bound for 君 コンコン、と硬いノックの音で、俺は読んでいた新聞から顔を上げた。 いいよ、と声をかけると、現れたのは普段は白衣を着ていることの多い男で、珍しい黒のスーツ姿に軽く眉を上げた。というのも、彼とは国の研究所で会うことが多く、彼の方から俺を訪ねてくるのは三ヵ月ぶりだったからだ。 用件はあらかじめ電話で聞いていたので、俺は彼と握手をするために立ち上がる。 「研究に一段落ついたって言ってたけど」 おめでとう、と言えば彼は首を振った。 「残念ながら、お望みの水準には達しませんで……。以前よりは改善されましたが」 「なんだ、そうなのかい?」 「ええ……。ですから今回直々にお伺いしたのは、研究を継続するお許しをいただくためでもあるのです」 「わかった。上司に話してみるよ。……でもその改良バージョンとやらが、どの程度の出来なのか見せてもらわないとね」 俺が言うと彼は頷いて、黒いカバンからてのひらサイズの銀のケースを取り出した。胸ポケットから取り出した鍵をそのケースに差し込むと、ガチャリと音がして蓋が開く。 中で規則的に並んでいたのは、何の変哲もない錠剤だった。一見するとただの風邪薬のようだ。 そのうち一つをつまみ上げて、俺に手渡す。 「まず速効性についてですが、これは以前より格段に伸びました。胃の中で吸収された後、一気に脳神経に到達します」 俺はその錠剤を蛍光灯の光に透かしたり、手の中で転がしたりして彼の話に相槌を入れた。 「次に後遺症ですが、こちらがなかなかうまくいきませんで……、何せ本人の意志に反した行動を取らせようというのですから、脳神経に与える影響はかなりのものです」 そう、俺の手の中で踊っている小さな錠剤。風邪薬でもガンの特効薬でも細菌兵器でもない、――最新の自白剤なのである。 「従来の自白剤は、場合によっては副作用で、投薬後廃人同様になってしまいましたが、今回これでもかなり後遺症を軽減いたしまして、若干の精神障害が残る程度になりました」 「若干ってどのくらいだい」 「個人差があります」 また身も蓋もない回答だ。 「ふーん……。で、今後の研究で、さらに副作用は減らせそうなのかい?」 「時間と資金さえ揃っていますれば」 ちらり、と俺をうかがう瞳に、俺は笑った。 「わかった。上とかけあってみよう」 彼はホッと息をつく。俺は手に持っていた錠剤をテーブルの上に置くと、彼を見送るために部屋を出た。 その後約束通り上司に話をつけに行って、戻ってきたらイギリスが部屋を掃除していた。 「……何してるんだい」 「いや、ここでさっき瓶を落としてな……危ないから来るなよ」 そう言う割に、床の上にはさほどきらきら光る細かい破片が落ちているようには見えない。 「靴履いてるんだから平気だよ」 「あ、バカ! そのテーブル触んな!」 まさにテーブルに手を突こうとしていた矢先、怒鳴られて俺は手を引っ込める。 「瓶割ったの、テーブルの上なんだ。破片取り切れてないと危ないから……」 道理で。テーブルの端には、ごく少量ではあったが、ほぼ粉末状と言っていいガラス片が集められていた。 「……まーったく君は、人んちで人の留守に何してるんだい」 トゲトゲと嫌味たっぷりに言ったのに、イギリスはなんだか元気がない。 「悪かったな……俺が全部片付けとくから」 言われなくても手伝う気などさらさらなかった。 「じゃあそれまでお茶でも入れてくるよ」 俺は背中越しに宣言して部屋を出た。特製アメリカンコーヒーを入れてやろう、たぶんイギリスは飲まないだろうけど。 しばらくしてリビングルームに現れたイギリスは、ごほごほと咳き込んで、用意されたコーヒーに顔をしかめた。 「風邪かい?」 「あぁ……なんか調子悪くてな」 ゴホゴホ、と彼は咳を繰り返す。 「やめてくれよ。伝染ったらどうしてくれるのさ」 細菌を追い払うかのように顔の前で手を振った俺に、君は傷ついた顔も見せない。どうやら本当に具合が悪いようだ。 「もう帰ったら? そういえば何の用だったんだい」 「ああ。保留にしてた書類を届けにきただけだよ。待たせて悪かったな」 ブリーフケースから取り出された書類を受け取って、俺は立ち上がった。 