ΟΙΚΟΓΈΝΕΙΑ

- イ コ ゲ ニ ア -


 疲れた。
 ここ数日いやに忙しかった。朝から晩まで公務に追われ、息をつく間もなかった。
 だが頑張った分、今日からは少しゆっくりできる。切羽詰まってすべきことが何も控えていないというのは、想像以上に痛快だった。
 いつもなら絶対に見せないはずの仏心というか気遣いも湧き上がってこようというものだ。
 そんなわけで俺は尋ねた。
「ギリシャは?」
 そのクソガキの名を呼ぶのは実に二ヵ月ぶりだった。コロリと存在を忘れていたといってもよい。なぜならそのかわいくないガキは、いつも自室でぼんやり分厚い本をめくっているか、シエスタしているか、庭で猫のあとをついて歩くかのいずれかしかしなかったからだ。ならば別段気にする必要もない。
 だから二ヵ月ぶりにその子供の所在と様子を尋ねてみたのは、純然たる気紛れだった。仕事からの解放感をより演出するために、無意味なことをしてみたかっただけかもしれない。
 ところが、返ってきた答えは、そんな俺の貴重な平穏を打ち壊すに十分な威力を持っていた。
「ああ、ギリシャ様なら遊びに行かれましたよ」
 聞き間違いだとマジメに思った。
「あぁ、ごめん、なんだって?」
「ですから、いつもの広場におられます」
「いつもの?」
「ええ。スークの先の」
「スークの先」
 思わず復唱して、ますます理解が追いつかなくなる。あの、一日の移動距離は三十歩に満たないようなガキが、市場の先だなんて、そんなに遠くへ行ったって? しかも「いつも」?
 俺は仕事のしすぎでおかしくなってしまったのだろうか。それともあのガキはそもそもギリシャなどではなかったろうか。
「あれ、トルコ様はご存じありませんでしたか? ギリシャ様は最近、近所の子供たちと仲良く遊んでおいでなのですよ」
 日没になっても帰らないので困っているくらいで、とその官は笑った。


 近所の子供たちって……、どんな不良とつるんでどんな悪さしてやがるんでぇ。
 俺はずかずかと人混みを掻き分けて騒がしい市場を歩く。
 そもそもギリシャは、宮殿にやってきた当初から俺に文句たらたらだったのだ。俺の下にいるという自分の状況にも。
 部屋で陰気に腐っているだけなら放っておけばいいと今まで軽く考えていたが、まさか牙を剥くのがこんなにも早いとは。油断していた。「まだあんなに小さいのだから」という甘えが、多くの家臣が言うように、確かに俺にはあった。
 店が並ぶ通りを少しはずれて小高い丘に足を伸ばすと、きゃっきゃと幼い子供の声がする。
 三歳から十歳くらいまでの子供たちがはしゃぎ回る中、その中心にギリシャを見つけた瞬間、俺はその場にずっこけそうになった。
 想像していたよりずいぶん和やかな光景に拍子抜けだ。いつものようにぼんやりした顔で、あいつは周りの子供たちにさかんに何か指示を送っている。
 なんだよ、ガキ大将気取りか?
 俺に敵わないものだから、俺の国民の上に立って満足しようって肚か? それにしたってあんな年端もいかない同年代かそれ以下のガキを集めて、何が楽しいんだか。
「ヘラクレス」
 呆れ気分で声をかけると、案の定、こちらを向いたギリシャは嫌な顔をした。
 周りのガキどもも、突然ガキ大将より偉そうな大人の登場に、何事かと動きを止めてこちらを見守っているが、あろうことかギリシャは何事もなかったかのようにまた顔を戻してガキどもに指示を出し始めた。
「……おい、無視すんな」
 イライラと声をかければ、明らかなる嫌悪を浮かべた視線が舞い戻ってくる。
「……仕事は」
「もう終わったんでぃ、俺は優秀だからな」
 ああ、ギリシャはやはりギリシャだった。最後にこんなトゲトゲした応酬があったのは二ヵ月前のことなのに、昨日の事のように調子が戻ってくる。
 ギリシャのすぐ隣にいた子供が、耐え切れないといった体で、くりくりと好奇心に満ちた目を向けてきて、俺はつい大人気ない言動をしてしまった自身を恥じた。
 ところが、次いでそのガキが口にした言葉に、俺は胸を刃物で一突きにされたかのような気分を味わうことになる。
「このおじさんヘラクレスのお父さん? ギリシャ人じゃないんだね……あ、ひょっとして奴隷商人? ヘラクレスは売られちゃったの? だからギリシャ人の教会で遊ばないでこっちで遊ぶの?」
 ギリシャは無表情で「冗談じゃない」などと首を振っているが、俺はひどく眩暈がして立っているのがやっとだ。
「邪魔だから帰れ。俺はお前と違って忙しい」
 さらに追い打ちをかけられて、いつもなら軽く拳骨でも見舞ってやるはずのギリシャの言葉に、なぜだか従ってしまっていた。
 まず、「おじさん」たぁ何事だ。


