※モブ視点です。シーラトのネタバレがありますのでご注意ください。 an unlucky cool guy 俺はその日、とぼとぼと雨の中を歩いていた。 学校が終わってすぐ、バイト先のコーヒーショップに向かう途中だった。突然の雨で、始めは小降りだったこともあって、このニューヨークの街を行き交う忙しない足取りの人々は、傘を持たず、首を襟元に埋めるようにして歩いているのが多かった。 俺はといえば、車だから、とにこやかに笑ったガールフレンドが貸してくれたオレンジの傘を、わずかな気恥ずかしさと葛藤しながら使わせていただいていた。顔を隠すように前に傾けると視界が狭くなる。ざああ、と耳を打つ水音は、道路に溜まった水を車が跳ね上げる音だ。 傘をまとめるベルトにちょこんとついた小さなボタンは、ひまわりをあしらったものらしかった。こんなとこクラスメイトに見つかったら、何てからかわれるかわかったもんじゃない。俺とガールフレンドはつい三日前に付き合い出したばかりで、ガールフレンドはチアリーダーのキャプテンだった。 学校中に轟いてもいい噂が、未だに狭い範囲で燻っているのは、俺としてはとても不思議なことだった。けれど無理もないのかもしれない。俺ってきっと元はいいし性格も明るく朗らかで、ひとたび喋れば女の子には大人気なんだけど、生まれ持った視力の悪さが、第一印象をいくらか残念なものにしていた。左右違うひどい乱視で、コンタクトレンズも使えやしない。 今日も水滴が跳ねてちょっぴりダサいことになっていた目の前のレンズにため息をついて、フレームを押し上げる。暖かいバイト先に辿りついたら、きっとまた曇るぞコレ。笑われるんだよなぁ、やだなぁ。 なんてことを考えながら、信号の前まで辿りつき、俺は交差点内の状況を確かめるべく、前傾させていた傘を持ちあげた。すると、ふわり広がった視界に、灰色の大きな傘が飛び込んできた。持ち主はひどく背の高い、体のがっちりした男だ。そう寒くもないのに、ひどく古めかしい厚手のコートに脚元まで覆われて、長いマフラーが背中に垂れているのが見える。 このニューヨークには色んな人がいるから、それくらいの奇抜さは特に注意するに値しない。体感温度ってほんとに人によって違うんだよなってのがよくわかる。俺にもカリフォルニアから出てきた友達がいるが、いつも俺より一枚は多く着込んでいる。 その大柄な体の脇から覗き見るようにすれば、信号は赤だ。青に変わるまでにはずいぶん時間があるようだった。 俺はつい、暇な時のクセで、たたん、と地面を踏み鳴らした。すると目の前のその大男がゆっくりと振り返る。 真っ白な肌の柔和そうな顔は、しかしなぜだか、一瞬ぞっと俺を震え上がらせた。禍々しい夕暮れ時の空のようなパープルの瞳と、作りもののような薄すぎる金の睫毛が、薄気味悪く見えたからかもしれない。 「ちょっと訊きたいんだけど」 俺に向けて、話かけている。なぜだか俺は、店にどんな強面の客が来た時よりも緊張していた。握りしめた傘の柄に縋るようにして、わずかに後ずさる。できるならこのまま他の人にターゲットを絞り直してくれるとありがたいんだけど、なんて俺はチキンなことを考えながら、敢えて目をそらすように脚元を見つめた。 彼はそんな俺の反応など慣れ切っているというように、わずかに目を眇めただけで、俺の視界に向けて有無を言わさず一枚のメモを差し出した。そこには、ここから程ない通りの名と番地が記されていた。 「ここに行きたいんだぁ、でも迷っちゃって」 語り口はどこまでののほほんとしている。俺はさっさとこの男から逃げてしまいたくて、早口に道を教えると、信号が変わったのを幸い、左右の確認もそこそこに、さっさと道路を渡ってしまおうとした。 