ぺたっ。
 僕の額に突如現れた図柄は、ただの色と記号の組み合わせであって、その実、深いメッセージ性を帯びている。この図柄の下に、毎日毎日、何千何万という人が笑ったり泣いたり、感謝したり憎んだり、助け合ったり血を流したりするんだ。でもその時の僕は、まさか僕の額に突然何の解説もなく、うるさい空気読めないゴーイングマイウェイメタボと評判の兄弟から貼り付けられた何かうすっぺらい物体の表面が、比率から星の数まできっちり決められたその図柄であることなんて知る由もなかったけれど。


君が素敵になる日


「あれ? 今、何が起こったんだい?」
 べりっと額から件のステッカー状の何かをはがしてしまえば簡単にその図柄を確かめることはできたのだけれど、その時の僕は、そこまで思いが至らなかったのである。昔から、急な出来事に弱い。
 ぼんやりと、どう首の角度を変えてみても見えそうにない額をさすりながら、僕はただ問うた。その先にはいつも通りの、よからぬ笑顔だ。
「君が素敵になったよ」
 第一、この兄弟が僕に向ける顔は二つに一つだった。無関心に僕の上を素通りする顔か、こんな風に僕をからかって馬鹿にしようといういやらしい顔。後者でなければ目も合わせられないなんて、まったくこんな仕打ちがあっていいものだろうか、いやない。
「もーっ、何したんだよ! くそっ、見えない……!」
 思いっきり上を向けば見えないだろうかとか、どこかに鏡はないのかとか、僕が奮闘し始めたのをよそに、いつもの高笑いとともに、兄弟はさっさとどこかへ行ってしまった。
 ああ、そういえばさっき額にメイプルを描くのに使った鏡があったはずだ。
 ようやく思い出した僕は、鏡を覗き込んでぎょっとした。怒りに任せてべりっと剥がせば、苦労して描いた僕自身の象徴たるメイプルリーフの図柄も同時に薄くなってしまった。人差し指に纏わりついた赤と白のストライプを見下ろして、ようやく僕は、何であるかなんて確認する前にさっさと剥がしてしまえばすべて解決したのに、という後悔に至った。どうせあのアメリカが僕のおでこに貼りつけてきたもので、僕が素敵になるなんてそんなことがあるはずもなかったのに。僕も大概ドリーマーというか、甘い。甘っちょろい。



「……ってことがあったんですよー!」
 誕生日を祝いに来てくれたキューバを引き止めて、僕は思わず先程の顛末を詳細に愚痴ってしまっていた。
「せっかくのカナディアンデーだっていうのにアメリカの奴!」
 腕に抱いたクマ吉さんにぎゅうぎゅうと力を込め、頭からぽこぽこ湯気を出す僕に呆れるでもなく、キューバはすぐにうんうんと頷いて共感してくれた。
「冗談じゃねぇよなぁ、デコに星条旗なんて、まるでアメリカ領になったみたいじゃねぇか」
「でしょでしょ? ひどいよね! ね、クマ五郎さん!」
 味方を得た心強さで、つい調子に乗った。
 視線を下げるとつぶらな瞳。
「ダレ?」
「カナダだよ!」
 いつも通りのやり取りにがっくり肩を落とす。調子に乗った僕がいけませんでした。そうでした。
 僕たちのお決まりの儀礼など意にも介さず、何かを考え込んでいたキューバはぽん、と急に手を打った。
「……あぁ、それならさ、意趣返しにカナダの国旗をアメリカのデコに貼ってやったらいいんじゃねぇの?」
 名案だろ、とにっこり笑った顔が眩しい。
「え?」
「一日だけカナダ領! なんつってな」
 カナダ領――ぽわわわん、という効果音をともなって、僕の頭上に「カナダ領アメリカ」のイメージ映像が勝手に展開された。
 僕を兄と慕い、笑顔を向け、優しい言葉をかけ、何でも言うことを聞くアメリカ――。
 ――今日は何が食べたい? たまには俺が作るよ!
 ――それ重くないかい? 俺が持とうか!
 ――カナダカナダ、聞いてくれよ、俺どうしても君に聞いてほしくて……。
 ――君が終わるまで待ってるよ。ゆっくりしてていいんだぞ。
 ――怖くて一人じゃ眠れないんだぞ……。
「さ……最っ高だねそれ!」
 せっかくの誕生日、最高に弾んだ気持ちの僕に対して、なぜに提案者のキューバが一歩後ずさったのかが気になったが、その時の僕はそれどころではなかったのである。



