ふくらむ、はさまる、ambivalence


 学校に子供を送り出した母親のような気分で一息ついた俺は、長いこと冷たい風に晒されていた体をようやく屋内に引っ張り込んだ。やれやれ、さてどうしてやろうかと、キッチンを眺め回して考える。自慢の農場から届く新鮮な野菜は栄養も味も抜群。
 挽肉は、暫定合意だか何だか知らないが、アメリカの奴が脅迫まがいのやり方で押しつけてきたのがあるし(この件に関しちゃお兄さんのせいじゃない、ドイツの奴がもっとしっかりしてないのがいけないと思うんだ)、パンもちょうど夕食に焼いてやろうと一次発酵させていたものがキッチンに鎮座している。ライ麦粉とグラハム粉入りで、ハンバーガー向きだろう。本当は当日焼いたものより、翌日くらいの方が味がしっかりしてて美味いんだけどな。とっておきのフロマージュも厚めにスライスしてやろう。
 肉はともかく、とっておきの素材で作るハンバーガー、最後にお兄さんの特製ソースがあれば完璧。国民食だか何だか知らないが、お兄さん色に美しくアレンジしてやろう。軽い白ワインの舌触りが似合うような。
 それから付け合わせに何かもう一品作ってやることにして。
 夕食にはまだまだ早いが、下ごしらえをするには丁度いい頃合いである。うるさいのも追い出したことであるし。
 鼻歌混じりに手を洗っているところへ、ドアベルが鳴った。
 なんだなんだ、お兄さんはこれからパンの発酵具合を確かめなきゃいけないってのに。
 まさかアメリカの奴が忘れ物か? いや、金さえあればそれで事足りるだろうに。
 エプロンの端で手を拭いながら、「はいはい今行きますよー」なんて、相手には聞こえもしない独り言を呟いたりして、こんなところを目撃されたら、また「おっさん」呼ばわりされるのがオチだろうな。
「おやおや、今日は槍でも降るのか?」
 親子で俺を悩ますのはやめてほしいと、思った矢先にこれである。
「仕事の帰りについでに寄っただけだからな、勘違いすんなよ!」
 寒いから早く入れろよ、と可愛くないセリフをほざいた海の向こうの隣国にこめかみをひくつかせつつ、俺は脇へよけて大人しく道を開けてやった。
「お前たちはもう、アポを取るっていうことを知らないの? 見てわかるでしょ、お兄さん今忙しいの」
 エプロン姿の自身を示せば、図々しく上がり込んできた眉毛に、フンと鼻を鳴らされた。
「なんだなんだ、こんな真っ昼間から。客でも来るのか? ――俺はな、昨日香港のとこでも同じことを言われて頭に来てんだ。何だ何だ? 俺は客じゃないってのか?」
 先程までアメリカが寝転がっていたソファに勝手に腰かけ、ふんぞり返った様は無言で茶を要求していた。その、紳士とは程遠いぶしつけさに今更呆れるでもない。元より、遠慮し合うような関係でもないのだ。
 イギリスは、アメリカが巻いて行ったものと同じような、シンプルだが丁寧な手仕事の編み目が美しいマフラーを、しゅるりと首元から取り去った。静電気で少し荒れた髪を気にするように首を振る。落ち着いた黒の細い毛糸で編まれたそれは、おそらくこの男の手編みなのだろう。料理の腕だけは壊滅的だが、手先は器用だ。気の遠くなるような単調な作業の果てに、手ずから育てたという喜びを得られるだけの忍耐もある。
 こいつが育てたアメリカが、いったいなんだってあんな風になるんだか。俺は、滑るように(実際滑ってたわけだが)大通りの先へ消えた大量生産のジャンパーの背中を思い出した。その首元を守るように巻かれた、アイツにしてはちょっぴり地味で大人びたそれ。
 そりゃあ似てるとこも嫌になるほどあるが、長らくお隣をやってきたコイツとは違う面も、新大陸育ちの奔放な若者にはやっぱり多くて、たまに掴み切れなくなることもある。いや、たまにどころかしょっちゅうか?
