「待ってよ」
 アメリカの声に呼び止められて、歩を止める。
 ゆっくり振り向くと、暗闇でよく見えなかったが、確かにアメリカだとわかる。
 間違えたりなどするものか。
「何それ、スパイ活動の途中かな?」
 植民地兵のような、ラフな格好。
 別にそんなつもりはなかった。
 できるならばアメリカと正面切って戦うのを、少しでも遅らせたかっただけで。卑怯なのかもしれない。
「……お前に銃を向けたくない。……まだ」
「向ければいいじゃないか。俺は君を裏切った、反逆者だぞ」
 それを聞いて軽く目を見張った。
 裏切ったなんて、そんなことは自分が勝手に喚いていたことで、アメリカまでそう思っているなんて夢にも思わなかった。
 彼はこの行為に対して、罪悪感など微塵も抱いていないのだと思っていた。
 イギリスの勝手な感傷と、それが裏目に出て意地を張った――いつもそうだ――結果の、当然の報い。
「『裏切った』か……。そんなつもりはなかったって、お前散々言ってたじゃないか」
 こんなことを言ったって、目の前のアメリカは知る由もないのに。
 言わずにはいられない。
「は?」
 独立後になっていつまでも「裏切った」と責め続けるイギリスに、ほとほとうんざりしたように、アメリカはいつだって言うのだ、「裏切ったなんて勝手なこと言わないでよ、俺は別に、君と『どんなことされてもずーっと忠誠を誓います』なんて約束した覚えはないぞ」と。
「お前はただ、自由になりたかっただけなんだろ」
 今更こんな理解者ぶったことを言ってみても、歴史は何一つ変わらない。
 ルイジアナは直轄領になったし、砂糖法も印紙法もタウンゼンド諸法も、一度は効力を持った。うちの茶しか買うなと、無理を言った。
「……なんで」
「お前は大きくなったよ、本当に」
 身勝手だって、わかってる。
「なんで君が、ッ」
 でも言わせてほしい。
「ごめんな」
 戦争を間近に控えての謝罪に、アメリカが息を飲んだのがわかった。
「でも俺は、お前に嫌がらせをしたくて、今まで色んなことをしてきたわけじゃないんだ」
 こんなのは言い訳だ。
「昔も今も、ただお前と、ずっと一緒にいたいと思っ……」
 ――こんな安っぽい言い訳でお前がつなぎとめられるなら、苦労なんかしなかったのに。
 まだ足掻いている、浅ましい自分。
「俺は確かにお前の言うとおり、自分のことしか考えてない、醜い奴だったよ」
(正義正義ってお前は、少し総合的にものを見ろ! 相変わらず単純バカだな! だからいつまで経っても子供だってい――)
(正しいことをしようって言って何が悪いんだよ! だいたい君は昔から、いい人ヅラして裏であくどいことばっかりやって、結局自分の利益しか考えてないんじゃないか。あぁ、醜い醜い、君のそんなところが昔から大っ嫌いだったよ!)
「アメリカ」
 やけ酒して寝たあの日。
 何でもない嫌みの応酬。いつも通りの、些細なケンカ。
 あぁ、あの日に無事帰ることができたなら、アメリカに謝りたい。
「なんで、お前が泣いてんだよ」
 アメリカが何も言わないので、ふと顔を上げると、もう相貌はよく見知った大人のアメリカと大差ないのに、どこか子供じみたアメリカが、ぽろぽろ涙を流していた。
「……嘘だよ」
 何が、と聞こうとしてやめた。
「大嫌いだったなんて、嘘だよ」
 ――ばかだな。
 いつの間にか自分は、この若いアメリカとあの小憎らしいアメリカを混同してしまっていた。
 ――お前はこんなにひどいことをした俺に、「大嫌い」なんて言ったことないじゃないか。
 いつだって我慢して笑って、独立するまで、ずっと、ずっと。
「……『大嫌い』なんて、お前そんなこと、俺に言ったことあったか?」
 独立してから、そんなひどい嫌味をいっぱい言うのは、今までずっとずっと溜めこんできたからなんだろう?
 アメリカは力強く首を振る。
 きらきらと、透明な粒が砕けて散った。
「いっぱい言った。でも全部ウソだよ。意地張ってただけなんだ。君を裏切るつもりなんかなかったのに、君をいっぱいいっぱい傷つけて、正しいと思ったから独立したはずなのに」
 何を、何を言ってるんだ。
 変なアメリカ。
 お前はまだ独立してないし、俺に銃も向けてない。それは全部明日の話。
 目の前の青年が、自分に罵声を投げつけた小憎らしいアメリカの顔と重なる。
「君がどんなに俺を大事にしてくれてたか、ちょっと考えればわかったはずなのに、こんな、こんな――過去に来なきゃわかんなかったなんて」
