俺は今の、嫌味しか言わないお前との掛け合いも実は結構気に入ってて、それはお前が、俺と対等になった証なんだよな。――アメリカ」
 目の前のイギリスは泣きそうな顔で笑った。その顔にどうしようもない懐かしさを覚える。
 ――あぁ、君は、ずっと。
 米英戦争もした、世界恐慌も二つの世界大戦も一緒にくぐり抜けてきた。
 そしてあの日、些細なことで喧嘩した。
 ずっとずっと。
 もう二度と居られるはずもなかった数百年前の大地に降り立ったあの日からずっと。
 ――俺のイギリスだったんだ。
「……ははっ」
 気づけば自分の頬が濡れている。
「仲直りするのに何百年かかってるんだろうね、俺たち」
 ぽつりと言うと、イギリスが急に笑い出した。
 折からぽつぽつ雨が降り出して、泣き笑いのようになっている。
 二人でひとしきり笑ったあと、イギリスが子供みたいな仕草で、背負っていた銃を投げ捨てた。
 まるで、それまで背中に背負っていた、重い重い何かも一緒に捨てたかのように。
「……ってか、お前、早く言えよ! なんだよ、ずっとお前子供のフリしてたのか? ばっかじゃねぇの、『イギリス!』とか言っちゃってさ、もうバカバカ、かわいすぎんだよテメェ!」
 だから自分もマネをして、マスケットを天高く放り投げた。草むらにガチャン、と盛大な音がする。
「そんなこと思ってたのかこのショタコン! あれ俺が笑いこらえるのどれだけ大変だったと思ってるんだよ! 張り切ってごちそうとか作ってくれちゃってさ、今みたいにいい胃薬もないんだから、勘弁してくれよホント! でもあんな子供の姿で『まずい』とか言ったら君がさぞ傷つくだろうなーと思って優しくしてやったんだから、感謝してくれよ」
「なんだと! にこにこ『おいしいよイギリス!』とか言って食べてたくせに、そんなこと思ってたのか! お前だってなぁ、『一緒にトイレ行こ』ってお前、こっちだって疲れてんだよ早く寝たいんだよ、一人で行けたなら一人で行けよ!」
「あれはショタコンで変態な君が喜ぶかと思って言ってあげたんだろ!」
「……ぶっ……。あーあ」
 いつの間にか雨は本降りになって、イギリスの前髪が額に貼りついている。
「だからお前変な手紙とか寄越したのかぁ……」
「手紙?」
「うちの上司に……劇場は閉鎖するなとか。あれお前知ってたんだな、そうだよな」
「結局何も変えられなかったけどね。……歴史って運命なんだなぁ」
「ダメだぞー、世界のアメリカが『運命』とか言っちゃ」
「なんでだい?」
「お前はいつも、『正義は、自分の力でなんでも変えられる』とか、青臭いこと言ってなきゃさ」
「『育て方間違えた』かい?」
「……どうだろうな」
 雨から庇うように上着を広げて二人の頭上に掲げると、イギリスはそれがすごく可笑しいことみたいにまた爆笑した。
 必然的に体は密着する。
 アメリカは敢えてイギリスの爆笑を無視して、一人しんみりした空気に浸ることにした。
「……帰ろうか」
「どうやったら帰れると思う?」
 イギリスはまだ笑っている。
「さあ? 寝たら帰れるんじゃないの?」
 来たときみたいに。
「帰ったらお前、俺のこと起こしに来てくれよ」
「やだよ。酔っ払った君の相手なんて最低」
「なんで酔っ払ってるって決めつけるんだよ」
「君いつも俺とケンカするとビール飲んでそのまま寝るだろ」
 可笑しそうに笑っていたイギリスが黙る。
 図星か。
「あーあ、明日も仕事だったんだけどな。何してたのか忘れちゃったよ」
「何百年も経ったからなあ……」
「ほんと、よくバレなかったなあ、俺。すごい演技力だったと思わないか。『イギリス♪』」
「ぐっ……やめろよ気持ち悪い。あれくらい空気読める子だったら世界は幸せだったろうに……」
「それどういう意味だい?」
「そのまんまの意味だけど」
 イギリスの顔が近い。
 メガネがなくても、よく見えるライトグリーンの瞳。
 衝動的に、目を閉じて唇を押しつけた。
















 目が覚めると、乱雑に書類の散らばった机。
 電子的に国歌のメロディを奏でる携帯電話。

{2007年 ワシントンD.C.}

 アラームを止めて時間を見る。西暦2007年。
 あ、4月19日だったのか。
 そこまで見て、耐えきれず思い切り伸びをした。
 ざっと2、300年は寝ていたかのような、そんな心地がした。

「で、結局なんだったんだろう。……夢?」
 そっと唇に触れる。
 ――なんであそこで覚めるかな。
 大して感触も味わえなかった。
 コーヒーでも飲んだら、あの飲んだくれ紳士を起こしに行かねばならない。約束通りに。
 そうしてヒーローは、眠り姫に目覚めのキスをするのだ。















しがつのうた

The END
















 一部問題発言がありますが、正しくは「俺の(歴史の)イギリスだったんだ」です(笑)。


(2007/9/16)



あとがき(四月の詩と共通)
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