イギリスはそんな俺をじっと見つめている。 「そんなことでわざわざ来るなんて、君も暇な奴だな。……何? さっさと帰れば?」 「わかってるよ……」 言った矢先イギリスは盛大に咳をした。こころなしか声もかすれている。思わず「駅まで、いや空港まで送る」と言いそうになったが、ぐっとこらえた。 「まぁ、薬でも飲んでおとなしくしておくことだね」 「さっき飲んだんだけどなぁ……」 あぁ、だめだ寒気がする、と言うイギリスを無視して、俺は口のつけられなかったコーヒーカップをさっさと下げた。 しばらく洗い物などをしていると、けたたましく家の電話が鳴った。 「もしもし?」 出てみれば相手は先程の研究チームの長。 「あ、さっきの件なら上司に話しておいたよ」 『ああ、ありがとうございます! ところで先程お見せした試作品ですが、私一つそちらに置いてきてしまいましたよね? 誤飲すると大変なので一応回収しようかと思いまして』 「あー、さっきのか。そういえば置きっぱなしだったかも……」 『では取りに……』 「いいよ。俺が届けよう」 いえ、そんな、と言う彼をいいからいいからと押し切って、俺は電話を切った。 確か件の錠剤はテーブルの上に置いておいたはず。 しかし、ちらりと見たテーブルは、乱雑に散らばっていたはずの書類がきれいに端に揃えられ、まっさらな面をさらしていた。錠剤のじょの字も見当たらない。 「あぁ……そういえばさっきイギリスが掃除してたっけ……」 ならばもう捨てられてしまったかもしれない。 それならそれでいいか、とゴミ箱をのぞく。ガラス片を包んだのだろう、新聞紙が捨てられていた。 改めて俺は、部屋を見渡した。 イギリスは「瓶を割った」と言っていたが、何の瓶だったのだろう。この部屋に瓶状の物など置いていなかったはずである。となれば、イギリスの私物か。しかし掃除をしている時に見た感じでは、液体は零れていなかったようだ。では中身は空か、さもなくば固体か。 イギリスが持ってきた瓶の存在が、なぜだかひどく気にかかった、先程まで気にも留めていなかったのになぜだろう。 「錠剤……風邪……瓶……」 まさか。 俺はゴミ箱を引っ繰り返した。細かな破片が音を立てて床に散らばるが気にしない。 頼む、どうかここにありますように……。 丸まった新聞紙を広げる。カチャカチャと耳障りな音がして、現れたのは今まで見たような微細なかけらばかりではなく、かなり大きめの破片も混ざっている。小さな小さな瓶の原型をほぼ留めた物体が中央には鎮座していた。どうやら割れたのは瓶のごく一部分だったらしい。 そのどこにも、なくなった自白剤は見つからない。 さらに恐ろしいことには。 「風邪薬……」 一部粉砕した瓶にはきちんと商品名や成分が書かれたシールが残っていて、ご丁寧に錠剤のイラストまで付いている。やはり何の変哲もない、薄い黄色の――あの自白剤と同じ。 どっと冷や汗が吹き出して、心臓がばくばく言っていた。 どうしよう。もしあれがイギリスの風邪薬に紛れ込んだのだとしたら――。 ――軽い精神障害が残る程度……。 どのくらい。 ――個人差があります。 俺はすぐさま携帯を取り出すと、イギリスの携帯に電話をかける。まだ飛行機はおろか、空港にすら着いていないはず。 しかし最悪なことに、コール音が聞こえてきたのは、俺の家のリビングルームからだった。 「あのバカ! 忘れ物魔! 変態! ショタコン!」 俺は思いつく限りの悪態を吐きながら、空港のロビーを走っていた。この近辺には国際空港がいくつかあるが、イギリスが気紛れを起こさない限り、彼はこの一番メジャーな空港を使うはずだった。航空会社も決まってイギリス最大手。 とりあえず空港で呼び出しをかけてもらうことにする。 早く現れろバカ。 しかし腕時計とにらめっこしながら待てど暮らせど、何度放送し直してもらえど、イギリスは現れなかった。 そうこうしているうちに、ロンドン行きの飛行機は出てしまって、俺は途方に暮れる。 このままイギリスが携帯を忘れたことに気付くのを待つか、俺自らロンドンに出向くか。 