セカンドハウス



 ロシアから「友好の証に最新の政策立案施設を案内したい」というなんとも怪しげな電話がホットラインを通じてホワイトハウスにもたらされたのは、金曜日の夜のことだった。
 直々にお招きを受けたのは上司ではなくアメリカで、とりあえず大統領暗殺などという物騒なことを目論まれている訳ではなさそうだが、それでも急といえば急な話で、怪しいことに違いはない。
 いくら米ソ間が関係改善の方向に向かっているとはいえ、ロシアにはアメリカに見せたくないものなどいくらでもあるはずだし、アメリカにもロシアに見せたくないものはたくさんある。まして最新の政策立案施設を案内してくれるなどと言われては、これは災いの前触れかと疑ってしまうのも無理はなかった。
 日曜日、警戒しつつも極寒の飛行場に降り立てば、顔の半分を暖かそうな毛皮に埋めたロシアが胡散臭い笑みで手を振っていた。
「どうしてもアメリカくんに見てもらいたくてさ。きっと気に入ると思うよ! すごく面白いものなんだ」
 吐き出す息を凍らせながら、ロシアは言った。この寒さにまだ慣れないアメリカは口が回らず、しゃべることもできない。
 どうせロシアに踏み入ることを許されたなら、もっとマシな季節に来たかったものだ。
 しかし二重扉を潜り抜け、地に這うように広がる一階建ての重厚な施設に入ると、コートに貼りついていた微細な氷が溶けだし、足元に水溜まりを作った。
 ここでコートを脱いでね、と言われるがままに、ロシアの部下にしっとり表面の濡れたコートを預け、さらに重厚な鉄の扉を三枚くぐる。だんだん、窓もない廊下は細くなっていき、息苦しい。ただ他愛ない話をしながら――その実、互いに挑発、牽制し合っていた――冷えきった指先に戻った血流に、痛みを感じなくなった頃、一枚の黒い扉の前で、ロシアは立ち止まった。
 ドアの横のカラフルなスイッチをしばらくいじったあと、ポケットからごてっとした装飾の鍵を取り出し、ロシアは面白そうに笑った。
「歩かせちゃってごめんね。本当に貴重な最新の研究だから」
「そんな貴重なものを、俺なんかが見て本当にいいのかい?」
「僕も完成品を見たのは一月前なんだ。で、これはぜひアメリカくんに見てもらわなきゃ、って思って」
「一体なんなんだい? 軍事的なものではないんだろう?」
 ロシアに焦らされている感じが、アメリカにとっては大変不愉快だった。つい苛々とした声を上げてしまうが、そのことがまたロシアを喜ばせることに気づいて、ますます憮然とした。
 やっぱりこんな誘いに乗るのではなかった。
「そういう使い道もあるだろうけど……むしろ僕は、これをこれからの世界平和のために役立てたいんだ。これは同志の気持ちでもあるんだけどね」
「そうか……君の上司……ああ、こちらでは同志と言うんだっけね。ずいぶん有能みたいじゃないか」
 アメリカ陣営の国々が軍事費増大により苦しんでいる昨今、ロシアの繁栄は半ば神話的に語られ、学者の興味の的だった。しかし目の前でにこにこと笑うこの食えない男は、決して自分の手の内を明かそうとはしなかった。
「科学には『モデル』が欠かせない」
 ガチャリ、とドアノブを回しながら、解説じみた口調でロシアは始めた。
「たとえば飛行機一つ設計するにも、実際に飛行機を作って試行錯誤したんじゃ、時間とお金がかかってしょうがないよね。だから小さい飛行機のモデルを作って、その小さなモデルで、材料や機体の流線、風速なんかの条件を変えて実験する」
 そんなことはアメリカだって知っている、常識だ。アメリカはおとなしく続きを待った。
 部屋の中には大きなコンピュータがあって、その奥には天井から白いカーテンがかかっている。その向こうで、何かが蠢く影が見えた。生き物か何かいるようだ。
「どの科学でもそれは同じ。たとえば窒素と水素からアンモニアを作るために必要な触媒を見つけたければ、実際の空気に混ざる様々な不純物、関係のない要素をすべて取り払った、理想的な真空状態を作り出さねばならない」