しかし、一歩を踏み出したところでかけられた言葉に、思わず脚を止める。 「君って、アメリカくんに似てるね。ちょっと首触ってもいい?」 アメリカくん? 誰だ? 変な名前だが、よほど愛国心や愛郷心に満ち満ちた親なら、つけないこともないかもしれない。俺自身の知り合いにはそういうちょっとかわいそうな熱すぎる名前をつけられた奴はいなかったが、そもそも我が合衆国を抱くこの大陸に冠せられた「アメリカ」という名も、イタリア人の名前から取られたという話があった気がする。ならば、あるエスニックグループの中では、ごくごく普通の名前なのかもしれなかった。しかし残念ながら、彼が言及した名前は大陸ではなく、合衆国という意味にまで言及するものだったので、やはり「熱すぎる名前」の方なのだろう。 そんなことよりも、それまでにこにこと無害そうに微笑んでいた(表面上は!)顔が、まるでメデューサのように俺の足を地面に縫い止めたので、俺は喉の奥でヒッとひきつった音を漏らしてしまった。みっともないけれど、今すぐ誰でもいいから周りの通行人に助けを求めたいほど怖かったのに、それきりちっとも声が出ない。びりり、と身を刺すような、狂気じみた憎悪にも執着にも似た強烈な感情が、俺に向けられていると本能的に感じた。 手袋に覆われた大きな手が、むき出しの喉元に迫ってくるのが、液晶の向こう側の出来事のようだ。がちがちと鳴る歯の根なんてものを生まれて初めて経験しながらも、「あぁ、俺はいまここで死ぬんだなぁ」なんて、どこか遠ざかったような雨音を聞きながら他人事のように思った。 手袋ごしだというのに氷のように冷ややかな手が俺の喉笛に触れた瞬間だった、鋭い声が、現実逃避に走っていた俺の意識を、このニューヨークの煩わしい雑踏の中に引き戻したのは。 「ロシア!」 気づけば俺のオレンジの傘は、俺の手を離れ、ことりと地面に落ちていた。行き交う通行人が煩わしそうに眉をひそめ、大きく広がったその傘を避けて、あるいは蹴っ飛ばして足早に、変わり始めた信号に急き立てられるようにして駆けて行く中、今月のバイト代が入ったなら真っ先に買ってやろうと俺が密かに狙っていたあのスポーツブランドの新作スニーカーをまんまと履きこなした誰かが、向こうから渡って来てその傘を取り上げた。 俺に傘をさしかけた彼の傘は落ち着いたモスグリーンだったけれど、それは、(今日は家に忘れてきてしまったけれど)この間一緒に買い物に出かけた際に祖母が買ってくれた俺の傘に酷似していた。わずかに水滴のついたマヌケな眼鏡姿に、俺は悟る。ああ、彼こそが、今まさに葬り去られようとしていた「アメリカ」なのだと。いざ本人を目の前にすると、ちっとも名前負けしていないどころか、むしろしっくりくるくらいなのが不思議だった。名は体を表す。彼の両親は本当に先見の明がある。彼が我らが合衆国すべてを代表するかのような仰々しい名を冠していたとしても、もはや誰も文句はあるまい。 「……イヴァン。彼は? 知り合い? 遅いから迎えに来たぞ」 その彼は俺と違って、少しも物怖じした様子もなく、堂々と大男の顔を見据えて言った。その勇敢な様に、俺は心の中で拍手喝采を送りたい気分だった。ニュースの中の英雄を見たような心地さえする。 「迷っちゃって、彼に道を訊いてたんだぁ」 何もしてないよ、とでも言いたげに、俺の首に触れたばかりの右手をホールドアップのように上げて見せた(といっても左手には傘を持っているので中途半端ではあった)イヴァンとやらの笑みは、傍目から見ればひどく温和で、虫も殺せないような軟弱男にしか見えない。その振る舞いは、先生に悪戯を見つかってとぼけてみせる小学生のようにも見え微笑ましいには違いないのに、それでも俺の、体中を伝うような冷や汗と、寒くもないのにがくがく笑う膝が、たった今味わった死の恐怖が白昼夢でないと告げていた。 