 その分、この隣国のことは知り尽くしているというか、まぁだいたい手の内は読めている。
 前にイギリスの奴が置いていったインド産の茶葉だかがまだ戸棚にあったはずだとごそごそやっていると、偉そうにゆったり腰かけていた元大英帝国様がいつの間にやら後ろに立っていた。
「パン焼くのか?」
 発酵中のもそっとした固まりを静かに眺めていたかと思いきや、急に顔を上げて。って、なんだそのめちゃくちゃ物欲しそうな目は。
 俺がこいつの習慣、嗜好、考え方、もろもろに慣れ切ってしまったということは、その分こいつも俺の色んな面を熟知しているということだ。料理のレパートリーなんて本人には片手の指で足りるほどしかないくせに、俺の下ごしらえを見て、今日のメニューを6割程度当てられるくらいには目が慣れていた。それでも6割止まりなのは、俺がそう易々と把握し切れる男じゃないってことを表してる、みたいな? うん、とにかくそういう感じ。
「なぁ、焼き上がったらちょっともらってっていいか? ってかよ、俺が食べるんじゃないんだけど、こないだ近所のマダムにお裾分けしたらすげー喜ばれたから」
 素直に俺が食べたいと言えばいいのに、まったくかわいくない物言いであるが、腕を褒められたことに変わりはないようなので(こういった独特の言い回しにもすっかり慣れてしまっていたので)、俺は頷いた。
「ってかそれ、ハンバーガー作るから食ってけよ」
 沸騰したお湯をポッド、カップに注ぎ温めながら軽いノリで言うと、太い眉が露骨に顰められた。
「なんでハンバーガーなんだよ、どこぞの誰かじゃあるまいし……」
「そのどこぞの誰かさんが……」
 食べたいっつぅから、と言い終わる前に、再びドアベルが鳴らされた。どうやら、おつかい係が帰ってきたらしい。
「あー、イギリス、お前あと自分で淹れといて」
 言い捨てれば、「おう」と短い返事。キッチンを他人に触らせるのはあまり好きではないが、茶くらいならこの味オンチもいくらか信頼できるので、こうして自分で淹れさせることもしばしばだった。
 玄関に向かうまでに、繰り返し繰り返しドアベルが鳴る。この忍耐力のないお子様丸出しの行為は、間違いなくアメリカである。
「わーかったから待てっての」
 ああ、また独り言が出てしまった。
 ドアを開けるなり、大きな塊が飛び込んでくる。
「フランスー、寒かったんだぞー! しかも買い物袋忘れたからコーラ手で持って帰って余計に冷たくてさ……」
「おま、二本も買ってくんなよ……」
「一本じゃ重心取りにくいんだよ、ほら」
 そう言ってアメリカは、スケボーの上でバランスを取るフリをした。
「ったく、俺は飲まないからな」
 お荷物になっている3キロ弱の液体を受け取って先にキッチンへ戻ることにする。そこには、すっかりティーセットをリビングのテーブルに並べ終えたイギリスがいた。
 俺の手元に留まった目が眇められる。
「なんだよそのコーク……」
「コークじゃないぞペプシ……って、イギリス?」
 俺の背後から、ぴょこんと飛び出したアメリカが、アホみたいな声を上げて立ち尽くす。
 ああ、バカめ。マフラーを取ってから来ると思ったのに、俺の気遣いを思いっきり無視しくさりやがって。
「アメリカァ?」
 イギリスもイギリスで、アメリカがここにいること自体に驚くことに忙しく、マフラーにまで気が回らないようだった。
 ったく、こいつもつくづく、小さな幸せを見逃すのが上手いよな。時々、わざとやってんじゃないかと思う。
 俺なら絶対見逃さないね。これがセクシーな美女だったらもっと感度上がるけどな。
「なんだよアメリカ、珍しいな。こんなヒゲに何の用だ? 仕事か?」
