L'ange vient par la porte. 「お前、また来たの」 ドアを開けて一番、俺の口から出たセリフはそれだった。 対するアメリカは一言しれっと「悪いかい?」。親の顔が見てみたいふてぶてしさだ。いや、この状況でさらに親の顔まで見せられた日には、ため息でファゴットが吹ける。親子で俺を悩ますのは本当にやめてほしい。 こいつはいつも、誰それとケンカしただの彼女と別れた、だのくだらないことでギャーギャー騒いでは俺の家にいきなり押しかけてくる。 まぁしょうがないけどな、お兄さんってば含蓄に満ち満ちた大人だし? アメリカのようなケツの青いガキがついつい頼ってしまうくらい偉大な人物ってことだ。 と自分を励ましたところで諸悪の根源に再び視線をやる。 人ん家のソファで携帯ゲーム機をいじっているだけだ、何の意味があるのかわからない。ふてくされた表情を隠そうともしない。つまらないよー、などと言いながら、ごろりと体を横たえる。 コーヒーを入れてやった俺は、すっかりアメリカのものになってしまった赤いマグカップをテーブルに置くと、その行儀の悪い姿勢を注意するでもなく、部屋の隅に備えつけてあるオーディオに向かった。なんだかクラシックな気分だ。今はうるさいのがいるので余計に。 「お前さ、イギリスんとこ行けば?」 それまで俺に目もくれず画面を見つめていた奴は、その一言を聞くなり、まるで戦闘訓練かとでもいうくらいの素早さで起き上がった。 「何で俺がイギリスのとこになんか行かなきゃいけないんだい!」 寝転んでいたためか、前髪が好き勝手跳ね散らかっておかしなことになっている。その向こう側から覗く瞳が、今日もビー玉のように自己主張を絶やさない。 「お母さんも頼られて嬉しいし、ほら、一石二鳥」 「君は嬉しくないんだよね、わかってるよ」 「拗ねない拗ねない」 ぴょこんと飛び出た毛が気になって仕方なかったので、撫でつけてやれば、それで猛獣は大人しくなった。放置されたゲーム機が、アメリカの膝元でクラシックにそぐわない電子音を上げている。 動物の毛並みを揃えてやるように、手の甲を滑らせる。一方でさりげなくゲーム機の回収に成功したはいいものの、最近のゲームはどうやらオンオフスイッチをいじっただけでは電源が落ちないらしい。長押しか? 困った時は長押しなのか? 「フランス!」 背後に回した左手であちこちいじり倒したゲーム機が奇妙な悲鳴を上げている。そんな作業に没頭して右手がお留守になった瞬間、アメリカが急に大声を上げるものだから、俺は思わずゲーム機を差し出してしまった。 しかしどうやらそういう意味ではなかったらしい。俺が返却を試みたそれはさらりと黙殺される。 「な、なんだ?」 ああ、綺麗な目だな、なんて。 痛いくらいに真っ直ぐ人の顔を射抜いてくる奴だ。どんな時も。 そのまま奴が何も言わないので、しばらく見つめ合う形になる。ああ、よく考えたら顔近くないかコレ。いただいちゃっていいってことならお兄さん張り切っちゃうよ。世界の恋人フランス様は、相手が誰でもイケるからね! いや、コイツは絶対そんなこと夢にも思ってないんだろうな。でもって、「おあつらえ向きの状況じゃないか?」なんてことを、百万ユーロの笑顔で指摘したら、ムカつく顔で「おっさん」呼ばわりしてくれるんだろうな。 「いひゃいよ! あにすんひゃい!」 「……いや、なんとなく」 むにむにむに。あ、意外とすべすべしてんのな。触り心地いいわー。 ついでなので、もう片方もつまんでやる。アメリカは「いひゃいいひゃい」なんて迫力のない悲鳴を上げている。幼稚だろうがなんだろうが、奴の身動きを封じてやっているという事実になんだかムラムラしてきた。 あれ、こういう気分を追っ払うために、俺はわざわざお子様極まりないどこぞの高笑い王子のような行動に出たというのに、逆効果っていったいどういうことよ。 だいたい、アメリカの奴がいけないんじゃないのか。よく晴れた気持ちのいい休日に、こんなに素晴らしい魅力的なお兄さんの家に単身で押しかけてきて、でもって本人はまったくその気がないなんて! ……その気がないどころか、こいつを見ていると、そういった気分や行為が現実に存在することすら、遥か遠くの異次元の話じゃないかと思えてくるからすごい。俺たちってほんとに生物だよな? ちゃんと肉欲という本能があるよな? なんだか俺まで合わせてやらなきゃいけない気がしてくるじゃないか。よってこいつの前じゃ俺は、まるで歌のお兄さんか幼稚園の保父さんだ。そんなお兄さんもセクシーだって? メルシー、ベーベ。 