「……ッ」
 あめりか。
 ああ、君とケンカしてビールを煽って妖精相手に汚い言葉をいっぱい吐いて、お気に入りのベッドにもぐりこんでそのまま泥のように眠ってホントに泥になってしまえればいいのにと思いながら、涙も拭かずに鼻水もすすり上げずに胎児のように縮こまって、目を開けたら大事なものが全部失われる気がして、ただあの頃に思いを馳せた――あめりか――広い広い未開拓の大地で、道はでこぼこの砂利だらけで、変な動物がいっぱいいて、たまに見慣れない人間もいて、それでも君は笑っていた、つないだ手が温かくて頼りなくて、ホントに生まれて初めて生きていてよかったと思った――あめりか――あの頃がただ懐かしくて恋しくて狂おしくて、別に戻りたいと願ったわけじゃなかったのに、目が覚めたらそこにいて、こんなの現実逃避で間違っていて、自分はあの悲劇を決して忘れてはいないのに――苦しいだけで、あぁ、あれから何百年経った?
 思い知ったのは、君との齟齬は決して避けられないものだったということ。
 こんなに苦しい思いをしてなお、生きて君とともにありたいと思う――。
 ただ君は自由になりたかっただけなのだ、自分はひたすら目を背け続けた。
 現実を見ろ。
 あめりか。
 息が苦しくて、このまま死んでしまいそうだと思った。頭がガンガンする。
 でも、今聞いたのは決して幻聴ではない。
 大ばかだ、俺は。
 ――お前も、同じだったのか。
「――俺も過去に来てわかったよ、アメリカ」
 絞り出すように言った。
 ――間違ってないよな?
「俺はほんとに、自分のことしか考えてなくて……いつまでも俺を慕ってる小さな子供だと思ってたお前から銃を向けられて、すごくショックだったんだ。信じられなくて信じたくなくて、神はなんてひどいことをするんだろうって、ずっとお前もこの歴史も恨んでた」
 幸せだった、ああ確かに幸せだった。
 でももう戻ってこない。
 今まで心のどこかで信じていた、でも戻ってこない。
 それがわかった、わかってしまった。
 お前の気持ちも。
 ――ならば現実を受け入れなければならないのは、俺の方だ。
 現実からもう一度、幸せを作り出そうと足掻かなければならないのは、俺の方。
 本当は、いつだってそうやって生きていかなくてはならないのに。
 ――何もかもお前と運命のせいにした。
「でも、俺は今の、嫌味しか言わないお前との掛け合いも実は結構気に入ってて、それはお前が、俺と対等になった証なんだよな。――アメリカ」
 そう言って、自分が笑えたことに、イギリスは幾分か安堵して、耐えきれずに泣いてしまった。
 ――あーあ、かっこ悪ぃ、俺。
 昔も今も、アメリカに嫌われたくなくて必死なんだ。
「……ははっ」
 アメリカが笑った。その頬はわずかに濡れている。
「仲直りするのに何百年かかってるんだろうね、俺たち」
 折から雨が降り出して、ああ、だからアメリカの頬も濡れているんだと思うと、なんだかすごく可笑しかった。
 自分を見上げて笑った子供も、自分を見下して「大嫌い」だと言った彼も、みんな一人の、イギリスの大切なアメリカだった。
 どうしてそれがわからなかったんだろう。
 二人でひとしきり笑ったあと、やけに肩が重かったので、申し訳程度にかついでいた銃を、乱暴に放り投げた。
 ひどく肩が軽くなった気がした。
「……ってか、お前、早く言えよ! なんだよ、ずっとお前子供のフリしてたのか? ばっかじゃねぇの、『イギリス!』とか言っちゃってさ、もうバカバカ、かわいすぎんだよテメェ!」
 アメリカも、マスケットを天高く放り投げた。草むらにガチャン、と盛大な音がする。
 それが余計に可笑しくて、自分はますます笑う。
「そんなこと思ってたのかこのショタコン! あれ俺が笑いこらえるのどれだけ大変だったと思ってるんだよ! 張り切ってごちそうとか作ってくれちゃってさ、今みたいにいい胃薬もないんだから、勘弁してくれよホント! でもあんな子供の姿で『まずい』とか言ったら君がさぞ傷つくだろうなーと思って優しくしてやったんだから、感謝してくれよ」
「なんだと! にこにこ『おいしいよイギリス!』とか言って食べてたくせに、そんなこと思ってたのか! お前だってなぁ、『一緒にトイレ行こ』ってお前、こっちだって疲れてんだよ早く寝たいんだよ、一人で行けたなら一人で行けよ!」
「あれはショタコンで変態な君が喜ぶかと思って言ってあげたんだろ!」
「……ぶっ……。あーあ」