 なんだかよくわからないが、陰気なあのガキがストライキじみた(もっとも、俺はそんなものに屈する気はまったくなかったが)ひきこもりをやっと諦めたなら、それは万万歳だと喜ぶべきところだろう。特に気にすべきことでもない。
 はずだったのだが。
「トルコ様、ギリシャ様をお見かけになりましたか?」
「いんや? どうした? あのガキがまた何か悪さでもしたのか?」
「いえいえ、……やっぱりまだ帰ってきてらっしゃらないのか……」
 お気になさらず、と去っていこうとする官を引き止めた。外はもうとっぷり日が暮れて、あんなガキが出歩くような時間帯ではない。
「まだ帰ってきてねぇのか、迎えは?」
「は。今から出すところでございます」
 畏まった官を見て、俺は頭を掻く。別に怒ったわけじゃねぇんだけどな……。
「いい。お前らも忙しいんだろ、あんなガキに構うこたぁねぇ」
「ですが……」
 言いかけて顔を上げた官は、仮面を外した俺の顔を見てはっと再び畏まった。
「申し訳ございません。お願いいたします」


 まったく。ガキらしく遊び回るのも結構だが、日暮れまでにはちゃんと帰ってくるのがガキの務めだろう。官の気を煩わせて、いったい何様のつもりなのか。あいつのどこかズレた暢気ぶりにはほとほと呆れ返る。
 そういう躾も、俺の責任か……。
 うんざりしながら昼の広場に着くと、子供たちのやっていることは昼間とまったく変わっていないのだが、そこに一人、ランプを提げ子供たちを見守る大人が増えていた。
 その大人は俺に気が付くと、にこりと愛想のいい笑いを浮かべる。
「あぁ、アドナンさん」
 よく見れば、王宮のお膝元に広がるこのスークを取りまとめている(この役割は一、二年単位で回されていくものなのだが)蝋燭商で、俺もその関係で懇意にしている男だった。
 民草の情報収集をするには、こういった人物との付き合いがかかせない。
「おぅ親父、何してるんでェ?」
 無論、俺の素性はおろか、王宮の関係者だということも伏せてあるから、気楽に話しかけることができた。
「いやぁ、見て下せえ、すごいでしょ」
 男の指差す先で、ギリシャを筆頭とする子供たちがなにやら動き回っている。こんな暗闇でよくやるものだ。
「あそこにギリシャ人の子がいるでしょう。最近顔見せ始めたんですけどね。今度の祭で子供たちに何か出し物をやってほしいって頼んだら、あの子が『じゃあギリシャ神話の劇をしよう』って言うんですよ。そんな高尚なモン誰も知らないってんで、みんな興味津々なんでさぁ」
 俺はしばらく返す言葉を見つけることができなかった。まさかあのガキが、そんな積極性を持ち合わせていたとは……。
「でもちょっとのめりこみすぎですかね……。おい皆! もう暗いから今日は終わりにしよう!」
 親父が声をかけると、子供たちは「はーい」と高い声を上げる。そのうちの一人が、とてとてと親父に駆け寄ってきた。
「父ちゃん!」
 そうだ、確かこの子は、親父のところの末っ子だった。
 子供たちは思い思いに解散していく。気付けば、周りには親父と同じようにランプ片手に我が子を迎えにきた親の姿が少なからずあった。こんなに遅い時刻なのにちっとも怒ったふうでないのは、皆事情を了解しているからだろう。
 それにしたって、仕事も忙しいだろうによくやるもんだ。
 俺が感心していると、足元にいつの間にか忍び寄っていたギリシャが、思い切り脛を蹴り上げた。
「ッ痛ェなこのクソガキ!」
 拳骨を咄嗟に出したものだから、力加減がうまくいかなかった。よほど痛かったのかギリシャは涙目だが、自業自得だ。
「来るなって言った……」
 恨みがましくじとりと見上げてくる目。
「アホか。ガキがこんな時間にフラフラフラフラ、迎えに来させられるモンの身にもなれってんだ。皆仕事があるんだからな。テメェのお守りにかかりっきりになれるほど暇じゃねぇんでぃ」
「……なるほど、つまりお前は暇だということだな」
 今度は割と予測済だったので、きちんと手加減をすることができた。
「おや、アドナンさんはその子と知り合いでしたか」
 末っ子の頭を撫でていた親父が、「失礼ですが、どういうご関係で?」と言いたいのを必死にこらえてます、という顔で言った。
 外見年齢だけでいえば兄弟とも親子とも見えるが、あいにく俺はトルコ系で、このガキはギリシャ人だ(当たり前だが)。先程子供に言われた「奴隷商人」という言葉が甦ってきて、俺は焦った。
「まぁ、色々あって、うちで預かってるっていうか……」
 我ながらなんて下手な言い方だ。なんだか後ろめたいことでもあるみたいじゃねぇか。
「そうですかぃ。――ヘラクレス、また明日もうちのと遊んでやってな」
 そうか、人の親というのはそんな気のきいたセリフが咄嗟に出てくるものなのかと感心した。ギリシャは拍子抜けするほど素直にこくりと頷く。てっきり「遊びじゃない」とでも言うんじゃないかと思っていた俺は、少し驚いた。
「……お前、別に俺の国民に恨みがあるわけじゃあねぇんだな」
 宮殿への帰り道、やたら距離を取って歩くギリシャを振り返って、俺は気紛れに声をかけた。
「当たり前だ……、一人一人の国民を恨んでも仕方がない。この国の政治は、彼らが民会で決めてるわけじゃない……」
「じゃあ、政治の真っ只中にいる俺や俺の上司は憎いんだな」
 俺としては何気なく言ったセリフだったのだが、ぐ、とギリシャは眼光を鋭くして睨みつけてきた。小さいながらも、俺はその殺意に少し肌寒いものを感じてしまう。
「それこそ、当たり前だ……」
 俺たちはそれきり会話しなかった。


 翌日も、その翌日もギリシャはせっせと出かけていった。
 それにしても、劇、ねぇ……。
 あのガキがしゃきっと立って決まったセリフをよどみなく言う姿が想像できなくて、俺は「どんな話なんでぇ?」とか「どんな役だ?」とか戯れに訊いてみたりしたが、「うるさい」とか「死ねトルコ」とか言われたら、本来の目的を後回しにして怒鳴るしかない。
 あまり何度も訊いても、俺が楽しみにしてるみたいで嫌なので、本人に訊くのは諦めた。いつもギリシャの世話をしている官を捕まえて根掘り葉掘り訊くと、答えているうちに、官は笑いを堪えるような、何か言いたそうな顔になる。
「なんでぇ、……何か言いたそうだな」
「あ、あぁ、いえ! ただ、トルコ様がギリシャ様のことを気にかけてらっしゃるのが嬉しくて」
「いや、だってあのガキが劇とかおもしろすぎだろ」
 我ながら、思った以上に言い訳がましくなってしまって、少々気恥ずかしくなったので、話を切り上げて官と別れる。
 あいつにももうそんなにやたら訊けねぇな……。