そのお兄さんを何だと思ってるのか、まったくこのデカイ子供ときたら。あのエロ大使が育てたんじゃないのかよ……。 なんてことをとりとめなく考えていたら、奴の両手がガラ空きだってことをうっかり失念してしまっていた。 「痛っ! ヒゲ引っ張るなよ!」 しばらく俺の手を引き剥がそうと無駄な抵抗を試みていたそれも、より有効な手段にようやく気づいたらしい。 解放されたアメリカは、今しがたお兄さんへの凶行に及んだばかりの両手で頬を覆って、まるで冬眠前のリスのようだ。噛んで引っ掻く、獰猛なやつ。 「君が先にやったんじゃないか……! ああ痛いぃい……赤くなってるんじゃないのこれ……」 「いやー、お前が人のことジッと見てるから、つい。そんなにカッコイイかぁ俺?」 「君ほど幸せな思考回路持った奴、他に知らないよ!」 「お前には言われたくない」 自称世界のヒーローは、自分に都合の悪いことは右から左へ聞き流す能力をデフォルトで備えている。現に今も頬をさすったまま、狭いソファの上をじりじり移動中だった。俺が諸悪の根源みたいなその態度やめてくれないかな。せっかくおいしいポジショニングだったのに。 「あー痛かった……」 「舐めてやろうか?」 「やめてくれよ気持ち悪い」 冗談まじりに再び距離を詰めれば、腹に軽く蹴りが入る。ちょっと、靴脱ぎなさい! お兄さんの純白のシャツが汚れるでしょ! ああやっぱり、「気持ち悪い」で済まされちゃうわけね。ちょっとひどくない? 百戦錬磨のお兄さんも大ダメージよ。 でもまぁ、たまにはこういう、あっさり軽い、爽やかな味わいも悪くない、なんて思ってる俺がいる。いつも重くて濃厚、しっとり甘いんじゃつまらない。世界も、料理も。 そろそろ俺、こいつに毒されて、ほんとに保父さん思考になっちゃうんじゃないかな。――いけないいけない。今夜あたりちゃんと、「大人の時間」の勘も磨いとかないと。カトリーヌ、クリスティーヌ、アンヌ……ああ、エレーヌは元気かな。 って、こんなお子様とひよひよ過ごしてるせいで、また話が逸れたじゃないか! 頑張れ俺、いつもの優美でセクシーなお兄さんに戻るんだ! 「何一人で百面相してるんだい、いつもの百倍気持ち悪いぞフランス」 「お前なぁ!」 もういいよ、保父さんで。 俺は盛大なため息をひとつ吐き出し、ソファに乗り上げていた膝を下して伸びをする。 「今日は何が食べたいんだよ、食ってくんだろ?」 「もちろんハンバーガー!」 こんな空気読まない要求にももうすっかり慣れたことだし。 「はっはっは、最高級の食材で、未だかつて誰も見たことのない、芸術的なハンバーガーを作ってやろう」 「コーラはペプシじゃないと嫌なんだぞ!」 訪問時の無口ぶりはどこへ行ったのやら、すっかりいつものやかましい世界の騒音である。 はぁー、やれやれ。やっぱお兄さんの料理は世界一ってね。 「ああそうそう、イタリアに新しいワイングラスもらったんだ。最高の料理と最高のグラス、ペプシも幸せだな……。お前買ってこいよ、ほら、お小遣いあげるから」 差し出したユーロをためらいもなく受け取るコイツは、とことん弟根性というか年下根性が身についていると思う。 「食後のアイスはバスキンロビンス? それともハーゲンダッ……」 「やめろよそんなん、カナダにもらったバニラアイスがあるんだ。手作りだと」 お兄さんのさらさらヘアーを結い上げ、エプロンをかけたら準備万端。おっと、シャツの袖もまくらないと。対する買い物係も、ジャンパーを着込んでマフラーを巻いて、浮足立っている。ニットの帽子も忘れずに。 「最高だな!」 あ、あの手袋。去年のクリスマスパーティだかなんだかに、気まぐれに贈ってやったやつじゃないか。 イギリスの奴が濃紺の毛糸でせっせかマフラーを編んでいたことは知っていたので、それに合わせてコーディネートしてやった。うん、思ってた通り、よく合ってる。「君たちそんなトコまでつるまなくていいよ!」なんてブーブー言ってたくせに、結局使ってるアメリカが可愛らしい、だなんて思ってしまう。きっとイギリスの家に行く時は身につけないんだろう。そういう奴だ、こいつは。 思わず噴き出したら、また「気持ち悪い」と言われた。 玄関先まで見送ることにして、ふとしたデ・ジャヴ。突然の呼び鈴。ぶすくれた顔で立っていた、数十分前のコイツ。 「で? 今日は何があったのよ」 本当は、出がけに訊くことじゃないんだろうけどな。 「え?」 「何か嫌なことでもあったのかって言ったの」 アメリカはしばし考えるように黙り込んだ。