![]() いや久々にこんなに頑張って細かい作業してしまった…ドット絵たくさんやる人って神ですね!!! 私にここまでさせるなんて、加米、おそろしい子…! でも残念クオリティ! 【我ながらウザい設定集。果てしなく自分用】 ちょっとややこしいので北米兄弟についての自分設定を書いときます。 すっごくオリジナルなので本気にしないでください。すべて私の萌と妄想です。 というわけでいつものことですが転載・引用厳禁でお願いいたします。 二人とも西洋由来の白人ということにしておきます。カナダについては、もとは完全にフランス系、徐々に英と仏のハーフみたいになっていきます。メリカは完全にいわゆるWASP(白人、アングロサクソン系、プロテスタント)。原住民や後の東欧やアジア、アフリカなどからの移民たちの利害をも「国」として彼らが代弁するようになるのは、もっと後の話です。 まずカナダについてです。この子が最初に出会ったのはフランス兄ちゃん。1608年頃に生まれ、すぐにフランス兄ちゃんに保護されることに。場所はヌーベルフランス、ケベック植民地。この頃のカナダの領域はフランスからの入植者が開拓した地域、ケベック、ニューファンドランド、ハドソン湾地方など限られた開拓地(ヌーベルフランス)で、今より全然小さい子でした。 この頃、少し遅れてお隣のアメリカも誕生し、じわじわ拡大していきます(1607年のヴァージニア植民地は一度失敗しているので、現在のアメリカとは別物と解釈し、アメリカ入植の象徴とされることの多いピルグリムファーザーズ入植の1620年頃から、現在のアメリカが生まれたとします。場所はマサチューセッツ州都ボストン近郊)。 というわけでうちの加米はカナダがお兄ちゃん、ということにしておきます(単に私がそっちの方が好きなだけなんだ…!)。 1638年、スーさんがデラウェア川沿いに小さな別荘を建てます。 で、いつの間にかアメリカの話に移ってますが、ウィ●ペディア先生によると「ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)←※これはもうちょっと後の時代のことですが…まぁ当時のヨーロッパ人たちは「カナダとアメリカの国境はここなの!」なんてことは考えてないでしょうから、地続きの植民地としてカナダのヌーベルフランスもライバルとして捉えていたでしょう、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである」ということなので、この時代はまさにアメリカでヨーロッパみんながわーわー川遊びしててフィンが泣いてる(別荘がオランダさんに取られるのは1655年のことです)みたいなあのシーンのイメージですね。 そしてイギリスとアメリカは出会い、アメリカはフランス料理の誘惑にも負けず、イギリスを選んだのでした(どっちか選んで子分になれば守ってやんよ! っていうのも相当横暴ですが、それが当時のヨーロッパです。怖いですね!)。 そもそもメリカがWASPな感じに生まれていることから、すでにメリカ争奪戦でのイギリス勝利を予感させますね。「国」がどういうタイミングでどういう姿で生まれるか、なんてのは、神様が後世の歴史を知ってないとできないことですし、逆に言えば生まれた「国」を見たらその国の運命がわかっちゃう、なんてことに……。でもそこはやっぱ「擬人化」というフィクションなので、この世界の人たちはそんなこと考えないんだと思っています。「国」はあくまで現実の国の姿に合わせて後からついてくるもので、やっぱり結果は自分たちが動かすものだと。だからメリカがイギリス系の血を色濃く継いで生まれて来ても、イギイギを選んでも、フランス兄ちゃんは戦争に負けるまでアメリカからは手を引くつもりはありません。 そんなわけで、カナダ・フランスのいるヌーベルフランス(北)、アメリカ・イギリスのいるニューイングランド(真ん中らへん)、オランダのいるニューネーデルラント(南)は拡大するにつれ、お互いを意識、たまにぶつかり合うことも……。 1655年には、先程出てきたように、スーさんちの別荘はオランダさんに取られてしまいます。 ちなみに、カナダにいたフランス兄ちゃんが現在のメリカの領域に足を踏み入れるのはさっきも名前だけ出てきたフレンチルイジアナあたりですが、あそこの探検を始めるのが1660年頃、カナダ側から入って五大湖、ミシシッピ川を進んでいくというルートです。 