 ロシアはコンピュータを一瞥して――その背後のカーテンを見たのかもしれないが――にこりと笑った。
「社会科学でもそれは同じだよね。実際の社会は実に様々な要因が絡み合っていて、なかなかある出来事とある要因の関連というのは見えてこない。ところがこれが、規模をずっと小さくして重要な要素だけを残した単純なモデルを用意すると、ぐっとこの社会がどう動くのかわかりやすくなる」
 ここからが本題だよ、といたずらっぽくアメリカの瞳を覗きこんで、ロシアはスタスタと白いカーテンに歩み寄る。
「それでね。今回ロシアは、実に有能な外交モデルを作ったんだ」
 このカーテンの向こうに、その「外交モデル」がある、とでも言わんばかりの動作だ。
 アメリカは混乱した。
「ちょ……ちょっと待ってくれよ」
 アメリカの制止など意にも介さずロシアは続ける。
「この外交モデルを駆使すれば、世界の利害関係が今みたいに複雑に絡み合って収拾不能、なんて事態はすぐに解決するはずだよね」
「ロ、ロシア!」
 二度目の制止で、ようやく彼は面倒くさそうに髪を掻き上げる。なに、という顔。
「普通、社会科学の『モデル』っていうのは単なる考え方の枠組みとか概念を指すのであって、飛行機設計のモデルや化学実験の装置とは違って、物理的に見せられるものなんてないはずだけど? そんなものを見るために俺、わざわざここまで来たのかい? そんなの、君が電話で喋って教えてくれるか、手紙にでも論文を同封してくれればよかっただろう?」
 まさかそのカーテンの向こうには、論文の束でも保管してあるのだろうか。アメリカはため息を禁じえない。
 対するロシアは、的確なはずのアメリカの指摘を、一笑に付した。
「やだなぁ。うちの『社会科学』を、アメリカくんのところのと一緒にしないでよ。この度ソビエトの英知を集結して作ったこのモデルはね、本当に国際社会のモデルなんだよ」
 さあさお立ち合い、とカーテンの端に手をかける。
「飛行機のモデルが小さくなった飛行機なら、社会のモデルは当然、小さくなった社会――つまり箱庭、ドールハウス、なんでもいいけど、そういうものでなくちゃいけない気がしない?」
 論文なんかじゃないよ、と言われても、アメリカには依然、ロシアの誇らしげな顔の意味がわからない。
「冗談じゃないぞ、俺は人形遊びをしに来たんじゃ……!」
「ただの人形じゃないよ。国際社会の動向を研究するための人形さ。たとえば、イギリスくんにこういうことをすればこういう反応が返ってくる、そういうことがわかるものであるからこそ『外交モデル』と、僕たちは呼んでるんだよ?」
 イギリスの名を出されて、アメリカは眉をひそめた。これがもし危ない代物であったなら、ヒーローたるアメリカが責任を持って回収せねばならない。
「きっと気に入ると思うな」
 ジャッ、とロシアはついにカーテンを開け放した。
 その向こうには天井から床まではめ殺されたガラス。
 そのさらに向こうには、小さな小さな子供が一人。怯えた目でこちらを見た。
「い……イギリス?」
 幼いながらも見覚えのある顔。まちがいない、これは昔のイギリスだ。
 待て、ちょっと待て。
「ち、小さな国を作ったって……? 外交政策のモデル実験をするために?」
 それだけでも、ロシアの発想力というか空想力には恐れ入るというのに。
「『小さい』って、こういう意味かっ!」
 ドールハウスというから、本当にそういうサイズなのだろうと思っていた。これでは小さいは小さいでも「幼い」の方だ。
「だから人畜無害なんじゃないか。少し時代遅れな考察しかできないけど、よければアメリカくんにモニターになってもらおうと思ってね」
 確かに、これでは現代のイギリスの動向はわからない。
「モニター……?」
「うん、試しにそのモデル持って帰っていいよ。色々実験して、わかったこととかあったら教えてよ」
