perfum de amour


「ん? お前、香水変えた?」
 すれ違いざま投げかけられた声に飛び上がりそうになったのは、声をかけられたのが意外だったからというわけでは決してない。
 もちろん前方からイギリスが歩いてくるのは見えていたのだし、目が合えば手を上げて「やあ」と笑顔を作るくらいの準備はあった。
 しかしたった今この身に降りかかってきた言葉はまったく予想だにしていなかったものであり、しかも今一番突かれたくない事柄でもあった。
「え、え、ええ?」
 思わず声が裏返る。
 奇妙な対応に、ほんの少しの挨拶程度だったつもりが、好奇心を刺激されたらしい。すでに半歩行きかけていたイギリスは、わざわざ戻ってきてスンスンと鼻を鳴らし始めた。
「ん、やっぱ違う」
「ちょ……」
 思わず手に持っていたファイルでイギリスの顔面を強打してしまう。
「っ痛ぇな、何すんだ!」
「ご、ごめん、つい……」
「謝ってるつもりならこのファイルをどけろ!」
 盾のようにファイルを胸の前にかざしたまま、後ずさったアメリカにイギリスはチッと舌を鳴らした。
「なんなんだよ……、お前、いっつも夜遊びしてる時とか、趣味わっるいのつけてるけど、今回はまたなんか、ずいぶん系統が違うのな?」
「え、えーそうかい? 俺の趣味だよ、うん、全然、範囲内」
「そうかぁー? どっちかっていうとあの、顔も見たくねぇ腐れワ……」
 イギリスの鼻孔にフレグランスの届かぬところへと、じりじり後ずさるアメリカに気付かず、イギリスはその特徴的な眉をひそめた。
 トン、と背中が何かに受け止められたのと、二人がそれぞれ別々の意味で今一番聞きたくなかった声が場に割り込んできたのは、ちょうど同時だった。
「ボンジュール、お二人さん」
 声の出所と背後の温もりの奇妙な一致に、一気に恐慌状態に陥ったアメリカに対し、イギリスの表情には何ら変化がなかった。はぁー、と重苦しいため息が響く。
「あー、出たよ出た出た。呼んでねぇよ」
「嘘だー、呼んだね、お兄さん感じたもん」
「そりゃあれだろ、美女の亡霊にでも取り憑かれてんじゃねぇの? 好きだろ、そういうの」
「お兄さんお前と違ってそういうの信じないけど、美女ならいつでも大歓迎」
 アメリカの肩に置かれた手の存在感。いつもの罵倒の応酬が、やけに長く感じられる。
 このままいくと、どうせいつものように取っ組み合いのケンカに発展するまでどちらも引かないのだろう。まったくもって、逃げるタイミングを失った。前門のイギリス、後門のフランスである。
「あ、おま、アメリカになれなれしく触んなよ!」
 途方に暮れていると、ついにイギリスに見つかってしまった。妙な言い方だが、今までカナダのように空気と化すべく努力していたのだから、そうとしか言い様がない。
 フランスは絶好の機会を得たとばかりにニヤニヤとイギリスを眺めながら、ぐいとアメリカの首に腕を回す。
「あれー? イギリスはこういうこと許してもらえないの?」
 わざとらしく顔まで近付けて。顔が赤くなってでもいたら、もう死ぬしかない。
「そういう問題じゃねぇだろ! いいから離せよ!」
 もう耐えられない。イギリスが騒げば騒ぐほど、それを理由にフランスはベタベタとアメリカに接触を試みるのだろう。イギリスの反応を楽しむ、ただそれだけのために。
「……お、おっさんたちのケンカに俺を巻き込まないでくれよ!」
 やっとのことでそれだけを言って、乱暴に拘束を抜け出した。
 ふわりと嗅ぎ慣れた香りが漂う。自分の匂いなど自分ではわからないが、フランス愛用の香水なら、嫌というほど鼻に残っている。
「おい、アメリカ!」
 足音高く身を翻したアメリカの背に、イギリスの聞き慣れた声がかかる。アメリカが嫌いな、保護者の声だ。



