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あくまでもプライベートに行動することにするから、VIP扱いにはしなくていいよ、と厳重に達してあるせいか、道路封鎖は上司たちが通った後、すぐに解除されたようだった。
普段は駆動輪にしかチェーンをつけないロシアの自家用車も、おせっかいな外交官に、四輪すべてをぐるぐる巻きにされてしまった。凍結を避けるために、数十分前から彼らによってエンジンをかけられているらしく、それもまたロシアの癇に障った。
乗って、と顎で示せば、アメリカは重たい荷物を後部座席に投げ入れて、自らは助手席に乗った。ロシアはそれを一つも手伝うことなく、冷ややかに見守る。
時々寒そうに革手袋で鼻の下あたりをこするくせに、意地でも「寒い」とは言い出さないアメリカに、ロシアも話の糸口を見出せず――そもそも無理して会話しようという気もなかった――車内はしばらく、じゃりじゃりと雪を掻き分けて進む音と、申し訳程度の暖房の音しかしなかった。
「ここは?」
ロシアがあまりにも無言で、外交官の観光プランを惰性のままに実行しようとしたからだろう、唐突に下ろされた駐車場で、アメリカは口を尖らせた。
「エルミタージュ美術館」
返答もつっけんどんになる。
「美術館! これが!」
これが、の続きが何なのかは分からなかったが、純粋に感動しているらしい様子を見ると、どうやらマイナス評価の言葉が来るわけではないようだ。
すべてを見るのにゆうに五年はかかると言われる自慢の美術館だ。ロシアは少しだけ、溜飲が下がるのを感じた。
「すごいな……なんていうか、華やかで」
「それはエル・グレコの絵だよ。彼はエーゲ海の出身で、太陽の光を受けた鮮やかな海のような彩色が特徴的だよね。見てて暖かくなる。……やっぱり南の海はいいよね……すべてのものの母なる海。いいなぁ……」
恍惚と絵に見入っていたロシアを置いて、アメリカはさっさと進んでしまう。
「ピカソだ」
きょろきょろと様々なものに興味を示すアメリカは、もうすっかり、ロシアへの嫌悪感など忘れてしまったようだった。いつもながらその単純な頭の作りが羨ましいと思いつつ、子供のように美術館を駆け回るアメリカについて歩く。
「あっちには名作『放蕩息子の帰還』があるんだけど、見たい?」
「光の巨匠、レンブラント!」
ワオ、と歓声を上げたところを見ると、どうやら彼も相当ミーハーなようだった。
ロシアのヨーロッパ芸術への憧れは人一倍強い。国としての建国も遅かったロシアは、その後長らく騎馬民族の支配下にあり、栄華を極めたヨーロッパ社会からは遅れた地域とみなされていたし、自身にもその自覚はあった。必死に追いつこうとフランス語を学び、フランス宮廷文化を取り入れた。それでもどこか一歩ずつ遅れてしまうロシアは、いつも彼らの嘲笑や失笑を買って、その度に、悲しみを覆い隠す笑顔を浮かべ、ただ耐えた。
ロシアは異端児なのだ。思う。
どんなに頑張っても、決してあの輪の中に溶け込めることはない――。
そんなロシアの憂鬱な気分にも気づかず、目の前のアメリカは宗教画を見上げて感動しているばかり。
彼だってもともとは異端だったはずだった。
宗教上の対立からヨーロッパを飛び出した彼ら。辿り着いた新天地で、やがて我がもの顔で楽園を築こうとした。今度こそ、誰に嘲笑われることもない、傷ついた者同士、分かりあえる世界。
その自由の国は、異端たる自らをも「正統」の潮流の中に押し上げるほどの力をつけて、世界に根を張った。内部に抱える黒い影はあっても、ロシアのように、大空を覆うような暗い影が如実に見えるわけではない。
いったい、彼と自分の、何が違うというのだろう。
いや。
違うようでいて、どこか似ているのだと思う。
そう言ったら彼は怒るだろうか?
「あんまり雪は積もってないんだな」
残念、と道端の固められた雪を蹴って見せながら、アメリカは呟いた。
突っ走ったアメリカが、美術品鑑賞に五年もかけるはずがなく、二人はあっけなく美術館を後にした。
「寒いと雪は降らないんだよ」
丁寧に教えてやる自分が滑稽だと思う。
「そうなのかい? それじゃ逆じゃないか?」
「雪が降る温度っていうのがあるんだよ。それがだいたい零下十度くらいまで。この季節、うちは大体その温度を下回るから――温かくなってくれば、また雪も降るよ。君の家だってそういうところはあるでしょ、ほら、うちから買った――」
「ああ」
アラスカか、と頷いて、アメリカは興味を失ったように顔をさすった。
あの極寒の大地だってそうだ。元はと言えばロシアが開拓したのに、もはや価値なしと手離した時点で、アメリカにだけ、黄金の輝きを放った。
誰もがロシアに冷たく当たる。
「顔がぴりぴりする」
「そう」
再び二人の間に沈黙が降りる。
「次はエカテリーナ宮殿だそうだよ」
先ほど目的地も告げずに引きまわしたら不興を買ったので、メモを音読してみたが、聞いているのか聞いていないのかわからない様子で、アメリカはきょろきょろ顔を巡らせている。
挙句の果てに、こう言い放った。
「なんか建物がいちいち古臭くないかい?」
それになんだかゴテゴテしてる、と彼は付け加えた。
どれもこれも、伝統的なヨーロッパの建築様式を受け継いだ優美な建物ばかりである。ロシアはこの「北のヴェネツィア」とも称される雰囲気が好きだっただけに、少しカチンときた。
しばらく険悪なムードで観光予定をこなし、「古臭い」歴史地区そばの別宅に辿り着いた。
ここで少し早めの夕食をとったら、今日はこんなガキから解放される――。
肩の荷が下りた気分である。
もはやバルト三国は帰ったらしい。邸内は綺麗に掃除されていた。
アメリカを客間に案内し、荷物を置かせると、これまたおせっかいな外交官が手配してくれた世話係と料理人が夕食の準備ができたと知らせに来た。
「ボルシチだね」
ロシアの伝統的な家庭料理が並んだ食卓。
どうしてもっと、フランス料理のフルコースとか見栄えのするものにしなかったのだろうと若干ロシアはイラついたが、アメリカの顔が興味津津に輝いていたので、アメリカには珍しいのだろうかと、少し優越感を覚えた。
「熱いよ」
器に取り分けて注意を促せば、ふーふーと念入りに冷ます様が滑稽でもある。
「うん、美味しい」
呟くように言ってアメリカはまたがつがつと食べ始めた。
「ウォトカ飲むかい?」
「君はいつも酔っ払ってるな!」
親切で話を振ってやったのに、まったくこちらの気持ちを解そうとしない切り返しにカチンとした。
こんなのにいつも付き合ってやってるのかと思うと、まったくイギリスや日本には頭が下がる。
「あー、今日はなんだか疲れたんだぞ。シャワーはどこだい?」
食事が終われば、二人は当然歓談を楽しむような関係でもなく、アメリカはさっさと立ち上がってしまったし、ロシアも早々にホテルに退がることにした。明日もまたこれに付き合わされるのかと思うと、今から気が滅入る。
(2008/6/3)
(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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