Χαίρω πολύ, το σούρουπο μου

- Nice to meet you, my dusk -


 数百年ぶりに、本部の試験を通過した「人間」がいるらしい。
 その衝撃的すぎるニュースは、普段は気だるい吸血鬼の共同体を震撼させ、半ば伝説的にここ十年の間、語られてきた。
 しかしヘラクレス自身は、いまだその「元人間」をこの目で見たことがない。
 大概の吸血鬼は日々の生活に退屈し切っていて、与えられる刺激には何でも飛びつくものなのだが、ヘラクレスはそれ以上に、のんびりとした今の生活を気に入っていた。満足もしていた。だからことさら、足を運んでまで野次馬根性を発揮する気にはなれなかったのだ。
 長い人生、いずれお互い会うこともあるだろう、とのんびり構え、いつの間にか十年が経過していた。
 十年目に話題の吸血鬼に会えたのは、その時与えられていた故郷での任務を終え(勤務地が故郷であったのは偶然だった)、久々に中央部に戻ってきたから、でもある。
 ヘラクレスはその日、故郷の潮風を懐かしく思い出しながら、木陰で読書にふけっていた。無論、光源は夜空の月や星のみだったが、もはや夜の生き物になり下がって数百年が経過したヘラクレスにとっては、それで十分だった。
「やあ、何してるんだい?」
 声をかけられた。見なれぬ吸血鬼だと思った。
 しかしヘラクレスは普段からあまり他人に関心がないから、単に覚えていないだけなのかもしれない。だから大して抵抗もなく、その吸血鬼が隣に座るのをあっさりと許した。
「……読書」
「そうか、俺も最近、読書にハマってるんだ。俺は学校に行ったことはないんだけど、親代わりの人が字を教えてくれて、そしたらもう、自分でなんでも学び放題だからな! 最近はそれで暇つぶししてるよ」
 よくしゃべる奴だと思った。「学校」だなんだと言い出した時点で、彼こそが噂の「元人間」なのだろうと察しがついた。
「何を読んでるんだい?」
 黙って本を手渡す。故郷の哲学者が、ヘラクレスが生まれるずっとずっと前に書いたものだった。
 彼は眉間にしわを寄せて、むむむ、と唸っている。
「……これはちょっと、読めないなぁ……」
「何語なら、読める?」
「英語」
 そう、とだけ返したら、何も聞いていないのに、また彼は一人でぺらぺらしゃべり出した。
「あ、でもこういう変な文字、俺その育て親みたいな人が読んでるの見たことあるぞ。なんだっけ、ええと、ラテン語?」
「ギリシャ語」
「あ、そうか……それも教えてって頼んだんだけど、しばらく勉強してないなぁ……」
 返された本のページを繰る作業を再開してもよかったのだが、あまりにも遠い目をして言うから、普段は眠っているヘラクレスの中の好奇心が、ほんの少しだけ疼いた。
「今は、教えてもらえないのか?」
「実はね、五年前に大ゲンカして、俺、家出したんだ」
 五年前、というと、彼が噂の「元人間」であるとするなら、吸血鬼になってから五年が経過している。そんな彼と同居していたとするなら、その「育て親」とやらも吸血鬼であると考えて間違いないだろう。
「仲直り、したのか?」
「してないよ。たぶん」
「そうか。……それにしてはずいぶん、その人のことを嬉しそうに話すんだな」
 指摘すると、彼は目をぱちくりさせた。
「うん。俺は今でもその人のことが大好きだからね。あっちも、俺のこと今でも大好きだと思うぞ」
 あまりにも自信満々な言い草に、ヘラクレスは軽く噴き出した。
「……ならお前たちには、形式的な仲直りなんか、いらないんだろうな……。そのままで、いいと思う」
「会えば口ゲンカばっかりだけどね」
 そう言って笑う顔は楽しげだった。十年前まで人間であった彼が、どうして吸血鬼を語るのにそんな顔ができるのか、ヘラクレスには不思議でたまらなかった。
「お前はその吸血鬼に育てられたのか? どうして、吸血鬼になんかなろうと思った?」
「おかしいかな」
「人から吸血鬼になろうという輩は多くない……ええと……」
「俺? 俺はアルフレッドだぞ」
「アルフレッド。俺は、ヘラクレス」
「なんかカッコイイ名前だな!」
 よくわからない賛辞はとりあえず受け流すことにした。
「……アルフレッドも、身に沁みたろう? あの残酷極まりない試験を、受けようなんて、よっぽどの酔狂だから」
