※事後です。 Спокойной ночи シャワー室のドアがガタン、と開く音がして、ちらりと顔を向ければ、開いた扉からもくもくと湯気が逃げ出してくるところで、しかしながら中にいたはずの人間の姿はまだ見えなかった。ややあって、乱暴に色素の薄い頭を拭きながらぬっと出てきた影があったので、アメリカは慌てて顔を戻す。 一足先にシャワーを使ったアメリカは、濡れた髪もそこそこに、ぐしゃぐしゃのままのベッドへうつ伏せになって、暇を潰しているところだった。二つ重ねた枕は机代わり。開くのはペーパーバックでも会議の資料でもない。革張りの表紙が手に心地よい、デザイン性と機能性を兼ね揃えた愛用の手帳である。 「何書いてるの」 こっちも見ずに、ベッドの縁に腰かけたロシアが、勝手にベッドサイドのテーブルランプの光量を上げながらお義理のように問う。ついでに、その傍にぽんと放り出されていたアメリカの眼鏡を畳んだらしき音がした。 仕事に関することであれば文字通り国家レベルの機密情報を取り扱うことの多い二人であったから、視線を向けないというその作法は大変マナーに満ち満ちていると言えた。しかしながらアメリカには、ロシアは単に興味がないだけなのだとわかっていたけれど。 「ひみつ」 どうせ食いついてはこないのだろうと予測しながら、アメリカもお義理のように意味深に返した。 子供のようにばたばたと足を振ると、タオル地のバスローブの裾が膝まで下がる。 「ふーん」 案の定ロシアはしっかりと髪の水滴を取ることに忙しいらしく、残念そうな演技すらしてみせない。それはついさっきまで一つのベッドで重なり合っていた直後としては、ややマナーに欠けていた。そもそも彼にそんな気遣いを期待してもムダなのであるし、アメリカ自体もそんな風にわざとらしい態度を取ってほしいわけではないから、別段それで問題はない。 下着一枚の、惜しげもなく素肌を晒した姿は、普段は厚着の彼についていえば大変珍しいものだ。落ち着いた長めの髪が、水を吸い、こんがらがってあちこちに跳ねているのを見るのも。それをじろじろ眺めることもせず、アメリカは再び手元に集中した。 ホテルの部屋にはベッドが二つ鎮座していたが、奥のベッドはぴっちりと清潔なシーツに包まれたまま、手つかずの状態である。落ち着きのないアメリカの足を捉えて、あっちに寝たら気持ちいいのに、と薄く笑ったロシアに「このニオイをまだ感じていたかったんだ」などとは口が裂けても言えずに、アメリカは「なんとなく」と答えた。どうせロシアがこちら側に腰かけたのだって、単にバスルームから近いから、というそれだけの理由に決まっていたので。 やがて再び立ち上がったロシアは自身もバスローブを纏うと、壁にかけてあったコートから、自前のウォッカを取り出した。グラスに移すようなこともなく、一口煽る。きっとそろそろ彼の体内のウォッカが「切れる」時間だったのだろう。昔はそんなロシアのアルコール中毒ぶりを改善すべくずいぶんとうるさく口を出したものだが、やがて悟った。お互い無理をせずに、長いあいだにすっかり染みついてしまって直しようのないお互いのやり方を尊重するのが、一際我の強い自分たちが、一晩だとかその程度のごくごく短い時間にせよ、うまくやっていくコツなのだと。 それから、バスルームを整理しようというのか、再びそちらでゴソゴソいう音が響く。戻ってきたロシアは、テーブルの上にぐしゃりと丸めてあったアメリカの分のバスタオルを取り上げて、再びベッドの縁に腰を下ろしたのだった。どうやら目的は、時折ぽたりと水滴を落とすアメリカの髪を拭き直すことらしかった。 「ちょ、痛い」 「これでも優しくしてるんだよ」 「髪が抜ける」 振り払うと、隠そうともしなかった手元についに視線がいったらしい、ロシアはバスタオルを椅子の背に大きく広げてかけながら、不思議そうに首を傾げた。 「なぁにそれ、珍しく真剣に何か書いてると思ったら、変な絵」 ようやくこちらを向いたパープルの虹彩に内心満足して、アメリカはきらりと瞳を輝かせた。ロシアの反応が楽しみで、シャワーの音を聴きながらわくわくしていたことなんて、この男は知るまい。 ロシアの眼前に突き出すようにして、広げた手帳を高く掲げる。 「似てるだろ!」 罫線を無視して描かれたのは、デフォルメされた二つの顔。 「何に?」 「君だぞ」 「僕?」 ロシアはぱちくりと子供のように大袈裟に瞬きを繰り返した。濡れた髪がぼさぼさのままだから、そんな風に見えるのかもしれない。 