Oh, beautiful world!


Oh, melancholy world!

「俺、ロシアのことけっこう好きだぞ」
 アメリカくんがそんな傲慢で謎に満ちた謎の言葉を僕によこしたのは、確か一ヶ月前のことだったと思う。
 それに対し、確か僕は「へーそう」と気のない返事をし、やけに満足げな顔をしたアメリカくんをその場に置いて、予定通り帰途についた。これもリトアニアあたりに訊けば裏が取れるだろう。
 嫌味の応酬なんていつものこと、それが何十年と続けば、たまには趣向を凝らしたやりとりも混ざる。そんなわけでその出来事は、僕にとっては思い出すのも一苦労の些末事として片づけられたわけだった。それで今、こんなに唸りながら記憶を辿る羽目になっている。
 再び携帯の画面に目を落としてため息をついた瞬間、腰かけていたソファの背もたれ部分から、世にも恐ろしい声が聞こえてきた。
「……兄さん、難しい顔をしてさっきから何を見ているの」
「ひぃいいっ!」
 まるで背もたれが氷にでもなったかのように、思わず背筋がピンと伸びる。
「ベ、ベ……いつから……」
 長く垂れたマフラーの端を、保身のために引き寄せながら、僕は神出鬼没の妹に問うた。思わずてのひらを滑り落ちた携帯が、床を跳ねてかしゃん、と音を立てる。
 拾い上げる間もなく、上品な紺色のワンピースに身を包んだ妹が、さっと掠め取ってしまった。
「『今度の日曜……暇だったら俺んちに遊びに来ないかい?』」
 長い前髪の奥に隠された表情が怖い。
「ア、アメリカくんの、嫌がらせだよ」
 なぜ僕がこんな弁明をしなければならないのか。もしやアメリカくんめ、ベラルーシのこの行動まで読んで……そんなバカな。
「私の兄さんの休日を独占しようだなんて、なんておこがましい」
「だから、冗談なんだって」
「もちろん行かないわよね? 兄さん、ねぇ、兄さん……」
「もちろんです!」
 姉さんだけでなく妹まで利用して僕を困らせようだなんて、あまりにひどいじゃないか、鬼、悪魔!
 ただでさえ底冷えする僕の家の気温が、一、二度は確実に下がった。
「じゃあ返事は『死ね腐れハンバーガー、兄さんは私のものよ』でいいわね」
「え、ええええっ……!」
 いくらあったかいところはいいと言ったって、アメリカくんの家に遊びに行くなんてまっぴらごめんだ。仕事ですら嫌悪感で前日はよく眠れないというのに。
 だからといって、だからといって。
 目にも止まらぬ早さで携帯を操作した妹は、そのままリビングを出て行こうとする。
「ちょ、か、返してね、僕の電話……」
 なるべく刺激しないよう、ベラルーシが一番喜ぶ笑顔を作って、そっと手の中の携帯を引き抜いた。――恐ろしい力が必要だった。
「兄さん……」
「仕事で使うから、ね?」
 珍獣に麻酔針を打ち込む作業員ってこんな気分かな、と思いながら、恐る恐る後ずさる。だがそれを上回る勢いで、彼女は合間を詰めてきた。
「仕事なんていいじゃない。私と結婚しましょう? そうすれば……」
「うん、それはまた今度ね! あ、いけない、さっそく仕事の電話かなぁ! もしもし、もしもーし!」
 全力疾走で自らの家を脱出し、運よく走ってきたバスに飛び乗って僕はようやく一息ついた。自分の家でゆっくり考え事もできないなんて、ああ神様、僕がいったい何をしたというのですか。
「あ、財布忘れ……ハァ……」
 もう嫌だ、泣きたい。必死でコートのポケットを探ると、何枚か小銭が出てきた。よかった、これでなんとか。
 そもそもいつもならあんなに至近距離に接近されるまで気づかないなんてことは……ままあるけどあんまりないんだ。こうなったのも全部アメリカくんのせいだ。
 先月から事あるごとにくだらないことで電話をかけてきて、てっきり嫌がらせかと思ってたのに、仕事やなんかで電話に出られないときや、そもそも完全無視を決め込んだときなど、メールまで送ってくるようになった。
 そもそも仕事相手だし、そうしたくだらない内容のコンタクトの中にも、ごくまれに重要な連絡が紛れ込んでいたりするから、そうそう着信拒否なんてこともできないのが厄介だ。
 いったいどういうつもりなのか。
 先週だって似たような電話があった。暇なら遊びに来ないかい、フットボールのチケットが余った、他のところでもいいよ、南の島とか、君好き?
 もしも僕が皮肉たっぷりに「ぜひ行きたいな」と返したらどうなるのだろう。ぼんやり考えながら窓の外を眺める。ブレーキのたびに、僕の額はごつんと窓にぶつかった。


Oh, everlasting world!

