※お酒の飲めるメリカがいますので、苦手な方はご注意ください。 The f--king *** 薄暗いバーの中、ざわめく声は地中を蠢く魑魅魍魎のように、確かに気配は感じても、会話を阻害するほど喧々としたものでもない。オレンジの照明の、ちょうど真下に物憂い顔で腰かけ、濃い影をその顔に落としていたのが他ならぬあのアメリカであると気づいた時、ロシアは自分でもよくわからない困惑に襲われた。それでも、顔にはいつも通りの深い穏やかな笑みを湛え、今更不自然に方向を転換するでもない。 「……ひとり?」 やや迷って、まるで関係の良好な同僚に偶然会ったかのような常套句を吐いた。相手はその上滑りの挨拶を嗤うように口元を歪め、無言で席を一つ移った。まるでロシアにその席を促すかのように。 「ご覧の通りさ」 アメリカの目の前の、少し古臭い西部風の、どうということはない木製の長テーブルには、ビールの小瓶がぽつねんと鎮座しており、飴色の口はてらりとロシアの視線を受け流した。対面には年嵩の男女が一組、天井を掠めるようにかすかに流れるジャズに耳を澄ませる風で寄り添っている。 アメリカはまるで「今日はお供は一緒じゃないのかい」という問いを呑み込むかのように、ぐびりと小瓶に口を付けた後、「何か飲む?」と珍しく気を利かせた。 ウォッカを、ストレートで、と店員に告げ、次いで、からかうような軽い視線をアメリカに移した。そうでもしなければ、なんだかおかしなことを考えてしまいそうだと思ったのは、ぴちりと糊のきいた真っ白なシャツから覗くアメリカの首元、耳、頬と続く、普段は雪のように白いそのラインが、アルコールのためか既にほんのり赤く染まっていたからかもしれない。いや、よく見れば清潔感に溢れたシャツには薄い青のストライプが入っているのだった。薄すぎず厚すぎない生地は、その下に覆われた、筋肉質とも肥満気味ともいえる肢体の様子を、まったくといっていいほど浮かばせない。冷淡なほどに澄ました未亡人のようだと思った。 それでも、見た目ほどには酔っていないらしかったアメリカは瞬時にその視線の意味を悟り、ごん、とやや乱暴な音を立てて小瓶をテーブルに置いた。 ウォッカのグラスを持って現れた店員を遮って、テキーラ二杯、と明るく宣言してみせた、精悍な体躯を清潔なシャツの下に押し隠した少しばかり年齢不詳の若者を、ロシアはまじまじと見つめる。かしこまりましたと引き下がった店員を見送って、振り返った青い瞳は陽光を受けた湖のようにきらり輝いた。楽しそうだな、とどこか他人事のように思った。 俺だってお子様じゃないぞ、試してみるかい、と眼鏡の奥の湖水は雄弁に語っていた。 どういう風の吹き回し、とは聞かなかった。それで、ロシアはこの若者がどういう経緯でこんな落ち着いた店で一人、炭酸もアルコールも薄い水みたいなビールの小瓶を傾けていたのか知らないままだったが、それで構わないと思った。数ヵ国が集まる会議を終えた夜のアメリカは、いつだって日本やイギリスを引き連れて、わいわいと騒ぐものだと勝手に思い込んでいたが、そうでなくたって別に問題などないのだ。 自分とアメリカの間に、何もかも把握する必要などはきっとない。 会話もなくお互い背もたれに身を預け、雰囲気に身を浸すように黙り込んでいると、ひどく心地がよかった。アメリカは半分ほど残った麦酒を、もう完全に放棄してしまったらしかった。次に店員が来たなら下げてもらおうと頭の隅でちらり考える。余った時間で、アメリカなどとはまったく関係のない、一人でいたってできるような、とりとめもないことを考えた。 相手も同じだったかどうかはわからない。ただ、たっぷりと時間が経って、ふと、自分と同じく白いは白いが、やけに血の巡りも自己主張も強い顔がこちらを向いたのを感じたとき、親指程度の小さな小さな円筒形が二つ、ことりと自分たちの目の前に運ばれてきた。何の彩色も施されていない、シンプルな中に存分に意匠を凝らされた白が美しい小皿へ丁寧に並べられた、わざとだろうやや厚めのライムスライス。白い粉を詰めた、何の飾り気もない調味料用の小瓶。 何を言う間もなく下がっていった店員の手にはちゃっかりあの飴色のボトルが握られていて、それで、気づかぬうちにアメリカが何らかのサインを出したのだろうと思った。店員の穿き古したジーンズとくたびれた黒いシャツに、故郷にはない不思議な安らぎを感じる。 何気なく、見えない力に引かれるようにしてぶらりと入った、ここはいい店だとなんとなく思った。 甲を上にした、大きくも小さくもない中途半端な手をうっそりと持ち上げ、親指の付け根にアメリカがさらりと零した塩化ナトリウムのかけらは、薄暗い照明の下でも、思ったより大きな結晶なのだと今更ながら、どうでもよい発見に少し驚く。ぱちりと湖水のほとりで羽ばたく金の睫毛に促され、同じように塩の小瓶を手に取った。ざらり、手のひらを滑った結晶のいくつかがテーブルの木目の間に落ち込むのを、興奮気味に見届けた。 「Cheers」 生意気そうな舌がちらちら覗く、よく回る口が静かに告げた。