「……これが僕だとしたら、ちょっとその手帳二冊になるけどいいかな」 ああ、これは機嫌が悪くなったときの顔だ。 にこにこ笑ってはいたけれど、いい加減わからないアメリカではない。にょっと伸びてきた腕から逃げるように、手帳を引き寄せる。 「いいじゃないか、クールだろ」 「僕そんな変な顔じゃないよ」 「かっこよく描いてあげたのに」 行為の余韻が残るからだを意識しながら描いた、いわば「想いがこもった」なんて我ながら笑えるけれど、とにかく今日の似顔絵は自信作だった。 マフラーをなびかせたロシアの絵の横には、眼鏡をかけたクールガイの顔。もちろん世界のヒーロー、アメリカだ。 ロシアが覗きこむ横で、「ロシア」の横に噴き出しをつける。中には「I LOVE U」と大きく書き込んだ。 「やめてよ、そんなこと言わないよ」 「いいんだよ」 そして「アメリカ」の噴き出しには「ME TOO」と。 ロシアが嫌がっているのをわかっていて、アメリカが品なく笑いながら悦に入っていると、むすっと目に見えて機嫌を悪くしたロシアは、突然上半身を重力のままに落とすという行動に出た。むろん、アメリカの背中めがけてである。 「重い! 潰れる!」 ぎゃあ、と蛙の潰れたような声を出したのがいけなかったのかもしれない。調子に乗ったロシアはアメリカの上で向きを変え、ぴったり体を重ね合うようにますます体重をかけてくる。がっしりとアメリカの肩を掴んで逃げられないようにした挙句、唐突にがぶりと右耳を噛んだ。 「ちょ……っと、やだって」 先程散々つながったばかりで、もうおしまいとシャワーまで浴びたというのに、一体この男は何のつもりなのだろう。アメリカの方も、いつまでも行為の余韻を残すベッドの上にだらだら居座っていたのもいけなかったけれど。 アメリカが強いていやらしいことを考えないように努力している横で、ロシアの方はまったくそんなつもりはありませんとでも言うようにあっけらかんと、それでいてからかうようにねっとりと、耳に注ぎ込んだ。 「あいしてるよ」 I LOVE U! 手の中のロシアがまっすぐアメリカを見つめている。背中には存在感のありすぎる重み。 うわぁああああ。 「……俺も」 自分の筆跡なのに、何をこんなにドキドキしているんだろう。バカみたいだ。きっと顔だって真っ赤になっている。 これじゃアメリカが言わせたみたいだ。そしてまったくその通り。 言い様のない決まり悪さに内心悶えていると、肩口からにょっと、自分のものでない腕が伸びてきた。 「じゃあそんなラクガキ、破り取って僕に渡して。没収」 そういうロシアの声もずいぶんと決まりが悪そうで、アメリカの心をじわりと高揚感で満たしていく。 欲しいなら最初からそう言えばいいのに。それに、ロシアが望むなら何枚だって描いてやる。そうしていつか、ロシアの家で、アメリカ生まれのファンキーでポップな現代アーティスト、アルフレッド・ジョーンズの個展が開けるくらい。 そんなことを口に出したら渡した瞬間真っ二つに裂かれてしまうことは目に見えていたので、アメリカは敢えて不承不承といった風で紙片を手渡した。 始めから、ロシアにあげるつもりで描いたのだから、ちゃんと彼の手に渡らなければ、紙の上の平べったい「恋人たち」もかわいそうだ。 「こういうくだらないの、その辺に描いて放置しないでよね」 よいしょ、とご丁寧に弾みをつけて起き上がったロシアは、「没収」した紙片をカバンの中に念入りにしまい込んだらしかった。 「じゃあ君の前でだけ」 もう圧しかかられないように、と端に寄ってロシアの分のスペースを開けながら、アメリカも手帳とペンを、ちゃっかりベッド脇に引き寄せておいた自身のカバンに乱雑にぶち込む。 あくびをかみ殺してもぞもぞとかけ布団に潜り込んだ。そろそろ眠い。いい運動して疲れたし。 「いやだよ、その絵見るとイライラするもん。僕の顔じゃなかったらいいけど」 「いいじゃないか、当代きってのアーティスト、アメリカ様に似顔絵を描いてもらえるなんて貴重だぞ」 「君がそんな風に一生懸命僕の顔描いてるとね、ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。絵も君も」 「ぐ……」 俺ならぐちゃぐちゃにしてくれてもいいんだぞ、とは言えるはずもなく、言い淀んだアメリカの視界はいつの間にか迫って来ていたロシアに遮られる。唇がくっついた瞬間に、ぱちり、とベッドサイドのランプも落とされた。 (2010/2/9)
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