「ほらな、いいだろ、ウサギの親子。ママと、パパと、ベーベ」 いい大人が細かい作業に没頭しているのを見るのは可笑しくもあるが、長時間放置されれば退屈の方が勝る。一人悦に入っているフランスにため息をついて、アメリカはソファの上に足を引っ張り上げ寝転んだ。 「おい見ろよ、この完璧な降誕のシーンを……! って、靴脱げっつの。そんな悪い子は夕飯抜きだぞ」 難しい年頃のティーンに投げるにはあまりに無神経な口調だったので、無視して寝転んだままでいると、ふいに足を取られ、「脱がせましょうか、王子様?」なんて気味の悪い冗談を言い始めた。背中がむずむずしてたまらないのを誤魔化すように、乱暴にその手を払って起き上がる。 「そんなの毎年作ってどうするんだい、去年のはどこやっちゃったのさ」 「ノエルが終わったら毎年近所の子供にあげることにしてんの。そんなのって何よ、お兄さんのセンスがキラリと光るでしょうが!」 「ツリーの方が楽しいよ」 「デカいし重いし疲れるだろ。人が来る年しか飾らないことにしてる」 「おっさん……」 「なんだと」 飛んできた拳を軽くかわして――といってもそれはカナダもびっくりするくらいやる気のないスローなものだったが――立ち上がったアメリカは、フランスの自信作だという小さな聖書の一場面を覗きこんだ。 飼い葉桶を囲んだ、厳かな夜。 「一気にアドバントも盛り上がってきた、って感じだな」 フランスはアメリカが熱心に作品鑑賞を始めたのに気分をよくしたのか、隣に寝かせてあったリースから伸びた4本の赤いキャンドルのうち3本に火を灯した。リースはドアに下げるものだろう、と思ったが、鼻歌まで歌い出したフランスがいやに満足げなので黙っておいた。そのさらに隣には、先程もらったばかりのヤドリギが、シンプルなグラスに活けてある。そんなわけでフランス宅のリビングの暖炉の上は、すっかりクリスマス一色だった。オレンジの光が揺れて温かい。 「そのヤドリギ、玄関に飾らないの?」 「何でも玄関、玄関だなお前らは」 なんかそこにあると落ち着かないんだよ、とは言えなくて、栄えある歴史の一場面の目撃者となったウサギの一番チビを指で弾いた。ヤドリギの話題はこの辺で切り上げておかないと、ヒーローらしからぬ惨めな気分を味わうことになるのは目に見えているからだった。 どうせアメリカはこのウサギと同じ程度の子供なのだろう。 「ヤドリギの下で出会った男女は、キスしていいんだっけ?」 てっきりウサギに加えた暴行を咎められると思っていたのに、フランスはアメリカが敢えて避けていた話題を突然持ち出した。こちらが心臓を跳ねさせる間もなく、ちゅ、とわざとらしい音を立てて、右頬に落とされたのは。 「き……っ! 君、今自分で『男女』って言ったろ!」 適用範囲外だよ、と叫んで、柔らかいものが触れた頬を押さえて飛び退く。暖炉から離れると少し寒かった。 「そんなのお兄さんの前じゃ関係なーい」 ああ、悔しい。子供にするようなただの戯れ。変に意識していたことを笑われたかのような。 このままいつものように「おっさん」だとか「変態」だとか「けだもの」だとか罵倒して終わってしまえば、きっといつものままだ。 今日はせっかくのホリデーの始まりで、暖炉の上はすっかりクリスマス気分でお誂え向きで。 わざわざ海を越えて来たんじゃないか。 アメリカだって、きっとやればできるはずなのだ。映画の主人公のように。だって必死で走って走って、もう誰にも劣らない大人になった。 そうだろう、アメリカ。 顔が暖炉の中で燃え盛る薪のように熱い。時たま耐えかねたようにパチリと弾けるのは心臓。 ハハハハ、と笑いながらキッチンに向かいかけた年上の男。まったく忌々しいほどにあっさりしたものだ。 その腕をぐいと引っ張って、どうにでもなれとバンジージャンプでもする気分で顔を寄せた。後のことなんか知るもんか。「関係ない」と防波堤を崩したのはそっちなんだから。 目はぎゅっと瞑っていたので、フランスの表情なんてわからない。一瞬だけ、けれど確かに触れ合った唇に満足して、慌てて体を離した。 どうしよう何て言い訳しよう、そんなことをぐるぐる回る頭で考えていたので、次いで起きた状況についていけなかった。離した体は、強く抱き寄せられて、お遊びみたいな先程のキスとは比べ物にならないほど、しっかりと重ねられた、吐息。 「……っ」 まるで恋人同士みたいに愛しげに何度も何度も、角度を変えて甘くついばまれる。 体の芯が、溶けそうなくらいに熱い。 時が止まったみたいだなんて思うけれど、実際止まっているのは自分の思考能力の方なのだと後々になって気がついた。現状をはっきり認識した後も、どうすればいいのかなんてわからない。ただただ重ねた体温がはっきり意識されるだけ。 この「大人」の「意趣返し」を、フランスがいったいどれくらい続けるつもりなのかなんて知らない。けれどきっともう二度と重ならないこの唇の感触を永遠に脳裏に刻んでおくために、アメリカはフランスの首に腕を回した。離さないでと言う代わりに。 腰を抱くフランスの腕が、じんと骨に響く。 まるで二百年も三百年も昔から、愛し合っていた二人のよう。その単純な錯覚は、安っぽい割にずいぶんと甘美だった。 「ん……」 これはきっと、フランスら古株のヨーロッパ勢にとっては、「これ以上は無理」と我に返った方が負け、そういう一種のゲームなのだと思う。単なる。 意地を張るみたいに、いつまでも離れられない。 