 いつの間にか雨は本降りになって、すっかり濡れ鼠の様相を呈している。惨めなことこの上なかった。
「だからお前変な手紙とか寄越したのかぁ……」
「手紙?」
「うちの上司に……劇場は閉鎖するなとか。あれお前知ってたんだな、そうだよな」
「結局何も変えられなかったけどね。……歴史って運命なんだなぁ」
「ダメだぞー、世界のアメリカが『運命』とか言っちゃ」
「なんでだい?」
「お前はいつも、『正義は、自分の力でなんでも変えられる』とか、青臭いこと言ってなきゃさ」
「『育て方間違えた』かい?」
「……どうだろうな」
 ぽつりと返した。もうどうでもよかった。
 アメリカは、アメリカだ。
 アメリカはおもむろに上着を脱ぐと、大きく広げて、自分もろとも頭上をすっぽり覆った。
 必然的に体は密着する。
 その背が自分をわずかに超えていることに気づいて、もう爆笑するしかなかった。
 ――アメリカ、アメリカ。
 いくつになっても愛しい弟。
 ――お前はこれからも、世界に羽ばたいて、大きな夢を描き続けるだろう。その分、大きな失敗もたくさんたくさんするだろう。
「……帰ろうか」
 さあ、俺たちの歴史に帰ろう。
 言った声がやけに大人びていたから、また笑った。
「どうやったら帰れると思う?」
「さあ? 寝たら帰れるんじゃないの?」
 来たときみたいに?
「帰ったらお前、俺のこと起こしに来てくれよ」
 愛すべき現代へのウン百年ぶりの帰還。考えただけでうんざりすることが山積みだ。仕事とか、仕事とか仕事とかアメリカとの仲直りとか。
「やだよ。酔っ払った君の相手なんて最低」
「なんで酔っ払ってるって決めつけるんだよ」
「君いつも俺とケンカするとビール飲んでそのまま寝るだろ」
 図星だ。
 ――いつからか俺は現実を知って、壮大な夢を描くのをやめてしまった。
 子供の頃に描いていたはずの、冒険とスリルと、大きな大きな希望に満ちた世界地図は残酷に塗り替えられて、もはや空想の余地はない。
 夢と現実の乖離を、酒を飲んで、テレビを見て、くだらないことを考えては紛らわし、毎日なんとかやり過ごす。
 それでも、そんな煤けた大人――二度と成長しない子供ともいうかもしれない――には大人なりの、幸せがあるのだと知った。
 大丈夫、この胸の中にはあの若き日の、きらめきもときめきもまだちゃんと残っている。しがみつこうとしなくたって、それは絶対に消せないもの。
「あーあ、明日も仕事だったんだけどな。何してたのか忘れちゃったよ」
 そうぼやいたアメリカもたぶん、昔のように無邪気なだけの子供ではない。
「何百年も経ったからなあ……」
「ほんと、よくバレなかったなあ、俺。すごい演技力だったと思わないか。『イギリス♪』」
「ぐっ……やめろよ気持ち悪い。あれくらい空気読める子だったら世界は幸せだったろうに……」
 気持ち悪い、と何気なく言えた自分が、少し誇らしかった。
 もう、大丈夫だ。
「それどういう意味だい?」
「そのまんまの意味だけど」
 アメリカの顔が近い。
 じっとこちらを見つめる、レンズを越しでない青い光。
 見つめていると、唐突に唇を奪われた。
 目を閉じた端正な顔に、過ぎた百余年の歳月を思う。言いようのない気分になって、こちらも静かに目を閉じた。
















 目が覚めると、レンズの向こうに青空色の澄んだ目。
 一回り大人になった、大事な弟。


「おはよう。アルコールは抜けたかい?」
 揶揄するような響きにゆっくり体を起こして伸びをする。
 ――ホントに起こしに来たのか、コイツ。
 ざっと2,300年は寝ていたかのような、そんな心地がした。
「なに、朝からニヤついてんだよ、気色悪いな」
 約束を破らないまでに成長したのは偉いが、この態度はいただけない。
「いや、君にとっては一度だったかもしれないけど、俺にとっては二度だったから」
「何が? 歴史なら俺も繰り返して――」
「それじゃないよ」
 そう言ってアメリカが嬉しそうに笑うから、よくわからないけど何だか損した気分になった。















四月の詩

The END
















 何が二度目だったかって、キスが。実はキスして起こしています↑


(2007/9/2)



あとがき
BACK








Copyright(c)神川ゆた All rights reserved.
http://yutakami.izakamakura.com/