 持って帰っていいよ、と言われた瞬間、ガラスの向こうの「モデル」が、びくん、と肩を揺らした。恐る恐る、と言った様子でこちらをうかがっている。
 アメリカは何か胸の中がもやもやするのを感じ、ゴクリ、と唾液を嚥下した。
「え……、い、いいのかい?」
「アメリカくんならそう言ってくれると思ってたよ! あ、これはロシアの最先端の研究だから、アメリカくんにだけ、教えるんだよ。ほかの国には教えないでね」



「やあ、同志」
 廊下の向こう側からやってきた人影を見て、ロシアは軽く手を挙げた。
「アメリカは帰ったのか」
「うん」
「あの部屋以外、見せていないだろうな。よりによって敵国中の敵国を、こんな中枢まで招くことはなかろうに」
「だって、あの外交モデルはほいほい外に出せる代物じゃないから」
「あんな失敗作、処分してしまえばよかっただろう」
「それじゃあ開発費がムダになっちゃうじゃないか。あんな時代遅れの失敗作でも、アメリカを動揺させるくらいには使えるよ」
 現にあのモデルを見た時のアメリカの顔といったらどうだ。
 ――下心丸見えだよねぇ。
 ロシアはくすくす、と思い出し笑いをした。
「それに、モニターをしてほしいっていうのも本当だしね。これで今後の研究の足がかりになるならいいでしょ? ……それにしても、まったくあの使えない研究チームは何をしてたわけ? 思考回路を簡略化した小さい国を外交モデルとして作れないか、っていう注文で、どうしてアレができるんだろうねぇ。脳みそ入ってるのかな。しかも? イギリスから始めてみたら、彼の思考回路があまりに複雑すぎて、彼一人のモデルを作るので開発費全部注ぎこんじゃいましただよ、ああもう、あいつら全員コルホーズ行きだよねぇ」
「まぁそう言うな。ソビエト随一の学者たちを集めた研究チームだぞ。彼らがいなくなっては今後の作戦にも支障が出る」
「わかってるよ」
「しかし、あんな怪しげなものをよくアメリカは持ち帰ったな? 隠しカメラでも盗聴器でも、仕掛けておいたらよかったんじゃないか?」
「デタントデタント、って言ったら簡単に信用したよ。ま、イギリスのこととなると彼は他のことはどうでもよくなるみたいだからね。」
 楽しみだなぁ、とひとりごちる。
 これから何か、面白いことが起きるような気がしていた。



「おい、アメリカ。このあと時間あるか? 少し――」
「悪い、イギリス! 俺用事あるから帰らなきゃ! またね!」
 アメリカはイギリスの顔を見もしないで、さっさと荷物をまとめ、コートを小脇に抱えると、イスを会議机に押し込むこともなくさっさと部屋を出て行ってしまった。
 最近やけに、アメリカは付き合いが悪い。
 前はもっと、嫌そうな態度は取ったけれども、イギリスが誘えば三回に一度は付き合ってくれたものだったのに。
 もう断られたのは五回目だ。
「またフラれてんの? お前」
 いつも通りからかってくるフランスの声音にも、そろそろ同情が混じり始めた。
「フラれたとか言うなよ! 俺はあいつと、仕事の話がしたかっただけなんだからな!」
 それを口実に久しぶりに話がしたかったというのもあるが、今回は本当に仕事の話もあった。
 困ったな、と思う。
「しかし、あいつ最近ホント何やってんだろうな。お前だけじゃないぜ、日本の誘いだって断ってやんの、あいつ」
「日本の?」
 イギリスであれば、人当たりのいい日本の誘いを断るのは少し後ろめたい気がするのだが、アメリカは基本的に人に気を遣うなどということができない、自己本位な性格だ。都合が悪かったり気分が乗らなかったりすれば、日本の誘いであろうと遠慮なく断る。
 だからそれは別段変わったことではないのだけれど、「何か引っかかるよな」とフランスがしんみり言ったので、イギリスまで不安になった。
「何か危ない武器でも開発してんのかよ、あのバカ……」
 せっかくロシアとの関係が友好的な方向に傾き始めたというのに。イギリスは胸に一抹の不安を覚える。