 こんなヒゲとはなんだ。お兄さんはな、アメリカみたいな若造のハートも掴んで離さない包容力と魅力の持ち主なんだぞ。
 俺が口を開く前に、アメリカの眉がぎゅっと寄せられた。
「君には関係ないだろ」
 ああ、またそういう口をきく。事態がややこしくなって、間に挟まれるのはお兄さんなんだから本当にやめてほしい。兄弟ゲンカならよそでやれって。
「まぁまぁ、二人でお兄さんの特製ハンバーガー食ってけって。イギリス、どうせお前も暇なんだろ?」
「どうせって何だどうせって。ったく、なんでハンバーガーなんだよ……」
 ぶつくさ文句を言いながらも、険しい目つきと裏腹に、口元は若干緩んでいる。いつもながら詰めの甘いやつだ。
 ほんとに、手の焼ける。
 しかしアメリカの方は本気で機嫌が悪いようだった。イギリスとの口ゲンカや嫌味の応酬などすでに二人の間では挨拶のようなものだが、どうもそういった雰囲気でもない。
 むすっと押し黙って、俺とイギリスの会話(というか徐々にいつもの中身もない貶し合いに発展していたのだが)を聞いているだけだ。ここまで静かなアメリカも気味が悪い。
「ほら、コーラ冷やしとけよ」
 アメリカなんぞに冷蔵庫を触らせるのは極力避けたいこの俺が、わざわざ気を回して仕事を与えてやったくらいだ。アメリカは相変わらずの仏頂面で小さく頷くと、マフラーも手袋もジャンパーもそのままに、キッチンへ向かった。
 もちろん、そんな容易な言いつけなど、バカでもあるまいしすぐに済んでしまう。手を持て余したアメリカにどう声をかけたものかと俺が考えあぐねている横で、能天気な声がした。
「アメリカ、茶淹れたぞ、外冷えただろ。飲めよ」
 確かに、乳白色のポットは温かな湯気をまとい、芳しい香りが漂っている。
 紅茶を淹れる腕だけは、相変わらず確かなようだ。
 ま、愛しい弟分の機嫌を損なわないスキルは相変わらず皆無みたいだけどな。しょうがない、コイツの兄貴面はもう治らんだろうし、アメリカも実際はそんなこと望んじゃいないだろう。
 並べられた二つのカップに、手際良く透き通る紅が注がれる。
 アメリカは依然ぶーたれた顔のままだったが、その目に少しだけ、気まずげな色が浮かんだから、俺は内心ほっと息を吐いた。やれやれ、いつまで経っても青少年の気持ちがわからないお兄ちゃんには敵わないねぇ? アメリカ?
「え、俺の分は? イギリス」
「テメェはさっさとメシ作れ」
「ひどくない? それ」
「あと茶菓子出せよ」
「お前は何様のつもりなの? 出すよ、出せばいいんでしょ!」
 俺がキッチンに引っ込んでも大丈夫だと判断して、俺は袖を捲り直した。二人はとびきりの茶を挟んで、いつも通りの気安い応酬を開始したらしかった。いったいアメリカが何に気分を害したのかは知るよしもないが(まったく気難しいお年頃のお子様である!)、とにかくまぁ、よかったよかった。
「あれ、アメリカ、そのマフラー……」
 アホめ、まだしてたのか。聞こえてくる会話に、俺は一人キッチンで忍び笑いをもらした。
 パンの発酵具合も丁度いい。分割してからベンチタイムを取る間に、ミートパティの下拵えでも進めておくか。成形まではいかないだろうな。
 オーブンはもう予熱してあるし。うーん、お兄さんってば手際いい。
「海外に行く時には重宝してるんだよ。なくしても惜しくないから」
「……テッメェ……、今度から名前と電話番号刺繍してやるよ……」
 どうやらようやく装備を剥いでいるらしい、微かに衣擦れの音が聞こえる。
「ん、その手袋、同じ色なんだな。お前にしちゃ落ち着いた趣味の……ってそれ、どっかで見たな」
「え? いや、これは……別に……」