事態は一刻を争う。果たしてどちらが早いだろうか。 結局じっとしているのが嫌で、次の便のキャンセル待ちに滑り込んだ。 ロンドンに着いて真っ先にイギリスの家にかけるけれど、応答はない。 しかしあの体調でふらふら出歩くはずもないのだから、ととりあえず向かったイギリスの自宅は、やはり静まり返っていた。合鍵で上がり込み、寝室から庭までくまなく捜し回るけれど人っ子一人見あたらない。 「病院にでも行ったのかな……」 ここまでの行程で心底疲れ切っていたが、体に鞭打って俺は競歩し出した。 * それはほんの気紛れだった。 俺はそっと顔を隠していた新聞を下ろし、走り去るアメリカを見送る。 ゴホ、ゴホ。喉が痛い。 きっと風邪のせいだな、と俺は思うことにした。だから心細くなって、こんな愚かな真似をした。 アメリカが俺を追い出すようにコーヒーカップを下げてしまうから――もとより飲む気なんてなかったけれど――、仕方なく家を出たけれど、一人で歩く街はものすごく寒く感じられた。 数歩行ったところで、すぐに携帯を忘れてきたことには気がついた。 そこで、魔が差した。 まさか携帯ごときで、アメリカが俺を追いかけてくれるほど優しいとは思っていなかったので、正直嬉しすぎてどうしていいのかわからない。 行くあてもないのでアメリカの家に勝手に入る。こんなことはしょっちゅうだから、いまさら気なんてとがめない。 アメリカに交信でもされると困るので――こいつにそんな能力があるかは知らないが――気味の悪い地球外生命体にはリトアニアの写真を与えて口止めしておく。 窓はぴったりと閉まっているのに、やけに寒い。立っているのもしんどくなって、ごめん、と思いながらアメリカのベッドに倒れこんだ。 次に目覚めたときには、少しむくれたアメリカがいてくれたら最高に幸せなのに、とぼんやり思った。 * いない。 考えられる病院はすべて回った。家にも戻ってみた。 「どこに行ったんだ、イギリスの奴……」 ゴミ箱に入っていた小瓶には「30錠入り」と記載があった。いったいいくつ残っていたのだろう。 ――薬でも飲んでおとなしくしてるんだね。 なんであんなことを言ってしまったのだろうか。 もとより、風邪――感冒なんて、薬で治すものではないことなど知っていたのに。 ああ、こんなことをしている間にも、イギリスが誤って自白剤を飲んでしまっているかもしれない。 風邪を引いているくせに、携帯も持たないでふらふらと。最後に会ってから、もう一日以上経過している。 「イギリス……」 ロンドンの街はイギリスの匂いがする、と俺はいつも思う。 余計に胸が苦しくなった。 ひょっとしたら、携帯を忘れたことにとっくの昔に気づいて、取りに戻ったのかもしれない。 俺は自宅に電話してみることにした。 数十コール後、しびれを切らしたかのように回線がつながった。 『――モシモシ』 出たのは普段は相手を驚かせないように、なるべく電話には出ないでくれよ、と頼んでおいた友人だった。 悪いことをしたな、と思う。 「や、やあ。俺だけど、イギリスから連絡なかったかい?」 『……ライミー、キタ』 ライムから来ているというその蔑称を、俺は少しだけかわいいと思っているが、たぶんイギリス本人に言ったら怒るのだろう。そんなことを考えている自分ののんきさが情けなくて、涙が出てきた。 「来た? 本当かい!」 『リト、クレタ。トテモカワイイ。ダカライウナッテ。ファッキン』 「え? 何? リトアニア? リトアニアじゃなくて、イギリスだってば……!」 『ダカラ、ライミー、ネテル。キカンシノエンショウ、クルシソウ』 「な、な、なんかよくわからないけど、そこにイギリスいるんだね? すぐに帰るから、絶対に薬飲んじゃだめだよって伝えて!」 『ワカッタ』 俺はイギリス邸から空港への自己ベストを更新し、またしても都合よくキャンセルの出た便に飛び乗ると、自国へと舞い戻った。 * 目が覚めて、ああ、これは夢か、と思った。 再び目を閉じようとすると、アメリカが慌ててぺちぺちと頬を叩く。 「イギリスってば! 大丈夫かい?」 「痛ぇ痛ぇ痛ぇ! わかった、起きるから!」 