眉根は寄せているが、その実全然怒っていない。そういう顔だった。 「何かないと来ちゃいけないのかい?」 まぁふてぶてしい態度だこと。どうやら機嫌はとっくに上向いているらしかった。何が作用したのか俺には知る由もないが、まぁ、お兄さんの癒しパワーはそれだけすごいってことだな、うん。 「お前がここ来るのは、いっつもそういう時でしょ」 別に言いたくなきゃ、言わなくてもいいんだ。元気になってくれればそれで。コイツはいつも、うるさいくらいバカ笑いして、ポジティブに騒いでるのが似合ってる。 ちょっとからかうつもり、程度の発話だったのに、急にアメリカは妙な顔をした。なんだか変な線に触れたらしい。 「……ここに来ると余計落ち込むんだぞ!」 ハリセンボンか、ってくらい膨れてる頬。両側から潰してやりたいが、それをすると後々面倒なことになりそうなので、両手は後ろで組んでおく。 「はぁ? じゃあ来るなよ」 「……っそうじゃなくて!」 「じゃなくてなんだ、ああもう、訳わからんなお前は……」 手袋を外そうとしたアメリカを制して、代わりにドアを開けてやれば、吹き荒ぶ風は、すっかり冬色だ。 「今『イギリスと同じで』って考えたろ」 あ、まただ。吸い込まれそうな、夏の空の色。薄いレンズの向こうの二つの青が、俺の眼前で強い光を放っている。 ヨーロッパ人は日光浴が好き。俺だって例外じゃない。ヴァカンスには南フランスの海岸で、優雅に太陽の光を浴びていたい。そういう色だ。 ――って、そうじゃないそうじゃない。なんでいきなりイギリスなんだ。 「なんだよそりゃ。お兄さんは大人だからね、お前がイギリスの話題出されるの嫌いなのは知ってるよ。なのに自分で出すなよ」 イギリス大好きだな、コイツ。俺に言わせれば、お前は意識しすぎなんだよ、お子様め。 いつまで経っても、追い抜けた気がしないのだろう。俺にもわかる、そういう若い気持ち。遥か遥か昔――いや、今も感じてるか。国である以上、世界中のどの国より、立派な国でありたいと願う。そうでなくては。 そんな劣等感の対象が誰かなんてことは、コイツには口が裂けても言わないがな、悔しいから! っていうかお兄さんはこのままでも世界一だし! コイツみたいなワーカーホリックの無粋な単純バカにはなりたくないし! 「だってそういう顔してたぞ」 そのアメリカは、未だにスネていた。っていうか寒いからそろそろドア閉めたいんだけど、いいかな。 「どんな顔だよそりゃ……」 ったくもう。 「イギリスよりめんどくさいよ、お前は」 ほら、としょうがなく背中を押せば、とん、と一歩踏み出すスニーカー。 「へぇ……そうかい……」 アメリカは軽く目を見開いて、たっぷり三秒は人の顔を眺めまわしてくれたあと(ま、どこから見られても落ち度なんかないわけだけど、美しすぎて)、なんだか妙に満足そうに頷いた。そんなとこまで負けずギライか、オイ。「めんどくさい」は褒め言葉じゃないぞ。 「じゃ、行ってくるんだぞ」 「余計なもの買うなよー」 「ポテトチップスとチョコレートは余計なものに入るのかい?」 「ハッハッハ、いい度胸だなこのアホ!」 ああいうのを「ヒーローの笑顔」というのか知らんが、無駄にクソ明るい笑顔を振りまいて、どこから取り出したのかスケボーを右脇に担いで、奴は去って行った。広い道まで出ると、流れるように滑り出す。 ちょっとちょっと、お兄さんの美しい顔パリのど真ん中で、そんな無粋なもん乗り回さないでよ。 まったく、上手いもんだ。お兄さんアレやった日には筋肉痛で眠れないだろうな……。 「車に気を付けろー」 寒いから早く追い出したかったはずなのに、いつまでもこうやって眺めてるんじゃまったく意味がないとふと思ったのは、くしゃみが一つ飛び出してからだった。 文法書を本田さんちに放置プレイして来てしまったので、たぶんまたタイトルの兄ちゃん語は間違っている。いや、文法書があったところでしょせん私だから間違ってると思いますが… The angel comes through the door.みたいにしたかったんです…orz でもcome throughももうなんかいっぱい意味があってもうアレですよね…comeとthroughで分けるには何て言えばいいんだろうか…byか? acrossか? 兄ちゃんのにわとりはエレーヌで合ってますよね…? ピエールが有名すぎてなかなか確認できなかったんだぜ… (2009/11/26)
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