その間に1665年〜67年の第二次英蘭戦争などを経て、ポルトガル・スペインに代わり栄華を極めていたオランダも徐々に衰退し、覇権をイギリスに譲ることになっていきます。オランダのニューネーデルラント植民地はイギリスに占領されて、「ニューアムステルダム」は「ニューヨーク」と名づけられました。さっきオランダ領になってたスーさん家の別荘も、いまやイギリスのものです。この後オランダさんが最後のひと頑張りで取り返そうとしたりなんだりするんですが、結局勝ったのはイギリス。眉毛、ノリノリです。 で、さっき探検中だった「ルイジアナ」ですが、フランス兄ちゃんが領有権を主張し出すのは1682年、ですが本格的に植民を開始するのは18世紀になってからです。 こうしてスーさんやオランダは敗退し、いよいよ、17世紀から18世紀にかけイギイギとフランス兄ちゃんがカナダ・アメリカ・原住民を巻き込み北米大陸でも全面対決。約百年に渡る英仏植民地戦争が始まります。 ウィキペ●ィアにはこれら一連の戦争の歴史的評価について、「戦争の進行につれて英国の優位が次第に明白となった。フランスのヌーベルフランス植民地(カナダ)に対して英国のアメリカ植民地が人口でも生産力でも優位にあり、フランスはインディアン同盟軍の効果的な使用によって補おうとしたが結局は英国に圧倒された。 皮肉にも英国の圧倒的勝利はニューイングランド植民地の喪失を招いた。フランスの脅威がなくなると、ニューイングランド植民地は英国の軍事的保護をほとんど必要としなくなり、むしろ新たに獲得したカナダがニューイングランドから分離支配されたことに不満を抱くようになった。これが結局はアメリカ独立戦争となって爆発することになる。」とあります。 えー、では細かくこれらの戦争がカナダとアメリカに与えた影響について見てみましょう。 1689年から1697年までのウィリアム王戦争が最初の戦争です。 まぁなんか色々あって無事終結したのですが、1702年にはアン女王戦争が始まってしまいます。これはヨーロッパでのスペイン継承戦争に呼応して起こった戦争で、1713年に終結。 大切なのはこの時結ばれたユトレヒト条約です。勝ったイギリスはヌーベルフランス(カナダ)の主要部をゲット! ここで初めて、カナダの人生に「イギリスさん」が具体的な登場人物となって現れたのではないかと思っています。マイ設定のカナダ誕生から、実に約百年後の出来事です。ここから、フランス譲りのさらさらヘアーなカナダが、徐々にイギリスに近くなっていくのだと思うわけです。 でもってここで、イギリスがメリカにカナダを初めて紹介したシーンが浮かんでくるわけですが、この時代にしては二人ともちびっこすぎです。うーんどうしよう、おかしいな……と考えた結果、あのカナダはイギリスが一時的にフランスから誘拐して(※借りて)きたんだということにしました。というわけであれは17世紀初頭の出来事ということにしておきます。お互いにお互いを初めて認識したのがあそこだったわけですから「げ、フランスの奴らも植民地作ってやがんのかよ! ……ま、いいか」とイギイギの家から来た人々が思い始めた頃なんじゃないかと。 と思ったけどこのページの一番下で考察したところ、この時代もまだまだ二人は赤ちゃん外見みたいです……あれれ? で、まだまだ英仏の植民地戦争は続きます。ヨーロッパでのオーストリア継承戦争に呼応し、1744年、ジョージ王戦争が勃発。1748年に終結します。 今度はヨーロッパでの七年戦争の2年前、1754年からフレンチ・インディアン戦争が開始されます。当初はフランス優勢でしたが、結局イギリス勝利に終わりました。 そしてここでまた重要なのが1763年パリ条約。フランスは北米大陸での領土をすべて失うことになりました。カナダの残りとミシシッピ以東のルイジアナはイギリスへ、ミシシッピ以西のルイジアナはスペインへ割譲されることに……。 ここをもって、英仏植民地戦争はイギリスの勝利で終結しました。カナダもメリカもイギリスのものになったわけです。 これらの戦争で疲弊したイギリスはアメリカからの税収を求め、ライバルのいなくなった今こそ、本格的に植民地経営に乗り出そうとしたわけですが……。 そして、ついにアメリカで沿岸部の十三植民地がイギリスに対し独立戦争を開始します。1773年のボストン茶会事件に対するイギリスの措置に反発したアメリカとイギリスの溝は埋まらないまま、1775年、レキシントン・コンコードの戦い勃発。