 仕方がないので、軽く変装して自ら練習を覗くことにした。つくづく暇だなぁ、と、場違いに幸せな気分を噛み締める。
 官に聞いた情報によれば、演目はトロイア戦争なのだそうだ。古代ギリシャの都市国家、スパルタの王妃ヘレネが、トルコ――アナトリア半島にあった都市国家トロイア(古代の話なので、もちろん住民はトルコ人ではないのだが)に勝って王妃を取り戻すという話。「トロイの木馬」というエピソードくらいなら、俺でも聞いたことがあった。
「――この木馬は、我らがギリシャ人が守護神、アテナ神に捧げたものである! これが万が一トロイアの城壁の中に入れられてしまうと、我々は負けてしまう。だから、絶対に中に入れられないような、巨大な巨大な像を作ったのだ!」
 地に這いつくばりながら、ギリシャが感情豊かにセリフを読みあげているのが見える。ああ、あんな顔もできるんだなぁ、と、俺は気分が高揚するのを感じた。
 普段無表情で不機嫌なガキの色々な面が見えてくるのは、正直、楽しい。
「いけない、あの木馬は危険なものなのに! 決して町の中には入れてはいけないわ! ねえ聞いて! ああどうして、どうして誰も私の声を聞いてくれないの?」
 その傍らで女の子が言って、顔を覆う。
「馬鹿な娘よ、お前の言葉を誰も信じはしない」
 これは例の蝋燭商の末っ子だ。
「あなたは誰? なぜそのようなことを!」
「私はアポロン神である、プリアモス王の娘カサンドラよ……」
 ふと、地に這いつくばったままのギリシャが、目線をこちらに向けた。顔が「去れ」と言っている。ちっ、もう見つかったか。だが、ここで従ってなるかってんでぃ。
 睨み合いが数秒続いて、やがて諦めたように視線をそらしたのはあいつの方だった。俺は満足して腕組みながら練習を眺め続ける。
「ポリテス! ああ、我が息子ポリテスよ……おのれ!」
「ばかな、自らその首を差し出そうとは……、息子のもとに行かせてやろう、プリアモス王!」
 話はどんどん進んでいくが、ギリシャの出番は先ほどのセリフあれっきりだったらしい、場面が変わって伏せていた体を起こすと、端に寄ってあれこれ他人の演技に注文をつけていくばかりだ。たまにちらりとこちらを見ては、かわいくない顔をする。
 傍らにいた少年も俺に気がつくと、俺を指さしてそっとギリシャに話しかけた。
「あのおじさん、また来てるね。ヘラクレスの家の人なんでしょう?」
 ガキはこれだから困る。その声量だと本人に聞こえてるんだよ思いっきり。
 ギリシャならともかく、他人同然のガキにまで見破られるなんて、俺の「軽い変装」の意味がまったくなかったようで、いっそう切ない。
「死ねばいいのに……」
 ギリシャが漏らした一言に、俺は怒鳴りたい衝動を必死にこらえる。
 おいコラ、どういうことだクソガキ。俺は死にもしないし帰りもしねぇぞ。
 いかなる視線を向けられようと、てこでも動かずその場に留まり続けたら、いつしか日も暮れていた。
 そろそろ練習を切り上げて家に帰った方がいいのではないか、と思ったが、口を挟むタイミングがわからない。そのうちに、昨日の蝋燭商の親父が、ランプを提げてやってきた。
「おや、アドナンさん。またご見学ですかぃ」
「……いや、どんなもんかと思ってな……」
「なかなかの出来でしょう。本番が楽しみでさぁ」
 笑いながら親父は、我が子に手を振っている。
「……だな」
 親父が来たのが合図であったかのように、子供たちは帰り支度を始めた。
 続々と、他の親たちも集いつつある。
「今日はすっごい進んだね」
「もう俺セリフ完璧だぜ」