 手が震えて、カードキーがうまく認証されない。何度もガチャガチャやっているものだから、通りかかる宿泊客に不審そうな目を向けられてしまった。
「くそっ」
 ようやくアメリカを呑みこんだ扉が、何事もなかったかのように定位置に収まる。その様に意味もなくイライラして、スーツのままベッドにダイブした。
 シャワーだのメールチェックだの夕食だのの雑事は置いて、このまま不貞寝してしまいたい。
 やわらかなシーツの感触。途端に昨夜のことが思い出されて、体が熱くなった。
 がばりと身を起こして首を振る。
「違う違う違う違う、しっかりしろ俺!」
 首の後ろに吹きかけたほんの僅かな。
 ――「アメリカ」って名前なんだ。
 意味もなく目頭が熱くなって、視界がぼやける。
 ――お前をイメージして作ったんだぜ。
 そもそもそういった試作品を、フランスがアメリカの元に持ってくるのは大変珍しいことだった。
 ファッションも美食も、世界をリードすると豪語して憚らない豪華絢爛な文化を誇る彼だったけれど、どうせお前のような派手だけが取り柄のお子様には分からないだろうと、そればかりが口癖だった。
 そんな彼が、あんな甘いセリフを吐いて――まぁ彼が甘いセリフを吐くのは半ば仕様のようなところもあったけれども――、新作の試作品をアメリカにくれたのだ。
 どうして舞い上がらないでいられようか。
 正直、気取った香りはちっとも「アメリカ」をイメージしたとは思えなかったし、自分で買うなら絶対に選ばないようなものだったけれど、フランスからのプレゼントだと思えば何でもよかった。なんだか大人の仲間入りをした子供のような妙な気分で、恐る恐る1プッシュしたのを覚えている。今朝のことだ。
 どうせ誰も、アメリカの香水が変わったことになど気付かないだろうと思っていたのに、イギリスに易々と言い当てられたのがとても気まずかったし、プレゼントされた香水を嬉々として翌日につけているなどとフランスに知られるのもきまりが悪かった。
「……だって」
 呟いた言葉はベッドリネンに吸い込まれる。
 あんなのはみんなフランスのリップサービス。口から先に生まれてきたような彼だから、ベッドを共にした相手には、何も考えずスラスラああいう言葉が出てくるのだろう。
 そんなことで浮かれるのは愚の骨頂でしかない。だって彼が本当に好きなのは、アメリカではないのだから。
 フランスは愛の国。ロマンと美さえ伴えば、誰とでも夜を過ごす。けれど本当に大切な人には決して手を出さない。そういう男だと思う。
 そうして、一晩で記憶から消えていく赤の他人とは一線を画すのだ――そう、思う。
 アメリカを挟んで言い合っていた二人の様子を思い出す。
 きっとイギリスは、フランスとどうこうなるだなんて夢にも思ったことはないのだろう。いや、一度くらいはあるのかもしれない。彼がその昔フランスの後を追っていたことは有名な話だ。その反動で、今の彼の過剰なまでの反発があるのだから。けれど少なくとも今は、イギリスにその気はない――イギリスが最も気にかけているアメリカが言うのだから間違いないと思う。
 だがフランスのイギリスを見る目はどうだ。あの慈愛に満ちた――何千年だってイギリスを見守っていようという堅固な覚悟がにじみ出るような――あの軽佻浮薄が取り柄でありモットーであるフランスが!
 その眼差しに気付いたとき、情けないことに真っ先に思い浮かんだ言葉をアメリカは今でも認めることができない。「敵わない」だなんて――このアメリカが。宗主国イギリスを超え世界の頂点に立つべく常に上を目指し続けてきたこのアメリカが。敵わないだなんて、たった一瞬でも。
 気づけばぎゅうと枕を抱きしめて考え込んでいた。まったくよくない傾向だ。明日も会議で早いというのに。
 ごそりとポケットから取り出した携帯はウンともスンとも言わない。液晶を光らせて表示した名前を見つめていても、二人の距離が縮まるわけでなし。
 惨めだなんて、絶対に認めない。
 しよう、なんてフランスの好みとは真逆の誘い文句を不躾にメールして、そのまま携帯はベッドに放った。何事もなかったかのようにシャワーを浴びてメールチェックをして、もう寝ようかと半乾きの頭を拭き直しているところに、コンコン、と控えめなノックがあった。気付いたのはほとんど奇跡に近いと思う。
 扉を開ければ、既にシャワーを浴びたのだろう、リラックスした出で立ちのフランスが、当然のように部屋に入ってくるので、アメリカは無言でそれを受け入れた。いつものように。
「やっぱお前の香りだな、あれは」
 ベッドに腰かけたフランスが、真っ白なシーツを撫でながら何の前触れもなくぽつり言う。それだけで、バスローブをまとっただけの体は簡単に体温を跳ねあげる。
「……何の話だい」
「さっそく付けてくれたんだろ? あの坊ちゃんにまで気づかれるとは思ってなかったけど、相変わらず過保護だねぇ」
 やはり気づかれていた。すれ違っただけのイギリスが気付いたのに、あれだけ至近距離にいた贈り主のフランスが気付かないわけはないのだけれど、やはりどこかきまり悪い。視線に焦がされそうだなんてバカなことを考えながら、アメリカはらしくもなく俯いた。
「嬉しい? イギリスに気付いてもらえて」
「ん?」
 言ってから後悔する。こんな子供じみた不平じゃ、きっと軽くかわされる。
「なーに言ってんだ、お前のためにプレゼントしたんだぜ? あんな乱暴だけが取り柄のバカなんか関係ないっつぅの」
 こっちはオマケみたいに額に落とされる口付けに、心臓が飛び出そうになっているというのに。
 よくもまぁ臆面もなくそんな嘘を吐けるものだと、感心すらしながら、実はこの仮面に見える表情の方が真実ならいいと、そう思ってしまう自分がいることにも気づく。
 あーあ、俺ってバカみたいだなぁ。
 誰にともなく呟いて、今夜も夢を見ながらシーツに沈む。



