葬送賦


 俺のふるさとを見せてやる、とトルコがある日突然言い出したのは、どうしてだっただろう。
 確か自分があまりにも無気力に不貞腐れて、狭苦しい王宮に閉じこもってのらくらしてばかりいたからだったと思う。
 あの男もあの男なりに気を遣えるのだ。今思えばおかしい。
 初めて下り立った広大な大地と、高い高い空。地平線というものの美しさに、体が震えた。
 モスクに変えられたかつての大聖堂も、漆喰に塗りこめられたモザイクもない、ここは都とはまったく異質な神の居ますところなのだとぼんやり思った。トルコに言ったら、「んなこたぁねぇよ、神はただお一人だ、お前の神も、俺らの神も、ここの神も、みんな同じだ」と笑われたのだろう。けれど、あいにく、その当時の自分は感動しすぎて口がきけなかった。
 ちらほらと白いテントが風にはためいていて、その外では見たこともない格好をした女たちが、おしゃべりをしながら洗濯をしたり、鍋をかき回したりしているのだった。
 こんな果てしない、草の緑と空の青ばかりの土地で、当たり前に生活している彼らが不思議だった。
 まるでこの世界に吸い込まれでもしてしまったかのように立ち尽くす自分を置いて、トルコはスタスタと彼女達のもとへ歩み寄っていく。
 何か会話を交わして、こちらを手招いたようだったが、自分はそれに気づかなかった。気づけば、トルコは目の前に戻ってきていて、ぐい、と大きな手で自分の小さな手を引いた。
 そのままテントまで行くと、年とった女が木製の皿を差し出す。中には白い、もたっとしたものが入っていた。
「食べてみな、うめぇよ」
 指にすくって口に入れる。まろやかだけれどどこか酸っぱい、旅の味だと思った。
「ありがとう」
 言うと老女は笑うだけで、声は発しなかったが、のんびりと吹きつける風を頬に感じながら、ここではその方がふさわしいと思った。先程から妙に心が静かだと思ったら、この土地自体が静かなのだ。
 そんな風に哲学的に納得していたのに、あとでトルコは「戦になればうるせぇし、夜は男たちが帰ってくるから、飲めや歌えやの大宴会だぜぃ。自分がいかにすげぇ自然のもとに生きてるかってことが、中にいる時にはわからねぇ。意外と野暮ったい奴らなんだよ、あれはな。それに、遊牧民にはいくら口で礼を言ってもダメだ、礼がしたけりゃ行為で返すんだな。のんびりしてるように見えるが、ここはそういう厳しい世界なんでぇ」と台無しなことを言って、自身も野卑た笑い声を上げた。
 しかしこの時はまだ、旅情を打ち壊されてはいなかったので、ぼんやりと地平線を眺める。地平線といっても、大地は決して均したように平坦ではなく、ゆるやかな起伏を持っていた。
 母親と一緒に何やら繕い物をしていた幼子たちが、いきなりきゃっきゃと高い声を上げた。彼らの視線を追えば、自分と大して年も変わらないような少年が、立派な馬に乗って、羊を追いながらこちらへやってくるのだった。
 自分はその光景にひどくびっくりして、聖人が現れたのではないかと思ったほどだったことをよく覚えている。近くで見た馬はとても大きく、黒い堅そうな毛並みに、筋肉や血管の動きが浮き上がって見えるようだった。馬を見たのはもちろんこれが初めてではなかったけれども、鼻息も荒くいなないた姿を怖いと思った。こんな広々とした場所で――間違えばそのまま馬にどこまでも連れ去られてしまいそうな――そして見たこともないようなスピードで、自在に馬を駆る少年が、魔法使いのように見えたのだ。
 少年は老女と二、三言葉を交わすと、ひらりと馬を下りて自分を見た。にこりとも笑わないその顔が怖かった。
 すると少年は、お前も乗ってみろとかなんとか、そんなようなことを言う。自分の背丈以上もある鞍の位置を確認して、当然だが首を振った。
 するといきなり背後から抱え上げられて――もちろんトルコだ――気づけば馬の背にまたがっていた。手を離そうとするトルコにしがみついて恐怖を訴えたが、手を取られ手綱を握らされる。足はここ、と足を持ち上げられた時は、小さく間抜けな悲鳴を上げてしまった。
 見下ろせば、短い草に落ちた馬の影。脚に感じる、馬が本当に生きているのだという実感。目眩がしそうだった。
「下じゃなくて前を見るんでぇ」
 そうは言っても、下が気になる。トルコにバカにされたくないという一心だけで、なんとか前を向いた。
「脚に力込めて、背筋伸ばせ」
 高い場所では風も挑むように吹くのだということを初めて知った。先程見たよりも、はるかに地平線も空も雄大だった。今、自分はトルコ以上の物を見ている。
 少年は馬の傍らに立つと、馬の首を撫でながら、そっと歩き出した。馬は手綱を取られたわけでもないのに、それに合わせて歩き出す。
 おおいに慌てたのは自分だけで、自分の右にいる少年は落ち着き払った顔をしているし、左にはトルコもいたから、落ちることはないのだろうと、肚を決めて景色を堪能することにした。
 慣れてくるうちに、だんだん恐怖は薄れ、ただただ楽しくなっていて、下りる頃には残念だとすら思った。下りるといっても、先程の少年のようにかっこよく、というわけにはもちろんいかず、またトルコの手を借りねばならなかったのだけれど。
 トルコは満足そうに笑って、「ここらにゃ小さな湖があるんだ、そこまで行こうぜ」と言うが早いか、先程の馬を借りて、草原を疾走しはじめた。自分を抱えたままいとも簡単に馬にまたがったのにも驚いたが、歩くだけの時とはまったく違う、風を切るスピードにぞくぞくした。今度は背後にトルコの胸板があって、体の両脇にはトルコの腕があったから、落ちる心配もまったくなかった。ただ、馬が大地を踏みしめるたびに感じる振動は、あまり気持ちのよいものではなかった。
 数分で着いた湖は、本当に大して大きくもなく、深くもなさそうだった。馬がごくごくとおいしそうに水を飲み始めたので、それに倣って一口すくう。
 じゃぽん、と魚が跳ねたような気がしたので、トルコを振り返ったら、トルコはぼんやり空を眺めていた。
 ここに何か思い出でもあるのかもしれない。何一つ思い出を持たない自分は、やはり子供でしかないのだろう。
 なんだ、と思った。
 トルコは自身がこの湖に来たかっただけで、自分にこの風景を見せたかったわけではなかったのだ。
 だからどうというわけでもないのだけれど、と手近に生えていた草を引きちぎった。