「ママが衣装作ってくれるっていうのよ」
 口々に聞こえてくる微笑ましい会話。その中心で、ギリシャは笑っていた。
「ヘラクレス、また明日な!」
「また明日……」
 ほう。
 ああしていると、普通の子供のようだ。なんの陰も背負っていない。
 不覚にも弛んでしまった口元を隠すように顔を背けると、夕飯の支度を終えたばかりといった風情の親たちに混じって、見覚えのある顔が、こちらへ向かってきていた。俺に目を止めると、「トル……」と声を上げかけて、慌てたように声を落とす。
 庶民風に身をやつしてはいるが、確かにうちの官だった。
「アドナン様。こちらにいらしたのですか」
「またあのクソガキの迎えか? ご苦労だねぇ」
「いえいえ。実は私結構、ギリ……ヘラクレス様を迎えに来るの、好きなんですよ」
「は? またどうして」
「帰り道で、劇のこととか練習のこととか、色々話してくださるものですから。私楽しみにしてるんです、この劇」
「……へぇー……」
 びっくりしすぎて返答が少し遅れてしまった。
 この前一緒に帰った時には、ギリシャは自分からは何も話さなかった。――いや、「死ね」くらいは言われたかもしれない。
 つくづく、俺はギリシャのことを知らないらしい。俺の国民にも誠実に接するし、劇だなんてお祭り騒ぎにも実は結構ノリノリで、子供たちと年相応の会話をして、俺以外には、まるでかわいい子供のような行動を取る。あいつのそういうところを、俺はこれまでまったく知らなかった。
「アドナン様?」
「え、いや、何でぇ?」
「……いえ、私は先に宮殿に戻りますね」
 にこり、と笑って官は俺にランプを手渡した。
「は?」
 思わずそれを受け取ってしまいながら、俺は間の抜けた声を上げる。
「アドナン様がいらっしゃるなら、私は不要でしょう」
 そう言った官の笑顔に、すべてを見透かされた気分になって、俺は赤面した。暗闇でよかった。なんでこういう時に限って仮面がないんだ。
「俺には何も、話しちゃくれねぇよ」
「そうやって突っぱねるのも、子供にとっては楽しいものなのですよ。生きるエッセンスのようなもので」
「楽しまれちゃ敵わねぇわな」
「まあそう言わずに。では、失礼いたします」
 引き留める間もなく、官は去って行ってしまう。俺は決まり悪さに頭を掻いて、溜息まじりに振り返るとそこにギリシャがいた。
 見れば他の子供たちはほとんど帰ってしまっている。
「……この、暇人が」
 まあ、昼からずっと見物していた手前、異議を唱える資格もないだろうと、忌々しげに吐き出されたセリフは無視した。
「お前、出番あれだけかぃ。お前が言い出しっぺなんだろ?」
「製作者は出張らないものだ」
 スタスタと、ギリシャは俺の先を歩く。といってもリーチがあまりに違うので、結局並んで歩くことになり、それが嫌なのかギリシャはムキになって駆け出した。
「おい、転ぶぞ」
「馬鹿にするな!」
 元気なことで。
 少し憐れになったので、ギリシャがペースを落とせるように、歩調を緩めた。
「本番は、三日後か」
 また祭の時期がやってきた。毎年このくらいになると、もうそんな時期か、と平和を実感する。まあ、平穏なのは中心部だけで、国境付近じゃ血生臭い話は絶えないし、国家的には常時戦時下体制、それが拡大を続けるオスマン帝国なのだが。
「……観に、くるのか」
 ふとギリシャが足を止めて、こちらを振り返った。
 暗いわ、手に持ったランプで目が眩むわで、顔はよく見えない。
「行っちゃ悪いかい」
「……別に」
 声音には、いつものようなトゲはなかった。