「おい、なんか携帯鳴ってたぞ」
 アイスを掻き込みながら日本に貸してもらったキュートなホラーゲームに興じていると、背後から不穏な臭いをともなって、居丈高な声。
「ん」
 スプーンをくわえながらじゃうまく喋れない。右手でコントローラーをいじりつつ、左手を伸ばすと、ノーコンピッチャーは剛速球を俺のこめかみにお見舞いしてくれた。
 それでズレた眼鏡を直し、再びアイスを掘りにかかる。
「ちょっとイギリス、俺のキッチン破壊しないでくれよ!」
 臭いはますますひどくなってきていた。こんな空気じゃせっかくの虹色アイスが台無しだ。
「どこぞの箱入りお坊ちゃんじゃあるまいし、するか!」
「生物兵器作るなら自分の家でやってくれればいいのに……」
「あ? 何だって? 俺はなぁ、お前がまた大量生産大量消費のファストフードばっかり食べてるんじゃないかって心配してだなぁ……」
「君も似たような状況だろうに」
「うるっせぇよ!」
「ああもういいからキッチン見てなよ、絶対焦げてる焦げてる」
「こっ、これくらいの方が美味いんだよ! わざとだよバーカ!」
 ようやく引っ込んだ眉毛を見送って、俺は再びゲームに集中した。うん、何か忘れてるぞ。
「あぁっと! そういえばさっき俺メール送ったんじゃないか!」
 ひょっとしたらその返事かも!
 スプーンもコントローラーも放り出して、俺は小さな手のひらサイズの機械に飛びついた。メールボックスを開く時間も惜しい。
「……ん?」
 しねくされはんばーがー、にいさんは、わたしのものよ?
「……んんんん?」
 にいさん……はて、ロシアに妹がいただろうか。世の中単純が一番だ、細かいことは大雑把にしか覚えていられない。
「知らないことだらけだなぁ」
 いつだってにこにこにこにこ、他人を阻むその鉄壁の氷土。いつしか俺も、その扉を開けて中に招き入れてもらえるのかい?
 ロシアは大概手ごわい。何度好きだって言っても絶対好意的なセリフは返してくれないし、何度誘っても何度電話してもつれないし、俺の気持ち、ちゃんと伝わってないんじゃないだろうか。
 こんなに好きなのに。俺なら君を幸せにする自信があるぞ。だってヒーローだからね!
 ああ、ひょっとして俺、試されてるのかな。
「じゃあ次は、プレゼント攻撃かなぁ……」
 香水、アクセサリー、バッグ、靴、百万ドルの夜景、ドレス、下着、薔薇の花束……薔薇って感じじゃないよなぁ、ひまわり?
 自慢話にも似たフランスの講釈を思い出しながら、俺はソファに寝転んだ。そのままの状態で、アイスの空容器をゴミ箱めがけて、ナイッシュー!
 あんな風にスパッと行くと思ってたんだけどなあ、なんてったって俺はナイスガイだしヒーローだし、デキる男だし。金はあるし力もあるし能力だって。
「俺の何が不足なんだい!」
 思わず唸ると、話しかけられたと勘違いしたのか、悪魔の所与をお皿に盛りつけたイギリスがいそいそとキッチンから現れた。
「あ? 思慮分別じゃねぇの?」
「それならもう十分だよ」
 口に入れてみる。
 うーんマズイ、もう一杯!
「ネガティブキャンペーンか、ネガティブキャンペーンなのか」
「ハハハ、本音を言ったまでさ」
「まぁたまには自己批判っつうか検討作業って必要だよな、大料理人イギリス様の、さらなる上達のためにな!」
「だから自分ちでやってくれってば。参考までに訊くけど、これは一体何のなれの果てなんだい?」
「見ればわかるだろ」
「わからないから訊いてるんだぞ!」
 訊いたって答えのないことの、なんと多いことか!


Oh, wonderful world!