でも、きっとこんな違和感は俺にしかわからないのだろう。だってほんとにちょっと首を「触られた」だけだ。殺されるかと思った、なんてのはあまりに感覚的すぎて、客観的にこの状況を見るに、ちょっと誰に訴えても信じてくれそうにはなかった。 それなのに、救世主みたいにして颯爽と現れたモスグリーンの傘の彼は軽く俺に同情の視線を送って、呆れたようにイヴァンを睨みつけたのだ。ああ、やっぱり彼は俺を殺そうとしていたんだよな? 俺のこの本能的な拒否反応は間違ってないんだよな? 「君は道を訊く度に人の首を絞めるのかい? スパイか何かに来たの? 俺の家で殺人はやめてくれよ」 「いやだなぁ、ちょっと触るつもりだっただけだよ。あまりに無防備だったから、気になって、ね」 そう言って、紫の目は俺ではなく、「アメリカ」の首元へ向けられた。 その「アメリカ」も、俺と同じようなパーカー姿だ。白い喉元。喋る度上下する喉仏が、惜しげもなく晒されている。そんな格好は季節柄おかしくも何ともなく、むしろごくごく普通のありふれた格好なのに、この男を前にしているからだろうか、見ていて不安を煽る「無防備」さだと思った。たとえばすぐ後ろにチェーンソーを持った怪人が迫っているのに、的外れな方向に向けてガチガチに緊張した様子で銃口を構えている主人公を、銀幕の外側から手に汗握って見つめているしかないような、そんな不安。 俺は何を考えているんだろう。俺だって似たような格好してるのに。頭の中で絶えず警鐘が鳴り響いて、見も知らぬ「アメリカ」に対して、逃げろ、と怒鳴りつけたくてたまらないなんて。 けれどそんなことをすれば間違いなく、今度こそこのイヴァンの手にかかって俺は死んでしまうのだろう、なんて突拍子もないことを思った。 緊張にごくり、と唾を呑み込んだ音が聞こえたのか、イヴァンを睨みつけていた青い瞳が、それまでの険が嘘のように爽やかな笑みを刷いてこちらに向けられたので、俺はちょっと張り詰めていた息を吐いて、ぱちりと瞬きをした。おかしいな、俺の知ってる世界ってこんなに、明るく能天気な平和への確信とも言うべき安心感に満ち満ちていたものだったっけ。 「悪かったな、彼はちょっと頭がアレなんだ。その傘、クールだね」 こんなに怖い人に向かって「アレ」とか言ってしまう神経に、こちらの方がビクリとして、俺はこの、ものすごく気が合いそうな若者に「ガールフレンドのなんだ」とはにかむこともできなかった。 「ほら行くぞ、イヴァン!」 さっさと先に立って背を向けてしまった「アメリカ」は、遠近法も相まってか、イヴァンとやらに比べて随分と小柄で頼りなく見えた。先程傘を渡してくれた際には、体の鍛錬に余念のない、合衆国の標準的な「クールな若者」にちゃんと見えていたのに(そう、俺と同じで、ちょっと眼鏡で損してるだけのクールガイだった!)。 こんなに恐ろしい相手と連れ立って歩こうというのに、そうまであっさりと躊躇なく背を向けてみせる、無防備なその神経が信じられなかった。 「命令しないでよ。ムカつくなぁ」 にこにこと(あくまで表面上なんだ、しつこいようだけど)言い返したイヴァンの声音には、先程俺と二人きりで対峙していたときの異常さが感じられないことに俺はふと気がついた。先程の彼は、あんなに穏やかな笑みを顔に貼りつけていながら、その実、相当イライラしていたらしい。今は別人のようにそれがない。俺を威圧するような底冷えのする悪意のような強い視線は、もう感じなかった。 きっと代わりに、その愛情にも殺意にも似た強烈すぎる感情は、たった今こちらに背を向けて鼻歌まで歌っているあの彼に向けられているのだろう、となんとなく俺は思った。