「さもありなん、だな……」
 フランスもやれやれ、といった口調だ。
 もうずいぶん大きくなったのだと言っても、イギリスから見ればアメリカはまだまだ世話の焼ける弟分なのだ。どうしても放っておけない。
 心の晴れないイギリスを励ますように、フランスは急に笑顔になった。
「ま、単にいい女でもできただけかもな!」
「ハァ?」
「わかるぜー。恋は盲目ってやつだ、他のことなんかどうでもよくなるんだよ!」
 気楽な口調に一気に肩の力が抜けたが、今度は別の意味で心やもやもやしてくる。
 国際情勢がこんなに大変な時に、何が女か。
 憤りの原因は、そんな堅苦しいものだけではない気がした。
「ところでお前、昨日のあの件どうなったよ」
「だから、それを今話そうとしたら、あいつに帰られたんだっつーの」
「はー? おいおい頼むよー、アメリカがいなきゃ話になんねーじゃん」
「いいよ、今度で」
 もう帰ろう、とカバンを掴んだイギリスを、フランスは引き留める。
「よくない。もうお前、アメリカの家に押しかけてこい」
「やだよ!」
 絶対に嫌だ。
 イギリスは全力で首を振った。
「なんで。今更遠慮する仲でもないだろ?」
「だ、だって……」
 思わず口ごもってしまう。
「だって何! お兄さんに話してごらん!」
「だって、嫌だろ……」
 何が、とフランスはしつこい。
 ――ああもう、わかれバカ。
 赤面している自分が悲しい。
「その……女と逢ってる最中とか、だったら……やだろ……」
 フランスは一瞬固まったあと、ブフーッと思い切り噴き出した。
「汚ぇな! ツバ飛ばすなばか!」
「あははははっ、だってぶふふっ、ヒィヒィ……」
 腹を押さえて、本気で苦しがっているのが憎らしい。
 何がそんなにおかしいのかわからない。
「あー……そしたら『アメリカのバカ!』ってビンタ張って帰ってこればいいだろ……くくく……」
「意味わかんねぇよッ! そんなの、男盗られた女みたいじゃねぇか!」



「ごめんねイギリス、遅くなって……」
 庭に増設した簡易住宅の鍵穴に鍵を差し込み、ドアを開けると、玄関の前には毛布の塊が鎮座していた。
 アメリカは迷わずその塊をぎゅっと抱きしめる。
 びくり、と毛布が動いた。
「イギリス、ただいま」
 するすると毛布の中から顔を出した幼子は、若干目を逸らしながら、聞こえるか聞こえないかという、小さな声で言った。
「お、おかえり……」
「ごめんね、会議が長くなっちゃって。寂しかっただろう?」
「さびしくなんかねーよ!」
 威勢よく答えた子供はしかし、アメリカの服を掴んで離そうとはしない。
 ああ、ここまで懐かせるのは大変だった。
 アメリカは嬉しくて子供の髪に鼻先をうずめる。
 そう、この子供こそ、アメリカがロシアより借り受けた、科学の粋を集めた最新鋭の政治システム、かつてのイギリスに対する「外交モデル」なのである。
 始めは怯えきって、一歩でも近づこうものなら舌を噛み切って死にそうだった子供に、優しい言葉をかけ笑顔を振りまいて、カラフルなお菓子を与え、ようやく傍に寄れるようになった。
 しかし触ることは許してもらえなくて、少しでも体が触れれば、噛みつかれ引っ掻かれた。
 転機が訪れたのはわずか三日前、ロシアから帰ってきて、実に二週間が経過していた。
 階段から「外交モデル」である彼が落ちたのだ。
 二、三段転げ落ちたところで、偶然下にいたアメリカが彼を抱きとめた。よほど怖かったのか彼は大泣きして、アメリカは彼の気が静まるまでずっと抱きしめて優しい声をかけ、背中をさすってやっていた。
 その日からだ、こんなふうに抱きしめても攻撃されなくなったのは。
 子供の肌はやわらかく、いい匂いがした。
 その日から、というわけでもなくこれはもうずっと前からだったが、イギリスに似たかわいらしい子供に逢うのが嬉しくて嬉しくて、アメリカは庭に増設した彼のためのこの簡易住宅に閉じこもりっぱなしだった。仕事があれば出かけるが、それさえなければ時間の許す限り彼の傍にいた。