 劇は大盛況のうちに終わった。退屈な日々の繰り返しに飽き飽きしていた大人たちは、かわいらしい子供たちの出し物に皆笑顔を浮かべた。
 代表者であるギリシャの誇らしげな顔といったらない。
 群衆に紛れて見物していた俺は、不覚にも心の底から嬉しくなった。
 あれ、おかしいな、目から汗が……。
 達成感に満ち満ちた子供たちに、たくさんのお菓子を持って労いに駆け寄ったのは、彼らの両親だろう。
「お母さん、俺すごかっただろ!」
「見違えたよ」
「途中、少し間違えちゃった」
 微笑ましく交わされる親子の会話に、俺は人の親の力というものに感心し、温かい気持ちを感じた。普段はこんな光景、気に留めたことなどなかったのに……いや、むしろ親ばかだとか、煩い、くらいには思っていたかもしれない。
 俺は何の褒美も持参しなかったことに気づき、急に恥ずかしくなって、そっと踵を返した。
 せめて褒め言葉くらい、と思っても、あの親たちのように、愛情に満ちた言葉など、俺ごときにかけられるはずがない。ならば、わざわざ顔を見せて喧嘩する道理もないだろう。
「トル……サディク!」
 とぼとぼと歩いていた俺に、幼い声がかかる。振り向けばギリシャが駆け寄ってくるところだった。
 俺に気づいていたからといって、まさか追いかけてくるとは思わなくて、俺は内心うろたえた。だから、どうしてこういう時に限って仮面がねぇんだ!
「見に来てたのか……よほど暇なんだな……」
 はぁはぁと息を切らせて、俺の目を見ずに言う。
 俺は無性に、この子供を思い切り抱きしめたくなった。
 しかし、そんなことが許されるはずもない。俺も許さないし、こいつも許さないし、神も許さないだろう。
 できることはただ、ぽんと頭に手を置いて、普段はしないような笑顔を向けてやることだけだった。
「よくやったな」
 まったく、我ながら陳腐な台詞だ。何の生産性もありはしない。
 それでもギリシャは、じっと俺を見つめる。いつものように生意気な口は叩かなかった。
「……またやりたい」
「そうか。なら、やりゃあいい」
「……うん」
 大きな瞳の中に宿った強い光に、どことなく恐怖を感じながら、俺はそっと、柔らかな髪から手を離した。