もしくは、深手を負った猛獣のようだったこの男は、あの「アメリカ」が登場したことで、母熊に会ったかのような安心感に包まれたのかもしれない。なんて、ほんとにおかしな想像なんだけどさ、だってほんとにそんな気がするんだよ。これは今この場に居合わせた俺しかわかんないことなんだって、悲しいことに確信が持ててしまうけれど。 とにかくそのどっちかで、俺は自身が危機を脱したことを身を持って悟ったわけだった。 イヴァンは、さっさと歩いて行く「アメリカ」の背を、これまた奇妙なことに、まるで幼い我が子を見守る母親のように眺めてから(矛盾しているようだけど、本当にそうとしか表現しようがなかった)、去り際、俺の耳元まで屈みこんでボソリと、こんな物騒なことを言った。 「気をつけた方がいいよ。『君たち』はね、いつも世界のどこかで、僅かな恨みを買っている。自分は平々凡々な、何の罪もない一市民だと思ってるでしょう。でもね、小さな恨みが積み重なるととても恐ろしいってことを、知っておいたほうがいいよ」 その瞬間、俺の頭の中にフラッシュバックした映像は、数年前にニュース映像で見たものか、はたまたジュニアハイの時代に授業で見たものか。 ぞくりと強張る体がようやく少し言うことをきくようになった頃には、既に分厚いコートの大きな背中は、色鮮やかな黄色のパーカーの背に追いついていた。 「君ってほんと、俺の家覚えないよな」 友人同士の軽いおしゃべりが耳に届くように、違和感のないそれ。二人は既にまったく、このニューヨークのいつもの光景の中に溶け込んで行こうとしていた。徐々に声も聞き取りづらくなり、背も小さくなる。 ああ、これで俺は「日常」に戻れるのだと、先程のはほんの少し、時空の狭間か何かに偶然落ち込んでしまっただけなのだと、SFじみたことを考えた。現にもう、先程味わった恐怖など、気のせいだったかのように、さっぱり思い出すことができない。 「君のことなんか興味ないもの。さっさと記憶から抹殺したいんだぁ」 そうにこにこ笑う割に、大柄な男が、眼鏡のクールガイに向けた視線からは、相変わらずのおどろおどろしい、ねっとりした感情が目に見えて滲み出ているようだった。 興味ない? どこが? むしろその逆だ、というのは初対面の俺にすらわかる。 けれどきっとその「興味」は彼本人に集中しすぎてしまっていて、他に振り分ける余裕などないのだ。たとえば彼の家の在処なんていう些末事。イヴァンには「アメリカ」自身だけが意味のあることで、その他のことはどうでもいい。 そんな気がした。 俺は遠ざかる、違う高さで時折くるくる回る二つの傘をこれ以上眺めていられなくて、オレンジの傘で視界を覆った。 俺の新しいガールフレンドの笑顔にも似た鮮やかでハッピーな色で、視界が遮られる直前、あの冷たい革手袋が「アメリカ」の喉元に向かうのを見た、ような気がした。 モブ視点はすっごく好きなんですが、好き勝手に「オリキャラ」とも言える一般人をホイホイ出すのも一般的にどうなのかなぁ、と躊躇してしまいます…。 でもやっぱり好きだ…。国民視点は読むのも書くのも大好きです。 シーラト終了した瞬間出てくるちょっとウザい(嘘ですコルコルするのやめて!)ろったまのセリフを見た瞬間、目ん玉飛び出そうになりました。ちょ、何言っちゃてるのろったま私を萌え殺す気かぁああ! 秒速で脳内を流れた「こういうことですよね、わかります」という妄想を形にしました…。どなたかと被ってるかもしれない… 今回初めてシーくんに性別「男」って返してみたんですが、ろったまのこのセリフって「男」じゃないと出てこないんですかね? (2010/2/7)
|
Copyright(c)神川ゆた All rights reserved.
http://yutakami.izakamakura.com/