起きろと催促するかのようなアメリカの手を振り払って身を起こした俺に、アメリカはずいぶん勝手な言葉を投げつけてくれた。 「別にいいよ、起きなくて」 「なんなんだよ……」 「風邪、ひどくなっちゃったね」 言うなりアメリカが俺の額に触れたから、俺は思わず身を引いてしまう。 アメリカは諦めたように手を下ろした。それがなんとなく残念に感じられて、そんな自分に赤面する。 「薬、持ってきたの?」 「あ、ああ。瓶割っちゃったけど……」 代わりに、勝手にキッチンから拝借したビニール袋に詰めた錠剤を懐から取り出す。ああ、そういえばスーツを着たまま寝てしまった。しわになってしまっただろう。 そんなことを考えて油断していると、乱暴にその袋をひったくられた。 「何?」 「あ、いや……薬はよくないよ、うん。症状をムリヤリ緩和させるだけで、根本的解決にはなってないからさ。急いで帰らなきゃいけないような仕事もないんだろう? 今日は栄養あるものいっぱい食べて、ゆっくり休んで行きなよ」 珍しい申し出に、俺は不覚にも感動した。体が弱っていると心細くなるというが、こんなときに優しくされると、何も考えずコロリと落ちてしまうものだ。 ああ、何度この手で痛い目に遭わされたことか……。 それでも、知らぬ間に首が勝手に頷いていて、アメリカは満足そうに笑った。 「そういえば、俺すぐに君を追いかけたんだけど、どこですれ違ったのかな。すぐに気づいたの? 携帯」 ぎくり。 「ええと……うん、そうなんだ。どこですれ違ったんだろうな」 ああ、このまま幸せの淵で眠りたかったのに、やはり不問に付してはくれなかったらしい。しかし真実を言ったらアメリカは怒るだろうか。 「ふーん……」 携帯ごときで、俺を追いかけてくれたアメリカ。すぐに追いつかれたのではつまらない。そのままずっと、俺のことを考えていてほしかった。 「悪かったな、俺、お前の家に戻ってくるなりぶっ倒れちゃって……迷惑かけて」 しかし、それにしてはずいぶんと帰りが遅かった。そのまま仕事でも入ったのだろうか。 「いいよ。あのまま帰って、道でひっくり返ってる方が迷惑だろう」 「でも、お前が帰れって言ったんだろ」 「うん、だから悪かったって。君がこんなに具合が悪いなんて、思わなかったんだ」 ほら、俺、基本体は丈夫だからさ、なんて言われる。 「……なんかお前、今日妙に優しいぞ……」 いつだって俺の具合なんかにはお構いなしで、やりたい放題やっていくこいつが、こんなふうに俺を気づかってくれるなんて。 なんだかくすぐったくて、気持ち良くて、安心する。 安心したら眠たくなった。 うとうととまぶたが落ちてくる。 曖昧模糊とした意識の中で、アメリカが俺の髪を梳く指の感触と、落とされた「良かった……」という吐息混じりの呟きだけが、やけにリアルだった。 翌朝すっかり気分もよくなって目覚めた俺に「君、もう勝手に俺の家入らないでくれよ。合鍵返して」と冷酷な言葉が投げつけられ、合鍵を巡って再び逃走劇が演じられることを、この時の俺はまだ知らない。 今回ようやく重い腰を上げて、ワシントンD.C.の空港とロンドンの空港、アメリカ、イギリスの航空会社について調べてみました。なんと行きと帰りで料金が300ドル近く違うという恐怖……イギイギの航空会社を使った場合ですが。つうか基本交通費高いですね……。まぁ「結婚しようよ」のあとがきで述べた通り、国だから秘密の裏ルートも持ってるんだろうという考え方もいまだに持ってますから無問題です☆(何が) 所要時間は飛行機に乗ってもいない私の時差ボケがひどくなったので計算できませんでした……orz 結局二人とも真実は言えないまま、悶々としていればいいと思います。 二人してお互いが大好きなくせに、変に距離を置こうとするから問題がこじれる――そんな米英が大好きです!(←いやお前の嗜好は知らんよ) そんな訳のわからんこじれた話ですが……、S様、リクエストありがとうございました! (2007/10/25)
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