「イギリス、お茶にしようか」
 ひょい、と小さな体を抱き抱えてキッチンへ向かう。
 ティーバックの紅茶を淹れて、クッキーの袋を開ける。
 ふーふーと無心に紅茶を冷ます行動がかわいくてたまらない。
「イギリス、俺のこと好きかい?」
 口についた食べかすを拭ってやりながら訊くと、彼は一瞬きょとんとして、すぐに真っ赤になった。
「……きらい、じゃ、ない……かも、な」
「なんだい、それ」
 くすくす笑ってこちらを向かせようとしたけれど、逃げられてしまう。
「どうして俺が好きなの?」
 照れる彼がかわいらしくて、つい調子に乗ってしまう。
「……や、やさしい、から」
 けれど返ってきた答えは、どことなく物足りない。
 考えてみれば当たり前だ。この小さなイギリスは、アメリカを育てアメリカが裏切り、アメリカとケンカばかりしてきたイギリスではないのだ。ただ孤独を舐め力一つで世界を渡った、ヨーロッパの端に位置する島国にすぎない。
 そんな彼にアメリカへの特別な感情を期待するなど、間違っている。
「そう」
 よほどがっかりした声を出したのだろうか、彼は隠れていた物陰から慌てて飛び出してくると、「アメリカ?」と心配そうに見上げてくる。
 アメリカはしゃがみ込んで、子供の金髪を梳いた。子供特有の、やわらかく細い髪。
「キスしてもいいかい?」
「い、いい……ぞ」
 ためらいながらもこくりと頷いた子供に、言い様のない高揚感を覚えるのもまた、真実だというのに。
「イギリスは、素直でいい子だね」
 言うと同時に「イギリスは、素直じゃないね」と、この場にいない誰かを想った。
「いい子?」
「うん」
「あ、アメリカ……も、俺のこと……その、す……」
 恥ずかしそうに言い淀んだ子供の言葉を遮るように、頼りない肩を掴んだ。
「好きだよ」
 ちゅっと唇を合わせる。
 本当はそのまま離れる予定だったのだが、急にやるせない気持ちになって、ふと胸の奥に湧き上がった凶暴な気持ちのままに、そのまま小さな唇を割って舌をねじ込む。
「……んっ!」
 彼はびっくりしたような声を上げたけれど、顔を真っ赤にして、ふるふると震えながら、されるがままに目を閉じている。
 ――俺は、いったい何をしているんだろうな。
 そっと口を離すと、ごくりと口内に溜まった唾液を嚥下して、泣きそうな顔で荒い息を繰り返すいたいけな子供を見つめた。アメリカにとっては何でもない時間でも、小さな子供には相当息苦しかったに違いない。
 はぁ、はぁ、と熱っぽい息を上げて、彼は頬を撫でるアメリカの手に身じろぐ。
「ァ、アメリカ?」
 ぼんやりと、自分でないところを見つめるアメリカに不安になったかのように、子供はぎゅっとアメリカのシャツを掴んだ。それでアメリカも我に返る。
「なんだい、イギリス」
 こんなに可愛い、愛しい人の前で、別の人のことを考えるなど、どうかしていた。
「なんでもない」
 彼が寂しそうに言ったそのとき、コンコン、と控え目にドアがノックされる音がした。
 アメリカは、子供に「二階にいてね。降りてきちゃだめだぞ」と言い聞かせると、そっと玄関の扉を開いた。
 そこにいたのは、先ほどまで見ていた顔、しかしながらずいぶん成長した、大人のものだった。
「……よぉ」
「イギリス」
 つい今しがたキスを交わした相手とのあまりのギャップに、アメリカは瞬きを繰り返す。
 憮然とした、機嫌の悪そうな声で、全身から「早く帰りたい」という感情が滲み出ているかのようだ。一体何しに来たんだろう。
「あっち、誰もいないみたいだったから……。こんな家、いつ建てたんだよ。何に使ってんだ?」
 あっち、とは、庭の向こうのアメリカの本宅を指すのだろう。
 参ったな、とアメリカは思う。
 こんな風に誰かが訪ねてくる可能性を、まったく失念していた自分が悪かったけれど。