 時代設定的には、まだギリシャがオスマン帝国の支配下に入って間もない頃かと思うので、ギリシャ人はギリシャ神話とか民会とか知らないはずですが(この頃のギリシャ人は、古代ギリシャの文化的遺産を継承してはいないのだそう)、まあそこはファンタジーで……。
 苦し紛れに私の中で妙な子希設定が出来上がりました。「誕生時から、18世紀頃の過剰ともいえる熱狂的民族主義の兆候をすでに内に無自覚に秘めた子」という……。
 ……だって、オスマン帝国に支配されて、「これでうぜぇローマカトリック教会のおせっかい受けなくて済むぜ。まぁ税金取られるくらいだしな……」と無気力な子希よりも、「トルコ死ね!」な子希の方が萌えるじゃないですか……(超個人的)!!

 脚本は子供風にアレンジしてあると思います。脚本・舞台監督・演出・シノン(木馬について敵方に嘘の情報を流すギリシャ兵)役がギリシャ。

 だんだん父性を身につけていく土、を書きたかった(笑)。あと、土は過去をまったく引きずらないカラッとした性格だと思う。その場で殴って怒鳴ったらすっきりして、あとは全部忘れちゃう(江戸っ子だから)。そんなイメージ。
 希はどうだろうな……歴史を見てると、普段はなんとも思ってなくてぽけっとしてるくせに、あるきっかけで異常なほど過去に執着し憎悪する、そんな感じを受けました。状況に寄るんだろうな……。ギリシャの性格は未だに掴めません……難しい奴だ……!
 米英は逆に男らしく(笑)めちゃめちゃ過去を引きずる奴らだと思います。よく言えば思い出を大切にする……。

 市場うんぬん、祭うんぬんの話はデタラメです。トプカプ宮殿の至宝展で、勇んで宮殿の見取り図(図録)をゲットしたのはよいのですが、周辺地図まではちょっとムリでした……orz あとギリシャ人の扱いもよくわかりません(←最低)。も、もうちょっと修行して参ります……!
 タイトルは「イコゲニア」と読んで「家族」を表すのだそう。適当に調べましたが、案外時間がかかりました。疲れました(じゃあしなきゃいいのに……)。
 まぁ、雰囲気ぶち壊しなことを言うと、オスマン帝国にとってはギリシャ人を始めとする被征服民は「家族」ではなくて「家畜」だったそうですよ(……)。

 雰囲気ぶち壊したあとに言うのもなんですが、いただいたリクの、「海の如く深くて空気の如く(色素が)薄い愛を幼い希に注ぐ土と、嫌い嫌いと思いつつ無意識に土がいて当たり前になっている希」というのはまさに私の土希のイメージそのものでしたvV 土の深い愛に萌える……!

 卍様、リクエストありがとうございました!
(2007/11/12)
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(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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