上着をひっつかんで外に飛び出すと、ちょうど店じまいの時間なのか、今度はブルーのコートを着た、はす向かいの少女に会った。上着なんて一種類あれば事足りると思うのだが、さすがフランスの愛する人々はオシャレというかなんというか。
 ボンソワール、なんてにこりと微笑まれては、そのまま走り去ることもできない。
「ヤドリギはどう?」
 吸い込まれそうなグレーに、まるですべて見透かされているかのようだとどきり跳ねる心臓を隠しながら、何気ないフリでアメリカは答えた。
「あー……っと、フランシスがすっごく気に入ってるぞ、ありがとう!」
「私、フランシスとは親友なの」
 いきなり何の話だろう。どうもフランスの土壌は馴染まないことが多くて戸惑う。
「え? あ、そうかい?」
「彼、いつもあなたの話ばっかりしてるわ。生意気でバカでかわいいかわいいお子様って、あなたのことよね?」
「は?」
 それはどういう――アメリカのセリフを遮って、彼女はいつもの友好的な笑みで立ち上がった。腕に抱えた白い薔薇がよく似合っている。
「ノエルまでパリにいるんでしょ? よかったらレヴェイヨンは二人でうちに来ない? おばあちゃんが喜ぶわ」
 刺は取ってあるから、と宣言するなり、彼女は腕の中の薔薇を一本引き抜いた。きょとんとするアメリカをよそに、まるでそうするのが当然であるかのように、さくりと短い髪の間に挿す。眼鏡の蔓と耳にうまいこと引っかかって留まったそれは、ちょうど髪飾りのようになった。
「その代わり、ノエルの昼食はフランシスの家に招かれたいわ。彼、シャポンを予約したって言ってたから楽しみ!」
 彼女の口から出るのはそれきり、クリスマスのごちそうの話ばかりで、薔薇については何の説明もない。これじゃ頭に花が咲いたみたいで、なんだか間抜けだ。けれど到底アメリカをからかっているようにも見えないので、さっさと取り去ってしまうこともできない。
「え、あ、うん、伝えとくぞ……」
 ――クリスマス当日まで、パリに?
 本当はそんなことまったく考えていなかった。ホリデーになって、嬉しくて、一足飛びにどこか特別な場所へ飛んでいきたかった。そして気がつけばパリにいたと、ただそれだけ。
 それでも、ここで断ってはフランスの顔も立つまい。
 我ながら言い訳じみている、と思った。
「メルシー、アルフレッド」
 彼女が踵を返すと、長い黒髪が背中で揺れた。
 フランスと、過ごす、ホリデーをまるごと。呟いてみたが、ちっとも想像ができない。
 今更ながらに易々と請け負った事の重大さに気がついて、落ち着いたはずの体温がまた上がるのを感じた。どういう顔をして戻れというのだ、あのヤドリギのあるリビングに。
 別に俺が残りたいってわけじゃないんだけど、どうしてもって言われて――責任ある伝言の予行演習をしながら立ち尽くしていると、背後の門がギィと音を立てて開いた。
 ああ、そういえば、自分はいったい何をしに外へ出たのだったか。
 案の定というか当然のごとく、現れたのは家主であるフランスで、アメリカ――のおそらく頭の薔薇に関する件に違いない――を見るなり何か含むところでもあるみたいに口元を歪めたが、恨みがましげに睨みつけた自分の機嫌を取ることを優先したらしい、手に持っていたマフラーを、まるで母親のようにアメリカの首元に巻きつけてくる。マフラーからは、フランスの匂いがした。
「十五歳にお子様って言われたぞ……」
 ヤドリギの元で相見えてから、なんだか常になくフランスの態度が柔らかい気がする。ご機嫌取りのつもりだろうか。
 当然だ。人のことをあんな品のないやり方でからかったりして――自分たちの間でまかり通っていることだからといって、一般常識の塊であるアメリカまでそんな世界に引きずり込まないでほしい。