「ああ、確かにな! 今思い出しても吐き気がするよ!」
「アルフレッドは数百年ぶりの人間出身らしい。みんなが騒いでた。今も騒いでる、はず」
「うん、聞いたよ」
「だから……よほどの理由がなければ、人は吸血鬼になろうなんて思わない」
「じゃあ、今いる吸血鬼はもともとは人じゃなかったのかい? 彼らはどうやって生まれたの? 吸血鬼はどこから来たんだい?」
 畳みかけられる質問に、ヘラクレスはゆっくり首を振った。
「俺も何百年か吸血鬼やってるけど、それは誰にもわからないみたい。たぶん本人たちにも。……気づいたらそこにいたんだろう。俺たちが人であったときのように」
 アルフレッドは「ふぅーん」だなんて納得したように頷いていたが、しばらくして、ヘラクレスのさりげない告白に気がついたらしい。
 無遠慮に驚いた顔をヘラクレスに向けた。
「君も、もとは人だったのかい?」
「……もう何百年も前の話だ」
「じゃあ、俺の『数百年ぶり』っていうのは、『君以来』って意味かな」
「……たぶん。今まで俺以外に『元人間』って聞いたことなかったから」
 アルフレッドは先程以上に好奇心に満ちた目で、ヘラクレスを見つめてきた。
「じゃあ、君はどうして吸血鬼になろうと思ったんだい?」
「え?」
 まさかそこを訊かれるとは思っていなくて、ヘラクレスは一瞬呆けた。
「さっき君が言ってたんじゃないか。『よほどの理由がなければ』って」
「ああ……。そういえば、俺が、先に訊いたような気がする……アルフレッドは、どうして、吸血鬼になろうと思ったのか」
「俺は……どうせもう死んだ人間だったから。だから生き返らせてくれたアーサーに、あ、アーサーって、さっき言ってた育て親みたいな人だけど、アーサーに迷惑をかけてるのが嫌だったし、アーサーと対等になりたかったし」
 俺、アーサーが大好きだから、とアルフレッドは繰り返した。
 アーサーといえば、ヘラクレスはあまり好きになれない吸血鬼だった。私利のためには形振り構わず立ち回り――狡猾とか、ムリヤリ褒めれば怜悧だとかいうのだろうか――、しかし時にはプライドも何もなくハタ迷惑な蛮行を繰り返す、野蛮な出自をうかがわせる男だった、ように記憶している。
「まあ、対等になったからこそケンカしちゃったんだと思うんだけどな!」
 彼とうまく付き合える輩がいるなら見てみたいものだ、と思う。
「そうか……アルフレッドは契約してたのか」
「……ヘラクレスも? そうだった?」
「うん」
「契約相手への愛が、やっぱり君を、吸血鬼にまで……」
 アルフレッドが最後まで言い終わる前に、ヘラクレスはその邪推を一笑に付した。
「まさか」
 ヘラクレスがかつての契約相手に対して「愛」なるものをほんの少しでも抱いているなんて、まったく我慢のならない話だった。
 絶対に認めてなるものか。
「じゃあ、どうして吸血鬼になろうなんて思ったんだい?」
「……ムカついたから」
「ええと、よくわからないんだけど……」
「俺は、あいつに自分の命を握られてるなんて、我慢がならなかった。それだけ」
 あいつ――サディクは気紛れな男だった。
 ヘラクレスを助けたのも気紛れだったのだろう。彼の虫の居所が悪ければ、幼い時分にも容赦なく殴られた。
「そ……そうか、『自分の命を握られてる』……そういう見方もあるんだな……考えたこともなかったぞ……」
「あいつがちょっとでも気紛れを起こして他人の血を吸えば、俺はその瞬間に骸に帰す。そんなのあいつに弄ばれてる以外の何ものでもない。それが嫌で嫌でたまらなかった。……自殺してもよかったけど、それじゃああいつは痛くも痒くもないんだろうなと思うと、悔しかったから。いつかあいつより大きく強くなって、今度は俺があいつを振り回してやろうと思った」
 俺の母の一族は裕福な家庭だったらしい。母自身もその美貌と才気で若いときは誰もが羨む生活を送ったのだとか。けれど彼女の寿命は儚く、家の没落もあっけなかった。
 俺は親戚の家に預けられ、そこも大層裕福だったが――そこで戦乱に巻き込まれた。
 海の向こうから押し寄せた異邦人に、平穏な生活はぶち壊された。
 帰る家を失い、飢えて死にかけたところに、あいつに出逢った。
 あいつは異国の風体をして、耳慣れない言葉で喋った。俺にとってあいつは、海の向こうから来た脅威の象徴そのものだったのかもしれない。