「……っ、ふ……」 いつの間にか、薄く開いた唇の合間から、ぬるりと舌をねじ込まれていた。ぐちゅりと生々しい水音が響く。飲み込みきれない唾液が口の端を伝う。足はがくがく震えて、ほとんどフランスに支えられている状態だった。 普段と違う動きを強要された顎やら舌やらの筋肉が悲鳴を上げた頃、ようやく解放された。永遠に思えた時間はこうして、あっさりと終わりを告げる。既に主導権は完全にフランスにあった。情けないことにこちらは立っているだけでいっぱいいっぱいだったので。 全力疾走したわけでもないのに、息がみっともないくらい上がっていた。どこに視線を向ければいいのかわからない。俯くと、フランスのカーディガンのボタンが見えた。 「キスってのは、こうするんだぜアメリカ」 耳元で低く囁かれて、ぞくりと体の芯が疼く。ともすると、ちょっと変な声が出てしまいそうな気分だった。 ちゅ、と額に軽いキスが落とされる。それで、額と言わず体中、うっすら汗ばんでいることに気がついた。 返す言葉も浮かばない。 喋ったが最後、現実が霧のように霧散していきそうで。 自分はいつの間にか、眠ってしまっていたのではないだろうか。これは本当に現実か? 行き場をなくしたアメリカの両手を握る手は、確かに温かい。 「どうしたの、大丈夫かぁ?」 フランスはもう息を整えて、黙り込んでいるアメリカを覗き込むと、恭しい手つきでソファに座らせた。まるで生娘じゃないか――その扱いがあまりに自分にそぐわないことに憤死しそうになりながら、アメリカはようやく気を取り直した。 今喋ると確実に舌が回らなくて恥をかく羽目になる。それでも、宥めるように顔中に降ってくるキスに耐えられなくて、震える吐息じみた声を、やっとのことで発する。 「……蒸発しそうだよ……」 他に表現のしようがない。 「妊娠しそう、の間違いだろ?」 どこから出しているのだろう、同じ男なのにどうしてこうも違うのか、落ち着きのない自分の声とは違う、低く甘く、本当に孕まされそうな声だ――なんて、バカな。 ばしん、と目の前の胸板を叩いた。情けないことに、まったく力が入らなかった。 「もう一回、する?」 「……しない」 間違いなく自分の薄い顔面の皮膚が、活発に活動し始めた毛細血管の色を余すことなく透かしていると思ったので――つまり喩えようのないほど赤くなっている――、ぐっと俯いて緩く首を振った。 フランスの方は澄ましたものだった。暖炉の火が映っているだけだと、その程度の。 「そ? したくなったらまた、仕掛けてこいよ? お兄さん待ってるから」 今までフランスに言われた中で、間違いなく最も質の悪いからかい文句だった。しばらくこのネタでさんざん遊ばれるに違いない。 今すぐにマリアナ海溝に飛び込みたい。あああもう、人の気も知らないで! やっぱりしなきゃよかった、最悪だ、と手近にあったひざかけをもぞもぞ引き寄せて頭から被る。背後からは機嫌のよさそうな鼻歌と、トントン規則正しい包丁のリズムが聞こえてきていた。 そっと指先で、酷使されたばかりの唇に触れてみる。白昼夢でも妄想でもない。確かに思い出せる感触、熱い吐息。強く抱かれた腰……。 「うわぁあああああ!」 あれがお遊びだなんて、本当におっさんたちはどうかしている。アメリカにとっては、このまま一生大切に抱き続けて、墓場にまで持っていけるほどの出来事だというのに。 空想と現実がこんなにかけ離れているなんて思わなかった。現実はなんとしっとり重く濃く、生々しいのか。 「ああ、もう俺、死んでもいいや……」 酒に酔ったようなほわほわ回る頭で考えた。考えた言葉がそのまま口に出ていると気づいたのはずいぶん後だったが、料理に集中していると思しきフランスの耳には届いていないことを心から願いたい。 どうしてどうして自分ばかりがこんな。 子供だからだというのか、子兎のように無垢で世間知らずな――そんなはずがあるものか、アメリカだってそれなりに遊んで経験を積んで、いい男になるための研鑽は惜しまずに努力してきたつもりだった。合衆国の健全な青少年たちがスタンディングオベーションで称賛してくれる程度には。 それがあんな、一瞬で、差を見せつけられて、挙句に笑われて、でも幸せだなんて、こんなことで一人舞い上がっている、だなんて。 死にたい死にたい、と呟きたくなる気持ちが、ほんのちょっぴり理解できてしまった。 「おーい」 「ちょっと今猛烈に自己嫌悪に陥ってるから、話しかけないでくれよ」 「なんだよそれ」 「そうだタイムマシンだ、タイムマシンを作ろう」 「イギリスみたいなこと言ってんじゃないよ。出てきなさい、もうすぐ夕飯です」 慈悲もなくひざかけを剥ぎ取られた。うぎゃあ、寒い、と叫ぶと「抱きしめてやろうか?」なんて今の状況では洒落にならない冗談を返され、顔が赤いを通り越して黒くなったのではないかと思うほど妙な温度になった。最悪だ。もう本当に格好が悪すぎる。 「そりゃあ君はあんなのお遊びで慣れててなんともないんだろうけどさ……っ!」 「はぁ?」 ああそうだ、どうせきっとアメリカが悪いのだ。キスのひとつごときで浮上したり落ち込んだり。 相手は自称「アムールの国」フランスだというのに。 「あーもうっ! 俺ちょっと走ってくる!」 「意味わかんねぇよ、夕飯だって言ってるでしょーが! もう日ぃ暮れてるし……風邪引くぞ!」 「止めないでくれよ!」 (2009/12/21)
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