 なんのためにこんな家を建てたのかと問われても、説得力のある言い訳が思いつかなかった。
 正直に話す気などは、ない。それはロシアに悪いという理由もあったけれど、それ以上に後ろめたかったからだ。小さなイギリス――それだってただの「モデル」で、決して本物なんかではない、無機的で単純な――をこんな風に囲って毎日夢中だなんて、誰にも知られたくなかった。特に目の前で恐る恐る自分を見上げてくる、本物のイギリスには。
「どうしたんだよ、この家」
 イギリスは繰り返す。
「あ、いや……」
 それを訊くのは正常な思考回路を持つ者として致し方のないことだが、正直もう少し後にしてほしかった。まだ満足な言い訳を思いついていない。
 イギリスは訝しむようにひょいと家の中を覗き込み、そこに散らばった、子供用の衣服やおもちゃ――すべてアメリカが可愛い子供のために買い与えたものだ――を見て、目をいっぱいに見開いた。
「お、お前……」
 イギリスはわなわなと唇を震わせて、潤んだ瞳をこちらに向けた。 
「……み、見そこなったよバカッ!」
 アメリカはイギリスが怒鳴った勢いに思わず圧倒され、上半身をわずかに反らす。
「は? 何の話だい?」
 まさかこれだけでバレたのだろうか。なんてことだ。
 アメリカの心臓は跳ねあがった。イギリスはものすごい剣幕で続ける。
「ま、まさかお前、女遊びの果てに子供孕ませて、責任取ってよとでも言われたのか! この恥知らず! 普段あれだけ人にエロいエロい言いやがって、自分はどうなんだよ! このばかばかばか!」
 ばかばかばか、に合わせてイギリスが殴りかかってくる。
「はぁ?」
 ――女遊び? 孕ませた?
 一気に体中の緊張が解けた。
 どうやらとんでもない勘違いをされているようだ。「外交モデル」の存在を知られたくないアメリカにとっては好都合でもあるのだが、なんだか釈然としない。
 このまま誤解されたままでよいものだろうか。
「ま、待ってくれよ、違うんだって」
 思った頃には、口が勝手に否定の言葉を吐いていた。
「何が違うんだよ!」
「し、親戚の子を預かってるだけなんだ!」
 我ながらいい言い訳だと思ったのだが、一蹴された。
「お前に親戚なんかいるかボケェ!」
「あ、違う、間違えた! 友達の親戚の子をだな……」
 イギリスは潤んだ目で鋭く睨んでくる。
「もういい」
 お前がこんなサイテーな男だった上に、そんなお粗末な言い訳しかできないとはな、と吐き捨てられて、アメリカはカァッと頭に血が昇るのを感じた。
「だから違うって言ってるだろ! すぐそういうことに結びつけようとする、君の方がサイテーなんじゃないのかい!」
 荒ぶる気持ちのままに、イギリスを玄関ポーチに押し倒した。
「い……っ、痛ぇな! 離せよボケ!」
 暴れるイギリスを押さえつけて、強引に口づけようとしたその時、ジリリリリリ、ジリリリリリ、とすぐ脇の靴箱の上からベル音が響いて、アメリカはハッと身を起こした。
 電話だ。もともと本宅の方にあったものを、このところずっとこちらに入り浸っていたものだから、面倒になってこちらに移したのだった。
「……はい」
 気まずい思いで身を起こすイギリスから目を逸らしながら、アメリカは電話を取る。受話器の向こうから聞こえてきたのは上司の声だった。
『ロシアがお前と話したいと言ってる。つなぐぞ』
「ロシア?」
 その名を出せば、それまで泣きそうな顔をして汚れをはたいていたイギリスの顔がこちらを向く。
『やあ、アメリカくん。あの子の様子が気になってね。どうだい? 役に立ってる?』
「ああ……すごく、元気にしてるよ。いい子だし……」
『そっかぁ。気に入ってもらえたみたいでよかったよ。返すのはいつでもいいから』
 アメリカは受話器を握りしめ、少しの間、押し黙る。
 ちらり、とイギリスを見ると、翠の瞳とぶつかった。