「……ガキ。生きたいか?」
 空腹だ、という言葉すらもう忘れてしまった。もう何日間、何も口にしていないだろう。
 生きるためには何でもした。
 瓦礫と化した家々を、金目のもの、夜露をしのぐ衣服、何か口にするもの、なんでもいいから漁って回った。
 それもできなくなると、その辺に生えていた雑草を掘り返して食べた。
 兵士に見つかれば必死に命を乞い、必要があれば体すら差し出した。
 それでも、もう限界だった。
 虚ろな意識の中で、なぜあんなにも必死になってみっともなく生き永らえようとしたのだろう、と不思議に思っていた。
 たぶん母が生きていたなら、眉を顰めたのだろう。
 倒れ伏した地は一面の焦土で、命の匂いをまったく感じない。ここが限界なのだろう。
 目を閉じかけたところに、その、怪しげな風体をした男は現れた。
 目元は奇妙な仮面で覆われていてまったく見えない。兵士たちともどこか違う、妙な男だった。
 神だとは思わなかった。悪魔だとも、思わなかった。
 生きたいか、という質問に、頷いた覚えもない。ただひたすらに、無気力だった。
「俺は吸血鬼だ」
 次に目が覚めたとき、体の疲労感はさっぱりと取れ、軽い空腹感が舞い戻ってきていた。
 男はどこから仕入れたのか、穀物のたっぷり入った鍋を掻き回している最中だった。目覚めたヘラクレスを見て、徐にそんな意味のわからないことを言う。
 星のない夜だった。
「吸血鬼って、何」
「わかりやすく言やぁ、人の血を吸って生きるバケモンよ」
「ヒルか」
「ヒルじゃねぇ、吸血鬼」
 器に盛った見るからに温かな食事を、自分で食べるのかと思いきや、「ほら」とヘラクレスに差し出す。
「お前は……食べないのか?」
「言ったろうが、頭悪ィなクソガキ。俺は人の血しか口にしない」
「……そう」
 どうでもいいと思った。こんなにも豪華な食事が全部自分のものになるのだ。何の異議を唱える必要があろうか。
 どろどろに煮込まれたそれは、空っぽの胃にも難なく受け容れられた。
 空腹感が消えると、軽い眠気がヘラクレスを襲う。ひどく、疲れていた。
 にも関わらず、「サディク」と名乗った男はヘラクレスを夜通し連れ回して、野営の準備のようなことをさせた。延々と深い穴を掘らせたり、燃やせそうなものを拾わせたり、端切れや瓦礫で簡易テントのようなものを作らせたり。
 こんなことをわざわざしなくても、さっさと地面に寝転がってしまえばいい、と思ったが、食事をもらった恩がある以上、逆らうのも躊躇われた。
 やがて軽く洞窟のような、秘密基地のような、もはや「簡易住宅」とすら呼べる床が出来上がると、サディクは神妙な顔で講釈を垂れ始めた。
 東の空が、うっすら明るくなり始めていた。
「吸血鬼は日の光を浴びると死んじまう。だから寝るときは、日光を遮れる場所で寝なきゃいけねぇってわけよ」
 それはいいことを聞いた、とヘラクレスは思った。
 つまり、こいつが寝ている間に覆いをすべて取ってしまえば、ヘラクレスはいつでも好きな時に、自由になれるということだ。
 そんなことを考えていたら、思考を読まれたかのように、腕をぐいっと乱暴に引かれ、作ったばかりの床――穴の中に落とされた。
「痛い……」
「言っとくがよ、ガキ。俺を殺そうなんて思わねぇことだな。俺とお前は契約でつながってる。俺が死ねば、お前も死ぬんだよ」
「意味、わかんない」
 ヘラクレスはそう吐き捨ててサディクを睨みつけたつもりだったが、穴の中は暗く、まったく意味はなさそうだった。
 サディクは自身も穴の中に横たわり、日光が漏れてこないようにしっかりと蓋をした。さながら棺桶の中に閉じ込められたようで、狭い中にこんな得体の知れない大人と一緒にいるのは耐えられない、と思った。
 とっくの昔に枯れ果てたはずの涙が滲み出てきた。これも腹が満たされて、欲が出てきた証拠かもしれない。
「泣くな」
 ぴしゃりとサディクが言う。一寸先も見えないような闇の中、啜り泣きをした覚えもないのだが、サディクには見えているらしい。
 訳の分からないことばかりだ。
 もうここから出よう。逃げてしまおう。
 体を起こそうとしたところを、押さえつけられる。やはりはっきり見えているかのような、正確な動きだった。
「俺が寝てる間にちょろちょろされると厄介なんでぃ。人里にいるうちはしばらく我慢しな」
 もともと大人の力にかなうはずがないのだ。ましてサディクは、そこらの大人よりずっと力が強いように感じた。
 ここで粘ってもいいことはないと、経験が告げていた。
 しばらくは様子を見て、それから逃げ出せばいい。
 ヘラクレスは諦めて、体の力を抜いた。