 今日もいつも通りに断られてしまったので、プレゼントでも見つくろいに界隈へ繰り出そうかと上着のパーカーを羽織っているところに、呼び鈴が鳴った。
 また友達いないイギリスが暇潰しに来たのだろうか、まったく勘弁してほしい。
「開いてるよ!」
 怒鳴ったが返事はない。ウンともスンとも言わないドアに、ひょっとしたら郵便屋さんか何かかも、とジッパーを上げながら「はいはい」とドアを開ければ。
「……今日、暇なんだよね?」
 あまりに現実離れした光景に、しばし脳がフリーズした。
 ザッ、と今上げたばかりのジッパーを下ろし、外出用のパーカーを脱ぎ捨ててみせる。我ながらスロー映像にも映るかどうかの妙技に感動した。
「うん、暇だぞ!」
 中身が多すぎて上手く閉まらない戸棚をあたふたと圧迫し、パーカーともども、脱ぎ散らかした衣服を慌てて掻き集める。
「いやー……まさか来てくれるとは思ってなかったんだぞ! 連絡してくれたら迎えに……」
 俺にできる精一杯の笑顔で歓迎の意を伝えたのに、ロシアはさっとそれを遮る。余裕のない声だった。
「いや、通りかかっただけだから。ついでだから」
 そして油断なく周囲に目線を走らせ。
「……何をそんなに怯えてるんだい? うちには、いきなり客人に飛びかかるような猛犬はいないぞ」
 首を傾げながらドアを閉めれば、ようやく安堵したように一息つき、もういつもの温和な笑顔だ。
「ううん、大丈夫、こっちの話。それより今日は手土産を持ってきたんだ。気に入ってくれるといいんだけど」
 え、どうしよう。まったく予想外の連続すぎる。
 こっちは何の準備もしてないぞ。ああ、あの噂のドーナツ、買っておけばよかったな。
 しかしながら、にこにことロシアが取り出したのは。
 ――フェイスティッシュ。
 受け取ったもののあまりの軽さに、しばし思考が停止する。
「こないだよっぽどちり紙欲しがってたみたいだからさ。ついでに、一人寂しい夜にも使ってね」
 どう解釈したらいいのか判断に困るセリフだが、ヒーローに大切なのはポジティブ・シンキング! 明るいスマイルを返さなければ!
「覚えててくれたんだな、嬉しいぞ! ありがとう、大切に使うよ!」
 ヒーロー然とした対応に感じ入るでもなく、ロシアはにこにこと表情を崩さなかった。
 どうせコートもマフラーも脱がないことはわかりきっていたので、そのままリビングのソファを勧める。
「うわー、さすがロシア産! 肌触りが違うな!」
 手土産をもらったら、その場で開けて誉めるのがアメリカ式。
「それは一番安いやつだからね。君のところと大差ないと思うけどな」
 謙遜? するのが……うん、どこ式だろう……。
 なんだかこんな風に俺の家でロシアと雑談を交わしているなんて、まだ信じられない。これは夢か現実か。
「あー……何か飲む?」
「あつーいロシアンティー」
 ティー。
 ティー。紅茶なら当然うちでも飲むし、どこぞの元宗主国も淹れ方にはうるさい。
 でもロシアンティーって何だ、なんとなくイメージはあるが、そもそも何だ。
「……え、ええと、ロシアが淹れ方教えてくれるなら、俺覚えるよ」
 しかしヒーローたるもの、好きな人が飲みたいと言っているのに、「ないよ」で済ませていいものだろうか。否!
「じゃあいいや」
 俺の気合いは三秒でくじかれた。
「……えと、なんかごめん。じゃあ、今日は俺が腕をふるってすっごく美味しいコーヒー淹れるんだぞ!」
 ああ、最近シアトル式にハマって本やら機械やら豆やらキッチンの肥やしにしていてよかった!
 女を落とすにはまず舌からだ、だよな、フランス! 女じゃないけど!
「別にいいよ。おかまいなく」
「いやいやいや! 待っててくれよそこで!」
 ヒーローに不可能はないんだぞ!


Oh, amazing world!