 テントに戻れば、夕食の支度が始まっていた。その頃には、トルコの顔から湿っぽい色は消え去っていたので、自分は先程言われた通り、感謝の意を示すために、せっせと支度を手伝った。けれど慣れないことだから、大して役には立たなかったろう。当時は、しかし真剣に、この楽しい小旅行の恩を返せたつもりでいたのだ。
 夜は本当に騒がしかった。屈強な男たちがトルコと杯を交わしあい、女たちも料理を供するかたわら、たまにくすくす笑う。炎が焚かれ、おびただしい数の星は煙に隠れた。
 その場にいても誰も相手をしてくれないので、宴会から少し離れたテントに入ると、子供たちが枕を寄せ合ってくすくす内緒話をしているのだった。その傍らで、老女がもう寝息を立てている。
 おいでよ、と一番小さな女の子が誘ってくれたので、ありがたく仲間に加わった。
 話の中身は、この部族に伝わる英雄伝だった。
 それから子供たちは口々に、大きくなったら誰それのようになりたいと言った。
 確か自分も訊かれたのだと思う。
「大きくなったら、どんなふうになりたい?」
 何と答えたのか、どうしても思い出せないでいる。
 ――自分は、どんな大人になりたかったのだろう。
 気づけば、そのまま寝入ってしまったのか、トルコの背で朝日を受けていた。見慣れた商店の喧騒も、すぐそこにあり、自分は、短い旅の夢は終わってしまったのだと、無性に切なくなった。


 あの頃は、こんな気持ちは知らなかった。大部分の国民が信じているように、古代その美貌と才知で名を馳せた母の血を、自分が本当に色濃く受け継いでいるかどうかさえ、実はわからない。
 こんな気持ちは知らなかった。いや、無意味だとすら思っていた。トルコのもとで暮らしている分には、まったく必要のない感情だった。なのに大人になった自分は今、この不確かで恣意的で、魔性の魅力をもつ気持ちに、どうしようもなく突き動かされている。
 ――今度は、死ぬまでやめるものか。
 風向きが変わったのだ。帝国の上に輝いていた月は、今地中海に沈まんとしている。
 ――イギリス、早く。
 ぎゅ、と武器を握り直しながら、殺意にも似て強く念じた。
 ――お前が煽ったのだろう。
 イギリスがこちらにつけば、勝利は確実だった。
 そうして自分は、手に入るものの空虚さと、なくすもののあまりの大きさに気づかないフリをしながら、誇りと自由を叫ぼう。
 ――トルコ、お前の末路は知らないが。
 無事に対岸の人となれたなら、ささやかながら祈りを送ろう。
 つないだ大きな手の温もりを、忘れはしない。


 どうぞ、安らかに――。

 いつか希独立話をちゃんと書きたいですが、それにはどうしても欲しい本があるのです。でも2700円もするんですよ……あああぅ痛い……
 希は土が民族的な共和国として生まれ変わるとは思っていない。そのうち列強に食い潰されて消えるのだろうと思っている。自分がその一助となったことにほんの少し胸の痛みを感じつつ、でももう諦めてるのだと思います。思い出として持っていられればそれでいいと。
 心の中でお別れを言いながら、昔を思い出している、という設定。
 こんな重苦しい話にしろとか誰も言ってないのに本当にごめんなさい……

 おたけ様、リクエストありがとうございました!
(2007/11/15)
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