 やはり疲れていたのだろう。あんな不快な状況下にも関わらずあっさり寝入ってしまったヘラクレスが目覚めると、穴にはやわらかな月光が降り注いでいて、サディクの姿はなかった。
 のそりと穴の中を這い出す。
 昨夜はあんなに豪勢な食事にありついたというのに、もう空腹を訴える体が恨めしかった。
 もうあの奇妙な男はどこかへ行ってしまったのだろうか。つくづく奇妙な男だった。ひょっとしたら、誰かに命でも狙われているのかもしれない。そうでもなければ「日光に当たると死ぬ」だなんて――。
「起きたのか」
 背後からかけられた声に、ばっと振り向く。
 これでも、幼い身一つで戦火を潜り抜けを生き抜いてきたのだ。警戒は常に怠らないよう心がけていたつもりが、背後から忍び寄られてちっとも気づかなかった。
「腹減ってねぇか」
「……減った」
 よく見れば彼は、一つのパンを手にしていた。
 与えられるがままにかぶりつきながら、やはり問わずにはいられなかった。
「……お前は食べないのか?」
「何度言わせんでぇ、俺は……」
 言いかけたところに、ぐぅーと腹の虫が聞こえてくる。ちっ、とサディクは忌々しそうに舌打ちした。
「人の血を吸うって、どんなふうにだ?」
「知ってどうすんだ」
「そんなバカな話信じられるか。……証拠を見せろ」
 言えば仮面の顔がふとあさっての方向を向いて、所在なさげにしていた手が首筋を掻いたので、ヘラクレスは「勝った」と思った。
 やはり、子供だと思ってバカなでたらめを――。
 しかしサディクは思いの外、真剣な声音で、ヘラクレスがパンを取り落とすようなことを言った。
「どうしても見てぇっつうなら見せてやらねぇでもないけどよ、もうちっとテメェに滋養がついてからだな。今は訳有りで、テメェの血しか飲めねぇからよ」
 血を吸うなんて軽々しく言うから、自分だけはその対象ではないのだろうと勝手に思い込んでいた。まさかその逆だなんて、誰が考えただろう。
 だからなのだ。だからこの男は、ヘラクレスを執拗に手元に置いておこうとするのだ――。
 こんなふうに甘い顔をしてヘラクレスを餌で釣って、「血を吸う」だなんて気味の悪いことを言う。ひょっとしたらこいつは異端の教団の一味で、自分は悪魔への生け贄にされるのかもしれない。