「というわけで、今日一日、君にはこれを貼ってもらいます!」
 じゃん、とカナダ国旗柄のステッカーを目の前に突き出すと、テレビ画面に注視されていた青い目が、ようやくこちらを向いた。うざったそうに僕の手を払って、である。
 ちなみに「というわけで」の前にはキューバと僕が前述の結論に至るまでの解説があったのだが、アメリカはテレビに夢中で、まったく聞いていなかったものらしい。
「……いきなり言っちゃうところが君のマヌケなところだと俺はひしひし感じてるぞ」
「だって、僕が君相手に何か企んで、成功した例があるかい? どうやら僕は人一倍動作が『慎重』らしいんだ、それくらい知ってるさ! だから正面突破することにした!」
 テレビ画面に戻ろうとするアメリカの手からリモコンを奪い取ってテレビを消し、僕は開き直ってふんぞり返った。そんな僕に面倒くさそうな視線を寄こして、アメリカは肩を竦める。
「まぁどのみち君はトロいからな。自覚があったなんて賢明だよ。で、……それで俺がうんと言うとでも? やだよそんな白と赤のダサイのおでこに貼るなんてさ。恥ずかしすぎる。却下」
 恥ずかしすぎる、僕の誇りを、恥ずかしすぎる、だって……! あまりの言い草に、握りしめた拳が震えた。
「君、人のこと言える立場かい……!」
 僕は先程の仕打ちを忘れてはいないぞ、っていうかこれは復讐なんだぞ……!
「えー? 俺のは立派なヤングでポップなカルチャーだろ? カッコイイし」
「僕のだってカッコイイよ失礼だな!」
 何なんだよ何なんだよ、青か? 青がないからいけないっていうのか?
 こちとら赤と白の配分まできっちり計算し尽くして制定してんだぞ、ナメんな!
「ほら、貼れよ!」
「貼らないよ!」
 ソファの上で、しばらく大人げない揉み合いが続いた。
 こういう体力勝負で先にダウンするのは、当然のことながらいつも僕だ。わかっていながらムキになって勝負を仕掛けた僕が悪い。僕はソファから追い落とされ床に這いつくばりながら、ぜえはあと息を整え、そんな負け犬根性丸出しな後悔に苛まれていた。
 いつものことだけど。
 見上げた兄弟は息一つ乱さずに――前髪は若干乱れていたが――勝者然としてソファにふんぞり返って、今にもそのぶらぶらと揺れる足で僕のことを足蹴にでもしそうだった。
 手の中でくしゃくしゃになったシールを見下ろしてため息をつく。
 まったく、一体なんだって僕は、この恐ろしく大型で凶暴な兄弟の額にこんなただのシールを貼ることに命を懸けたんだったかな。どう考えたって割に合わない。
 いくらメッセージ性を込めても、記号はしょせん記号。人の心までは支配できない。
 そう、何よりもこの兄弟の心は自由で気高いのだから。どの旗の下に胸を張って立つのかは、自分で決める。
 そんな彼の背をただ眺めていた在りし日の自分は、それがただただ身勝手にも見え、眩しくも見え。その思いに少しは近づけた気がした――けれども君に言わせればまったくのママゴトに過ぎないのだろう――僕にとっては果てしなく意味のある、百四十数年前の、この記念すべき日。
 立ち上がることも忘れて思いを馳せていると、ぼそり、と頭上から王者の声。
「……それ貼るのはやだけど、今日一日くらいは、君の言うこと聞いてあげてもいいぞ」
「え、何? ごめん、聞こえなかった」
 いい加減、こんな時の演技力ばかりが磨かれていく僕は、実は結構サディストの気があるのではないか、なんてフランスさんあたりには言われてしまう。今日だけはそれを否定する気はしない。
「……っああもう、『アイス買ってきて』って言ったんだよ!」
 だってほら、真っ赤になった君の横顔が愛しくて仕方ない。















カナダさんお誕生日おめでとう!


(2009/7/1)



BACK








Copyright(c)神川ゆた All rights reserved.
http://yutakami.izakamakura.com/