こちらを誘い込むように巻き込まれた舌に載せられた音が、耳の奥を引っ掻くようにいつまでも響く。澄ましたクイーンズイングリッシュが耳を突く、イギリスくんのものとは全然違う、なんて意識の片隅に思う。口の中で全部溶かしてしまうような、遊び慣れた娼婦のような耳障りだ、なんて何の根拠もない評価をつける。他に表現のしようがないといえばあんまりで、ロシアは珍しくも、静寂と薄闇が心地よいこの雰囲気に、凍りつくことに慣れ切った思考回路が、鈍って麻痺しているのだとあたりをつけた。零れそうなほどなみなみ透明な液体が注がれた小さなグラスをかちり合わせ、わずかに親指に零れたアルコールがふわりと蒸発するちりりとした冷たさと、その甘くまろい舌先の音楽の余韻に浸るようにして、べろりと反対の手の上に振り撒かれた塩を舐め上げた。喉を収縮させるしょっぱさは果たして工学的過程を経て精製された塩化ナトリウムのものか、それともじわり肌の表面に浮かんだ汗のものか、判断に困るうちに、ぐいと思い切り煽ったアルコールが脳を突き刺すように、胃の奥へと一気に駆け抜けていく。飲み慣れぬ臭みを、我先にと手を伸ばしたライムの果肉に齧りつくことで紛らわし、ようやく現実世界へ戻ってきた心地がした頃、お互いに、深く伏せた睫毛越しに、こっそりと息を潜めるように視線を交わし合った。それは驚くほど熱く、しっとりした眼差しだった。 普段から嗜んでいるウォッカの量を鑑みれば、アルコール分のそれほど変わらぬ蒸留酒とはいえ、それはまったくお話にならない量だったが、それでも、二人の間に漂う空気を酔わすには十分だった。 やや苦い、鮮烈な果実の味を同じく存分に載せて濡れたあの唇を思う存分貪って、あの舌を今すぐに絡め取ってやれないのが、なんだかひどく不合理な気がした。そんなロシアの不躾な視線を感じてか、それともまったく気にとめないのか、それともこれっぽっちも思い至らないのか、アメリカはひどく楽しそうに、生娘のように無邪気な笑い声を上げた。 強引に腕を掴んで立ち上がらせ、分厚く野暮ったいコートの内ポケットから捻り出したぐちゃぐちゃの十ドル札を、何枚かなんて数えることもなしに叩きつけて、半分地下に潜ったところにあるその店を抜け出した。強く握った腕を覆った綿は、やはりやや硬く二人の肌を隔てていた。 引きずられるようにして暗い夜の街を歩きながら、後ろでアメリカは「はははは……」とばかみたいに笑い続けていた。 会議の参加国用に宛がわれたホテルへ戻ってもいいと思ったが、それでは知り合いにばったり出くわす確率が格段に高い。もしもそんなことになったなら、今二人の間に漂うこの秘め事めいた狂気はたちまちに霧散してしまうだろうと本能が告げていたから、ロシアはそのまま、見も知らぬ小道を小道をと選んで足を進めた。迷って帰れなくなったって構わない、その時は、タクシーでも何でも拾えばいいだろう。この街を知り尽くしているはずのアメリカが、その段まで隣にいるなんてのは到底信じちゃいなかったが、いくらかかったって、田舎者の自分がぼったくられたって構わないのだ。 「どこいくんだい、イヴァン」 わざとだろう、すっかり酔っ払ったようなバカみたいな舌使いで笑い混じりに揶揄を上げたアメリカが、わざわざそちらの名を選んだのは、電気の落ちた、古びたアパートメントばかりのその道に、それでも二、三人の若者がたむろして楽しげにビールの大瓶を煽っているのが見えたからだろう。 彼らが揃いもそろってTシャツの袖から、逞しい腕を覗かせているこの季節に、不釣り合いなマフラーと足下まで覆うコート。それでも、頬を刺す風は却って冷たいくらいだった。きっと自分の肌の方が、どうしようもないくらい熱くなっているのだろう。 ちりり、と頭上の街灯が点滅したのを皮切りに、薄笑いを浮かべたままの憎らしい青年を強引に抱え込んで、無理矢理口づけた。目を閉じて、何の味もしない柔らかな肉の感触に身を委ねると、もうそれで何でもよかった。 背後でちらりと罵声のようなものが響いて、やがてその喧騒も遠ざかっていく。外国人のロシアにはっきりと聞き取れる類のものではなかったが、何を言っているのかは大方見当がついた。もしも自分たちが絵に描いたような美男美女のカップルだったとして、それでも彼らは罵ったのだろうから、同じことだ。 アメリカは何の抵抗もしなかった。薄く唇を開きロシアの流感じみた衝動を受け入れたどころか、その腕を静かにロシアの背中に回しさえした。 こうなることを、きっと始めから予測していたのだろう、お互いに。 ひどく陳腐なお遊びだと自嘲を漏らす間もなく、このまま永遠に口づけ合っていたって構わないと思った。 ロシアもアメリカの背に手のひらを這わせ、その鼓動を探るようにまさぐった。きっと明日になったら忘れているのに、愛し合う二人のように身を寄せ合ったことなど。 荒い息の合間に、ライムの香りが漂う気がした。 (2010/4/17)
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