 怖くて、眠ることなどできなかった。「怖い」という感情もずいぶん久しぶりで、置かれた状況に反し、体の方はずいぶん回復してきていることを知る。
 一時は飢え死のうかというところだったのに、まったく自分は幸せだ。
 でも喜んでばかりもいられない。サディクは「お前に滋養がついたら」と言った。
 何度あの不気味な仮面を、日光のもとに曝してやろうと思ったか知れない。思い止まらせたのは、今のところは大してひどいことをされていないという事実と、もう地に這いつくばって飢えに苦しむような生活はごめんだという思いからだった。
 そしてやはり冷静になってくると、人の生き血を吸って生き永らえる生物なんて蚊かヒルくらいなものだ、と思えてきた。
 サディクの言うおかしな話を、結局ヘラクレスは半分も信じていないのだった。そう、この日までは。
「おい、ガキ」
 いつしかヘラクレスたちは都を離れ、人里離れた山奥をねぐらにするようになっていた。そうするようになってから、サディクはヘラクレスが日中出歩くことに文句を言わなくなった――もっとも、日が落ちればどんなに遠くへ逃げても、サディクは必ずヘラクレスを見つけだしたのだが。
「なんだ」
「俺に食事をさせろ」
 ぶっきらぼうにサディクが言ったこのセリフが意味するところも、この頃にはすっかり忘れていた。
「……勝手にすればいい」
 なぜ自分に許可を取る必要があるのだろうだなんて暢気なことを、両肩を掴まれるまで本気で思っていた。
「……何」
「痛くはねぇ。ちょっと変な感じがするだろうが、すぐに慣れる。それから、一日は安静にしてろ。たくさん水分取ってな」
 何の話だろう、と思う間もなく、サディクが首筋に噛みついていた。
「ひっ……」
 あまりに唐突なことに、思わず悲鳴が漏れた。どうしていいのかわからず、拳をぐっと握り締め、ぎゅっと目をつぶっているうちに、サディクは離れていった。その口元に滴る鮮血を見て、くらりと目眩がした。
 気づけばどくどくと早鐘のように心臓が脈打ち、指先は震えてうまく動かすことができなかった。冷や汗が、つうと額を伝う。しばらく自分の荒い息以外に、なんの音も聞こえなかった。
 恐る恐る首筋に手をあてがう。確かに感じた、二つの傷跡。
「平気か?」
 伸ばされたサディクの手を、最大級の悲鳴を上げてはねのけた。
「寄るな、悪魔! 化け物!」
 サディクの表情は、仮面に隠されて見えなかった。
 しかし紡がれた言葉は、まったくいつも通りのトーンをもって響く。
「だから言ったろうが、最初に。俺はバケモンだって。……だがその化け物に生かされてるのは誰でぇ?」
 死の淵を彷徨ったあの日、確かにヘラクレスを救ったのはサディクだった。今日まで比較的マトモな食事にありついて、生きてこられたのもこの男のお蔭かもしれない。
 だがしかし、体で感じたこの生理的嫌悪は、そんな説得では解きほぐせそうにないのだ。情けないことに。
 ヘラクレスだってそのくらいわかっている。
 反論しようと口を開いたヘラクレスを、サディクは制した。次いで口にされた真実は、ヘラクレスの予想を遥かに超えたものだった。
「テメェは一度死んだ。俺が契約をもってお前を生かしてる。俺がお前以外の血を吸うこたぁ契約破棄のしるしだ。――どんなに拒んだって無駄なんだよ、テメェが生きたいと願う限りな。……言ってる意味がわかるか? クソガキ」
 契約、だのなんだの、意味がわからないことだらけだ。
 ただ、この男が本当に人の生き血を糧とする化け物だとするなら、きっと今までのバカげた話もみんな真実なのだろう。
 今なら分かる、確かに自分は、あの日一度死んだのだ。
 そして、この男に、生かされて、ここにいる?
「……生きたい、なんて、言ってない」
 意味もなく涙が出てきた。
 母が死んでこの方、もう泣くまいと思っていたのに、この男といると、耐え切れないことばかりが起こる。
 ああ、あのまま誇り高く死なせてくれればよかったのに。
「お前に助けてほしいなんて、誰も言ってない!」
 どんなにみじめな生を生きても、最期の瞬間だけは、気高き猫のように。
「お前の奴隷となるくらいなら……、死んだ方がマシだ……!」
 地面に崩れ落ちたヘラクレスにため息をついて、サディクは立ち上がった。
「テメェの言うことは、理想論ばっかりだな」
 悔しくて、何も言い返せなかった。
 わかっている。わかっているのだ、本当は。
 口ではどんなに立派なことを言ったって、確かにこの体は浅ましく生きたがっている。死にたくないと、全身全霊で叫んでいる。
「いつか、絶対にお前を殺してやる……!」
 いつか、この恐怖に自分が打ち克てるくらい、強くなったなら。
 その時は、絶対に、お前を道連れに死んでやる。