「……いや、やっぱり時代遅れみたいだから、役には立たないな。今度返すよ」
『……そう?』
「ああ。ありがとう」
 ガチャン、と受話器を置く。
 それを見て、イギリスが気まずそうに口を開いた。
「……わ、悪かった、な」
「何が?」
 むしろ謝らなければいけないのはこちらの方だ。激情にまかせて乱暴なことをした。未遂だけれど。
「ロシアから預かった子だったのか?」
 初めはイギリスが何を言っているのかわからなかったが、すぐに合点がいく。今の会話のアメリカが発言した部分だけを聞けば、確かにそういう解釈も成り立つだろう。アメリカは迷い、頷いた。
「え? あ、ああ……うん……」
「そうか……」
 イギリスは安心したように顔をほころばせた。
「あ、お前に子供の世話なんかできるのか? ちょっと見せてみろよ」
 アメリカが戸惑っている間に、そんなことを言ってイギリスが入ってこようとするから、アメリカは慌ててその肩を掴んだ。
「待っ……!」
 強引に振り向かせた顔が真っ赤に染まったのを見て、そのあと続けるはずだったセリフをすっかり忘れてしまう。
「な、んだよ、急に……」
 触るなよ、と小さく呟かれた言葉に、アメリカの方まで赤面してしまった。
「俺のこと好きかい?」
 思わず口をついて出た質問に、イギリスは目を見開いた。
「なっ、何言ってんだバカァ!」
 俺だって何言ってるんだ俺、と思ったよ、と言う暇もなく、テキサスが宙を舞う。
 グーでアメリカの顔面を殴ったあと、イギリスは目にも止まらぬ速さで駆けだして行ってしまった。
 残されたアメリカは、ずるずるとその場に座り込む。
「うん。やっぱり、イギリスはこうでないとな……」
 バカなことを、考えた。
 ――舞い上がってこんな家まで建てて、バカじゃないのか。反省しよう。
 けれどもこの二週間と少し、楽しかったのも真実だ。
「……結局イギリスの奴、何しに来たんだろう」
















 題名は「甘い生活」にするか「セカンドハウス」にするか一瞬だけ迷いました(爆)。いや、電車に乗ってる時間が長いと吊り広告を隅から隅まで読んでしまうものです……。

 肝心のリク部分に比して導入部分が長すぎるような気がしますが、ノリノリだったんだからしょうがない(え)。いやもうほんとごめんなさいorz
 ただ米と露の絡みも案外楽しいなーと今回感じました。萌、じゃなくて楽しい。
 二人のプライドとプライドを懸けた水面下の攻防、みたいなの言うんですか、楽しすぎます。
 ただ、そんなフレッシュなおロシア様が見られるのは少し時代を遡らなきゃなんで、このお話もそんな時代設定でお願いします。
 そういえばロシア専門の先生がおロシア様についてすごく萌え〜な表現をしていらっしゃった。全部書くといろいろ問題だと思うので一部にしますが、「天使のような善良さと悪魔のような残忍さ。こまやかな神経と、ケタ外れな粗暴さ……極端な自己否定がある一方で我執を主張して恥じない……」そうした二面性を持ち、不気味な矛盾を抱えるのがロシアだ、と言うのです!! ああもうまさに私のロシア様のイメージそんな感じ!

 すいません、頼まれてもいないのにロシア様が出張って、あげくロシア様語りを始めた管理人ですが何か……問題は、あります、よね……orz

 うちのアメリカはショタだったんですか(大問題)。もっとこう、純粋な気持ちでかわいがってあげればいいのにこの変態さんめ! でもイギイギのこと大好きだからしょうがn……(略)。
 ちなみにこの子イギは電池が切れると止まります(テキトーだな……)。
 電池はあそこの穴から入れ……なんでもないですよっ! プロレス技の練習台にするのはやめてぇえ!

 アホですみません、こころ★様、リクエストありがとうございました!


(2007/10/20)



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