「あれ、今日はいつものなんだな」
 なんだかどこかで繰り広げた会話だとウンザリしながら、机の上に書類を広げる。
 何の話題かなんてのは、わざとらしいくらいにスーツの胸元に近づけられた顔でわかる。
「君は俺のストーカーか何かかい?」
 うっとおしいにはうっとおしいが、今日は別段、跳ねのける理由もない。
 昨日あんなに気まずかったのは、やはりアメリカの中に、こんな香りは自分に似合わないという思いがあったからなのかもしれない。
 自信がないと、つい過剰に反応してしまうものなのです、いつか日本がそう言っていた。
「君に、似合わないって言われたからね」
 お前をイメージして作ったなどと口先だけの。
 簡単に信じ込めるなんて、どうかしていた。
「えっ、俺?」
 イギリスはぎょっと身を引いた。
 そういえば今まで、彼に注意されたり顔をしかめられたりしたからといって、次の日からその意見を容れたことなど、別段なかったかもしれない。
「いや、でもせっかく買ったんだろ? なんかもったいなくねぇ? ほら、その、俺、そんなセンスある方でもないみたいだし……」
 ならばこのうろたえ方も頷ける、だろうか。
 ああ、確かにらしくない。すべてが自分らしくない。
「それに、なんつぅの、慣れなかっただけで、似合ってなくも、その、なかったような……」
「どっちだい」
「まぁ、とにかく、なんつぅの? お前のために作られた、みたいな感じがしたっつったらおかしいか。なんか、俺のイメージとは合わなかったけどよ、誰かがお前のために贈った、とかなのかなって」
 どうして。
 ぎりりとファイルをめくる手に力がこもる。
 どうして、今更、そんな。
 もうやめたのに。期待するのは。
 どう足掻いたって、フランスが、好きなのは。
「……君のそれって、わざとじゃないんだろうけどさ」
「なんだよ、ごめんって。まさか俺の言うことなんかお前がマジメに聞くと思わねぇじゃん」
 イギリスが意味不明な方向に慌て出したその矢先、またも朝からアンニュイな声。
 ああ、この展開ももう何度目かだなぁ、とぼんやり考えた。
「ボンジュール、お二人さん?」
 敢えて書類に目を落として返事をしなかったアメリカの、首筋から漂う香りが昨日と違うことに気づいただろうか。
 気づかないはずがないのだ、この男が。昨日今日会ったばかりの女の、わずかな化粧の違いにすら気づいたりする。それが男の嗜みだとも言っていたか。
 一見すると表情には何ら変化は見られない。
 気づいたとてそれだけのこと。残念なのか悔しいのか惨めなのか、必死に話題を誘導し、イギリスの注意をこちらに引きつけながら、背中を伝う冷や汗を隠し切れない。
 わかっている。こんな駆け引きにもなっていない気まぐれで、気が引けるはずがないのに!
 ああどうして、自分は愛されているとバカみたいに信じることができないのだろう。ああどうして、こんなに近くで決して巻き戻せない過ぎた時間の長さをむざむざ実感させられなければならないのだろう。
 香水に冠した名前なんかで、こんな子供の機嫌を取って、そんなことを幾人もの相手の間で繰り返して。それが彼の生き方なのだろうか。
 ああ、理解ができそうにない。
 それなのに、そんなことに一喜一憂してしまう自分がいることが一番、理解できないのだ。















 なんか私の勝手なイメージだとメリカって健康的で香水なんかつけない感じですが、着色料とか大好きだし、やっぱ欧米の人って違うのかな、とか色々考えてたら訳わかんなくなりました。


(2009/9/7)



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