「……ごめん、つまらなかった?」
 ヘラクレスは極端に記憶力が悪い、と思う。というより、身の周りで起きる出来事にあまり関心がない。それは波乱の幼児期からのクセのようなものだった。
 だがどうしてか、サディクの――あの、ヘラクレスの人生を変えた忌々しい男のことになると、強烈な感情が湧いてきて、何年、何百年経っても忘れることができない。
 ぽつりぽつりと掻い摘んで思い出せる限りの身の上を話しながら、いつの間にか白昼夢を見ていたような気がする。
 くしゅ、とくしゃみをしたのを契機に集中力が途切れて、ようやく目の前の新参者を思いやる余裕が戻ってきた。
「いいや、今更だけど、君ってずいぶん俺より年上なんだな……」
 アルフレッドは感心したように言った。
「そうだな」
 パタリ、と膝の上の本を閉じる。
 人であった頃には気づけなかった、吸血鬼の気配というものも、吸血鬼になってからは、普通に感知できるようになっていた。
 やれやれ、と立ち上がると、アルフレッドも、突然の闖入者の方へ顔を向けていた。
「何してるんでぇ」
 相変わらずの不気味な仮面を顔に纏い、男はつまらなそうに言った。
「お前には関係ない」
 サディクに返しながら、ヘラクレスは座ったままこちらを見つめるアルフレッドに軽く、手を振った。
「じゃあ、縁があったら、またね」
「ああ! 今日は貴重な話をありがとう!」
 ざくざくと、大股に歩くサディクの横を歩きながら、昔はこの歩幅に追いつけず、走ってはよく転んだものだった、とぼんやり思った。
「あれ、例の本部試験合格者か?」
「そう。お前も初めて会ったのか?」
「いいや、俺はお前と違って体面取り繕ったりしねぇ男だからよ、もちろん何年も前に見に行ったぜ」
「……だと思った」
「前に見た時よりいい顔してやがらぁ。吸血鬼の余裕が身についたってやつかね。……昔のテメェに似てるよな」
「……ああいうのは、諦めの境地、っていうんだ」
 こんな暗くて無駄な生、吐き気がしそうだ、と言えば、サディクはからからと笑った。
「それでもテメェは、まだ生きたいと思うんだろう?」
 まったく浅ましいこって、と揶揄する声に反論する言葉を、残念ながらヘラクレスは持ち合わせていなかった。