「ああ、うん? 事実だろ」
 薔薇をつついていたフランスの指が、夜風に冷えて痛み出していた耳に時折触れるのが、くすぐったくて敵わない。
「元はといえば君のせいじゃないか! 君、人のこと何て言いふらしてるんだよ――」
 殴ってやろうと振り上げた腕は華麗な動作で握り込まれた。フランスにこんな技量があったとは意外だった。これを戦場でも発揮できればいいのに、なんて皮肉にもなっていない幼稚な戯言は、すぐに呑み込む羽目になる。耳元に注ぎ込まれた低い囁き声によって。
「白か。よく似合ってるじゃないか。薔薇の花言葉は、無邪気、清新。でもって白なら純潔、トゲがないのは、初恋――」
 薔薇が挿された右こめかみあたりがムズムズしてきた。よくもまぁここまで的確に、アメリカの心をグサグサ刺してくる言葉ばかり並べられるものだ。
「は、花言葉なんて、ほんとおっさんだな!」
 イギリスといい、この男といい。
「だから、『大人の含蓄』の間違いでしょ。で? 俺が何言いふらしてるって?」
「もういい、君にあげるよ!」
 さっさと髪から引き抜いた薔薇を押しつけて、明かりがついたままの屋内へ足を向けると、背中からさらに、からかうような声がかかった。戸口から僅かに香るのは、ポトフだろうか。ぐぅ、と正直な腹が鳴る。
「イギリスんとこじゃ、『わたしはあなたにふさわしい』だったかな。白薔薇の花言葉」
「た、ただあげるだけだよ、意味なんかないぞ! だいたい、元は俺のじゃないし――」
「もらっときましょ、ヒーロー様からのありがたい下賜品みたいだからね」
「だから意味なんかないって――」
「あんまかわいいこと言ってると口塞いじゃうぞ」
「はぁ? ――って!」
「悪かったよ、泣くなよ」
「泣いてないよ! 君はもうほんとに……おっさんなんだから……」
「大人の魅力にクラクラするだろ?」
「お腹が減ってクラクラするよ」
「よぅし、お兄さんのとっておきだぞ。かわいい子にしか食べさせないんだ」
 気味の悪いウインクなのに、見入ってしまう自分の美的感覚が本当に憎い。いったいどういう育ち方してきたんだ。
 さあさあ、と背を押された。
 もう「お子様」で構わない、という気すらしてくる。どう逆立ちしたってこの男の言う「大人の魅力」というやつには、やられるばかりで一向に敵いそうにないということを再確認するだけだと思い知ったので。
 ああこんなのは不公平だ。
 胸がぎゅうっと痛いのを押し隠すように、アメリカは背中に感じるてのひらの温もりから逃れた。
「先にこのヤドリギを、見えないところにしまってくる」
「なんだよソレ」
「いいから!」
 反対意見は認めないぞ、と釘を刺してから、暖炉の火も温かなリビングから、ひんやりした廊下へ舞い戻った。さあ、こいつをどうしてやろうか。
 ドク、ドクと胸に抱えたヤドリギが脈打っている。いや、これは自分の心臓の音なのだと、本当はもうとっくに知っている――。
「せっかくノエル気分を演出してたのに。で、何が『どうしても』だって?」
 リビングに戻ると、暢気な声がまっすぐに自分へ向けられる。温かく、やわらかく、すべてを包み込むような声だなんて、今まで思ったこともなかったようなことを思うのは、今だけは、あの声が自分だけに向けられたものだからだろうか。
 鼻をくすぐるポトフの匂い。目に暖かい暖炉の火。手ずから並べられた人形たち。火を灯されたリース。
 過ぎてゆく一年を、誰かと共に過ごす喜び。

 ああ、アメリカのホリデーは、まだまだ始まったばかりだ。


















(2009/12/26)



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