 ん? なんでそこ口ごもるんだ? お兄さん別に、イギリスのプレゼントに合わせてやったってこと、隠しちゃいないんだけどな。ま、イギリスのことだから、知れたらきっと「マネすんなよ!」って歯ぎしりして悔しがるだろうけど。
 わかってないねぇ、そういうのは「マネ」じゃなくて、センス溢れるコーディネートっていうんだよ。
 ボールに挽肉、ナツメグ、塩、胡椒。
 つなぎを使わず、粘りが出るまでよく捏ねるのがコツ。意外と疲れるんだよな、これが。
「フランスー、まだかい?」
 いきなりにょきっと現れたデカい図体にギョッとする。しばらく手元に集中していたから、厄介な元兄弟二人の会話なんざ聞いちゃいなかった。
「おまっ、今始めたばっかでしょうが!」
 いいからお前はおとなしく、寂しいイギリスの相手してなさいって。
 と、思ったらそっちの方まで顔を出した。
「フランス、この本最新刊出てただろ、ないのか?」
 また勝手に人の本棚漁ったな……。どうやら兄弟ゲンカにも一区切りついて、お互い暇を持て余したらしい。
「お前こないだ、フランス語なんか読んでられっか、翻訳はないのか翻訳は、って喚いてなかったか?」
 お兄さん今手が離せないの! 見てわかんないのかねぇ。
「しょうがないだろ、俺はいま最新刊が読みたいんだよ。何で最初から英語で書かねぇんだよ」
 チッ、と舌打ちまで聞こえた。
「ふざけたこと抜かすなよ自己中」
 どこまで不遜なんだろうねこの子!
 俺がありったけの恨みを込めて牛肉を握り潰していると、やけに静かだったアメリカが、イギリスが勝手に引き抜いてきた俺の愛蔵書のタイトルを確認するように身を乗り出したのが見えた。
「……なんだいその本。こないだって?」
「あぁ? どうせお前は興味ねぇだろ」
 またそういう物言いを。お子様はハブられて悔しいんだよ、察しろよ。
「そんなのわかんないじゃないか!」
「お前はダイエットのハウツー本でも読んでろよ、その辺にあったろ?」
 ムキになって食らいつくアメリカに素直に本を渡してやりながら(その巻に関しては、既に翻訳版を読んでいたからだろう)、イギリスは身を翻した。向かう先は間違いなくリビングの隅の本棚だろう。蔵書の中でも、ふとしたときに手に取りたいものを随時セレクトして置いてある。
「ちょっと、あんまりあちこち漁らないで頼むから!」
 やっとこさパティの成形を終え、パンをオーブンに放り込み、あらかた野菜を切り終わると、二人はおとなしく読書に勤しんでいた。
 腐り切った誼のイギリスなどはよく「暇潰し」だとか「ついで」だとか言って俺の家に上がり込んでいるわけで、何をするかといえば、大抵こんなことなのだが(要はちょっとした時間潰しだとか風除け程度に使われている)、アメリカの奴がおとなしく本に齧りついている光景は、あまり見ない。いつもやかましく騒いでいるか物食ってるかゲームしてるか――あ、たまに仕事もしてるな、うん、たまに。
 物珍しい光景に、呆れてか感動してかよくわからないが、俺はほぅとため息をついた。眼鏡の奥の瞳が真剣な色合いを帯びている。ああ、ますます目悪くなるぞ。どんだけ悪いのか知らないけどよ。
 そんなことに興味を持ったこともなかったことに気づく。イギリスなら知ってるんだろうか。
「……アメリカ、それ面白いか? 何ならコイツに翻訳版借りれば?」
「俺は貸さねぇぞ。コイツに物貸して無事に戻ってきた例がねぇからな」
「これでいい」
「あ、そ」


















(2009/12/6)



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