 タイトルは「Nice to meet you, my dusk」的な意味だといいなぁ(希望か!)。
 もはや読み方はわかりません(笑)。へロー ポリー ト スープーノ ムーとかそんなんだと思います。

 ※スールーポでした…orz

 オマケのダレンパロ↓


「バンパイアになれ、ヘラクレス・カルプシ」
 男の宣告は冷酷に響き渡った。
「……何を、バカな……」
「話し合いの余地はねぇよ」
「だって、キプロスには手下はいらないって言った……」
「手下は何人もいらねぇ。俺はテメェが欲しいんだ」
 バンパイアになったら、家族も友達も捨てて、一生闇の中で――。
「それが選択っつうものでぇ、ガキ」
 迷いうつむいたヘラクレスを、男は笑った。
「何かを得るためには、何かを捨てなきゃいけねぇ」
 バンパイアになったら、すべてを捨てなければいけない。
 すべてを捨てなければならないほど、ヘラクレスは悪いことをしたのだろうか?
「いやなら構わねぇがな、友が死ぬだけだ」
 わからない、わからないけど、答えはもう決まっている。
 答えは――、
「わかった……」
 Ναιだ。
「俺をバンパイアにしてくれ!」
 啖呵を切ったヘラクレスを見て、サディクはニヤニヤと笑っていた。
「よく言った、ヘラクレス・カルプシ。テメェの身を顧みねぇ高潔な心、……まさにバンパイアにふさわしい」
 両手を出せ、とサディクは言った。
 ガタガタとみっともなく震えながら、サディクは言われるがままに両手を差し出した。
「テメェには、俺の旅の相棒を務めてもらう。そのためにまず、テメェを半分だけバンパイアにする」
「半分?」
「半バンパイアだ。それなら昼間でも活動できるし、人の血もそんなに必要ねぇ。何、焦ることはねぇよ、時間はたっぷりある……。半バンパイアは人間の五分の一、完全なバンパイアは十分の一のスピードでしか歳を取らねぇ。その間に、俺がゆっくりとバンパイアの流儀を伝授してやるよ。ゆくゆくは完全なバンパイアに……」
 言いながら、サディクはヘラクレスの左右十本の指に、自身の指をあてがった。
 何をするのかと見つめていると、グググと力を込め、鋭く伸びた爪を、ヘラクレスの指先に食い込ませ始めた。柔らかな皮膚は裂け、ツゥ、と血が流れる。
「痛っ……」
 思わずうずくまると、サディクは鼻で笑った。
「痛みに慣れろ。これからイヤっつうほど味わうことになるんだからな」
 サディクはヘラクレスの右手を取った。未だだらだらと血を流すその指先を、ゆっくり口に入れた。
 ぬるりとした舌の感触に、びくり、と体が震えた。
「……いい血だ。これなら問題ねぇな」
 先程からいいようにされているのが我慢ならなくて、ヘラクレスはギッと、未だ余裕の笑みを崩さない吸血鬼を睨みつけた。
「これだけは、言っておく……」
 どんなに取り繕っても、膝が笑っていた。
「お前を裏切るチャンスがあれば、いつだって裏切ってやる! この先ずっと……それこそ永遠に、俺のことは信用できないぞ……!」
「ハッ……そうだろうな……だからこそテメェを選んだんだ」
 サディクは自身の指先を、同じように爪で抉っていく。
「いざ、血の契約を!」
 そっと二人の指先が合わせられた。
 その瞬間、ぞくぞくぞく、と指先からサディクの血が流れ込んでくるのを感じた。
 押し寄せる衝撃に耐え切れず意識を手離すのと同時に、耳元でサディクの声が、聞こえた。
「ヘラクレス、テメェは強くなる……」




 キプロスを出したのはテキトーです。深い意味はないです、本当にごめんなさい!
 ダレンパロだとアドナン氏の変態度が上がりますね。いやいやいや……。

 思いがけず結構長くなってしまいました。楽しかった……v

 狼様、リクエストありがとうございました!
(2007/12/1)
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