その後すぐ戦線は膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いたため、アメリカ側はほかの場所で主導権を取ろうとしました。そこでカナダ侵攻作戦が実行されますが、これはまぁ失敗に終わります。このカナダ侵攻によって、アメリカはイギリス世論に支持される根拠を失ったのだそう。そして1776年、独立宣言。1777年、アメリカがサラトガの戦いで勝利を収めると、1778年にはフランスが参戦。スペインやオランダもその後アメリカ側につきました。1781年ヨークタウンの戦いでアメリカが勝利したことで、イギリスは和平交渉に入り、実質的な戦闘は終結しました。1783年パリ条約にて、アメリカは独立を認められ、ミシシッピ以東のルイジアナをイギリスから譲り受けます。 まぁこの辺までで後は端折りますが、独立戦争ではもちろん、第二次独立戦争とも呼ばれる米英戦争でも、カナダはイギリス領ですからアメリカと戦いました。でもカナダ侵攻作戦で攻められたとき、「ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイゼンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。」(byウィ●ペディア)そうです。 一方のカナダの独立は1867年から1982年にかけて行なわれました。 1867年に自治領カナダとなり、1931年にはウェストミンスター憲章で、イギリスの海外自治領に外交権などが認められました。完全に独立を達成したのは1982年、1982年憲法の制定によってです。 *** 以上でした。なんか調べて考えたら増えてるかも…… あ、あとカナダさんはそれまでそこそこ重要人物だったので別に影は薄くなかったんだけど、イギイギのものになった瞬間から影が薄くなったんじゃないかなという気がしてます。だからそれまでのカナダはフランスに大切にされて育ったお坊ちゃん気質で、別に無視とかもされたことがない。 どうでもいいけどメリカがにーにに「美国」って呼ばれるのは、私ずっと音からきてる(メイグオ、のメがそれっぽいから)と思ってたんですけど、これは「花のように美しい旗の国」という意味で、にーにが星条旗を一目見て気に入ったからだとか! 昔は「花旗国」と呼ばれることもあったんですって!(by●ィキペディア) *** さらにまとめ。 奴らの外見的成長と対応する時代を本気出して考えてみた。 ら、こんなことになってしまった。 ★誕生〜ネグリジェみたいの着てるちびっこ時代 17世紀初頭〜 伝説の「うわああぁあ! ごめんなさい! さようなら!」の涙目メリカはスーさんが別荘持ってた1638〜1655年の間ってことですもんねぇ……あー何度見てもかわいい……v ってことはイギイギとメリカが出会うのは1655年よりさらに後ということになりますね。 争奪終盤戦でもまだちびっこのままなので、これはあれですか、フレンチ・インディアン戦争終結、1763年パリ条約頃までちびっこだということでいいんですか? うわぁそれって100年以上あのまま? ★「また来てくれたんだね!」「兵隊さんだー!」「い…いやだよ、帰らないでくれよ!」の時代 1763年〜 やっとネグリジェっぽいのを卒業して半ズボンを履きます。たぶんイギリスが着せたんでしょうね。 で、「でかくなるの早ーっ」って驚くくらいだから、人間でもありえないような成長速度だったということも有り得るのかなぁ。数か月でとか、1、2年でとか…… ★ブログでの子供時代〜「あ、よう! イギリス!」「えー、いいよ俺、着ないし…」時代 というわけでこの辺の境はあいまい…… ★独立戦争時代 1773年、ボストン茶会事件頃〜 ★眼鏡。 独立(1783年)後。テキサス併合あたりから眼鏡?(1845年) わけわかんなくなるので、カナダの成長速度はアメリカと一緒ということでお願いします…… えーでも個人的には英仏植民地戦争が始まる頃か中盤頃にはそろそろ半ズボンでいてほしいんですが、ご本家さまを取るか自分のイメージを取るか…… やっぱ擬人化なんだから厳密に考えちゃいけないと思った。 (2009/8/5)
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