 せっかくの休日に終日監禁の刑に遭いそうだという夢のお告げに従って、土曜深夜に脱走を試みたはいいものの、正直行くあてもない。
 途方に暮れて、気づけば海を越えているなんて、本当にバカげていると思う。
 第一、ポーズにせよ今日アメリカくんに誘われていたことはベラルーシだって知ってるのに、なんて愚かな行動を取ってしまったんだろう。恐怖は理性に勝る、まったくその通りだ。
 まさかここまでは追って来ないと思うけど、いや、そうでないと困る。切実に。
 自分とその運命に嫌気が差してぐったりしているところへ、ふわりと強いコーヒーの香り。気だるい体が強引に覚醒させられる感がある。
 コーヒーはあんまり好きじゃないんだけど、家じゃもっぱら紅茶だから。
 酸っぱい風味を思い出して、唾液が分泌された。
「なんだか元気がないんだな」
「そんなことないよ」
 こんな奴に弱みを握られてなるものか。どうせ僕に姉妹がいることすら、うろ覚えなのだろうし。
 海を隔ててこれだけ風土が違えば、まぁ無関心でもいいのだろうけれど。普通はそうだ。けれどそれでも無理解を責められるのは、彼が「世界の」ヒーローたらんと望むからだ。
「自業自得だね」
 呟きながら、義理のようにカップに口をつけた。
「……ミルクと砂糖は……って飲むの早いな!」
「……僕の家のと全然違う」
 思わず素直な本音を呟くと、別段誉めたわけでもないのに、アメリカくんはわざとらしいくらい相好を崩した。
「うちのコーヒーはおいしいだろう?」
 からっぽの胃に、強すぎる存在感。独特の後味。これじゃ、食べてたものの味もみんな持ってかれちゃうんだろうな。――まるでアメリカくんみたい。
「やっぱり僕は紅茶が好きかな」
「じゃあ教えてくれよ、次からはそれ淹れるよ」
 ちょっぴり機嫌を損ねたのだろうか。それでも、いつものような嫌味でなく、見せかけだけは建設的な切り返し。新しいなこのパターン、と感心しながら、僕もそれに乗っかることにした。
「たっぷりの茶葉でね、うんと濃く作るんだよ。熱い熱いお湯で。それで、好みの味になるまで薄めるんだ」
 ジャムと角砂糖とチョコレートと、ビスケットと、数えきれない甘い甘いお菓子をテーブルに並べて。
「お菓子ならあるぞ、食べるかい?」
「あ、チョコ。食べる。なんでこんな気持ち悪ーい形なの?」
「クールだろ?」
 苦いコーヒーはほっぽって、甘いチョコを頬張ると、やっぱり紅茶が欲しくなる。
「……茶葉があるなら借りてもいい? あと、やかん」
「……ほふほ」
 口いっぱいにお菓子を詰め込んで、子供みたいな顔で答える家主。
 なんだろうなぁ、この日曜日。
 僕がお湯を沸かしてる横で、「コーラ飲みたくなってきた」なんて、冷蔵庫を漁っている。
 お姉ちゃんともベラルーシとも、リトアニアともラトビアともエストニアとも違う。まったく読めない、不思議の国の住人。独善的な正義を振りかざし、懐には厚い財布と冷たい銃とを隠し持っていて、いつでも僕の頭を札束ではたけるし、無慈悲な銃弾で撃ち抜ける――。
 そんな彼と、僕とが、同じ部屋で、まったりと。
 この度の宗旨替えは、いったいどういうつもりなのだろう。
 僕を近づけて、手懐けでもするつもり?
 でもその手には乗らないよ、残念ながらね。僕は君の思い通りになんかならない。
 たとえ世界中が屈しても、僕だけは。
「……僕も、君がけっこう好きかもね」
 ゲームのつもりで、いつかのセリフをそっくり返す。
 ごとん、と2Lペットボトルが床を転がった(といっても中身はもう半分以上空だった)。
「ほ、ほんとかい?」
「さあ」
 ああそういえば新しいカップを出さないとお茶が入れられないじゃないか、と食器棚らしき方へ注意を逸らしたのがいけなかった。突然タックルを食らい、飾り戸棚に思い切り頭をぶつける。
「やった! ロシア! 俺たちこれで両想いだな!」
 何を言っているのかよくわからないし、いい歳して全体重をかけて抱きついてくる大男は正直うっとおしかったけれど、その時の僕はそんなことには構っちゃいられなかったんだ。
 ふと目に入った窓の外に、落ち着いたベルベットのリボン。
 ――兄さん、やっぱりここにいたのね。
 声なんか聞こえなかった。けれど彼女の唇ははっきりとそう綴って。
 もう、アメリカくんのバカ力で圧死したってことにしてほしい。
 自主的に意識を手放す瞬間、僕は結構安心していた。だって僕は今、「ヒーロー」の隣にいるんだよ。

 どんなに厳しい冬でも、どんなにお祈りしても、子供の頃には決して僕の前に現れてくれることなどなかった、ヒーローの。















 メモには「自分だけ付き合ってるつもりでウザいメリカ」って書いてあった。
 自分では自分イイ男だと思ってるのに受けなメリカがだいぶ好きです。


(2009/9/10)



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