ふとした瞬間に、怖くなることがある。 この世界に沈殿する悠久の歴史。 俺の数直線上の、フェードアウトしていく遥か遥か左側の部分。 暗闇の中のようでひどく空虚なのに、君にとっては鮮やかな時間。 君と、そしてあいつにとってもだ。 C'est la vie 羅針盤もない時代のことを知っている? 海に出るのはとても怖い。陸を見失えば最後。それでもドーバー海峡にいると自信が持てる間は、まだ大丈夫。星を頼りに誰もが祈り、霞の向こうにうっすら稜線が見えて、そうして神に感謝するのさ。 いつだってそんな命懸けのやりとりを、俺たちはしていたんだ。 「……てよ!」 羅針盤どころか衛星モニタに自動航行システム、それでも少し強い波を受けて時折揺れる船内で、俺は目を覚ました。 「起きてよ、イギリス!」 肌に当たる潮風が少し冷たい。いつの間にか、デッキのテーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。のんきにアロハシャツを羽織った水着姿のアメリカが、夕日をバックにこちらを睨んでいる。 「……んだよ、寝かせろよ」 デッキのプールで泳いでいたらしい。 一人で楽しく泳いでいたなら、そのまま一人で遊んでいればいいものを。 小さい頃はかわいいだけだったワガママも、あの年になってやられると、虫の居所によっては気分も悪い。 「せっかくクルージングに招待してあげてるのに、なんで君は寝てばっかりなんだい」 少し濡れたビーチボールをぶつけられて、カチンときた。 今のでシャツが少し濡れたじゃないか。 「仕事で疲れてんだよ! いきなり呼びつけといてなんだ!」 アメリカは少し考えるようにして、とぼとぼとプールサイドに戻っていく。ああ、ようやく諦めたらしい。これでまた仮眠が取れ……。 ばしゃ。 「……アメリカッ!」 「ほーら、水も滴るいい男だぞー」 ハハハハッと笑う姿が小憎らしくて、思わず本気で追いかけていたら、シャツはびしょびしょになって使い物にならなくなってしまったから、一気に脱ぎ捨てた。 プールの中に避難したアメリカが、浮き輪につかまりながら笑っている。 くそ、ズボンまで濡れてら。 「いっそ全部脱いじゃったらどうだい? 君得意だろ?」 「何がだ!」 まぁアメリカ相手に何を恥ずかしがる必要もない、下着姿になって、ざばんとプールに飛び込んだ。 アメリカの挑発に乗って水の中で追いかけっこしたり、水をかけあったりしていると、ふいにプールサイドのベンチでアメリカ国歌が響いた。 「あ、電話だ」 あっけなく俺を打ち捨てたアメリカは、タオルで水滴を拭いながら、ベンチへと向かう。 プールの中に一人残されて、俺はいい歳して何やってるんだと今更ながら思った。 でもタオルもない俺は、今上がったら寒いだろうな、と、とりあえずアメリカの電話が終わるまで水の中で待つことにした。 「もしもし。ああ、ジェニー?」 電話に出たアメリカは、俺のことなんか忘れた顔で、楽しそうにそのままベンチに腰かけてしまう。 「今? 西海岸でクルージングさ。え、君も西海岸にいるの? じゃあ来るかい? いいっていいって、辛気臭い仕事仲間しかいなくてさ、華が欲しかったところなんだ」 は? 辛気臭い仕事仲間しかいなくてって……お前が呼んだんだろうがぁああああ! そんな風に思ってるんだったら呼ばなきゃいいのに、それともなんだ、いろんな女に断られ続けて、しょうがないから最終手段で俺を呼んだってことか? 冗談じゃねぇ。 わざわざ西海岸なんかに呼び出しやがって、東より来るの時間かかるんだからな! 「これからナイトクルージングってことでさ。もちろん! 一等船室を用意するよ」 仕事で疲れてるってのに労わってもくれないし……。 あげく、何女連れ込んで自分だけよろしくやろうとしてんだ! もう頭にきた。 いつもながら、俺って軽んじられてるよなぁ……。 ざばっと体を自ら引き上げると、もうすっかり日が隠れた船上は、嘲笑うかのように寒々しい。 身震いを一つして、散らばった服を拾い上げながら船室へと向かう。シャワーを浴びて、さっさと寝よう。 コイツとええと……なんとかいう女の睦言なんて聞きたくもないし。 「え? なんだそうなのかい……参ったなぁ! ハハハ! じゃあまたね!」 バンッ、と震えるほどに強くドアを閉めた俺は、大人げなかったんだと思う。 シャワー室で悶々と、日頃のアメリカの仕打ちについて考えて、仏頂面で出てきたところを、ちょうどあちらもシャワーを浴び終えたばかりらしい。Tシャツ短パンにタオルを引っかけたアメリカが、唇を尖らせてやってきた。 「なんだ、そんなところにいたのかい」 とりあえず気分が悪かったので無視した。 「君トロいから、また海にでも落ちたのかと思ったよ」 「もう俺は寝かせてもらうぞ」 冷たく言い放っても、こいつにはどこ吹く風なんだろうと思いながら、健気にも強がってしまう俺が本当に痛々しい。 が、意外にもアメリカは目を見開いて、戸惑ったようにする。 「え、もう?」 「疲れてるんだって言ったろ。それになんだ……その、誰か来るんだろっ」 「ああ、ジェニー? 彼女なら今ママのところにいるから、うるさくて出かけられやしないわーってさ」 へぇ……と気のない返事しかできない。 嬉しそうに女との会話をリピートしてみせるコイツの能天気な顔が本当に憎らしかった。 「残念だった? 女の子がいなくて。君って本当にスケベだね」 ああもうっ、どうしてコイツは、的外れなことばっかり言って俺をイライラさせるんだ。 「とにかくもう寝るからな! 明日の朝には発つし!」 「え? 何言ってるんだい、ナイトクルージングはこれからじゃないか。君が好きそうなウイスキーも用意したからさ……」 「ふざけんな! 寝る」 鼻先で船室のドアを閉めてやった。おまけにガチャリとカギまでかける。 だが今日のアメリカはずいぶんしつこい。 「ちょっとイギリス!」 だなんてドア越しに呼ばわっては、ドンドンと扉を叩く。 始めは完全無視を決め込んでいた俺も、そのうちこのドア壊れるんじゃねーかと不安になったので、しょうがなく開けてやる。 と。 「ああよかった。中で君、過労死でもしたのかと思ったよ!」 とりあえず一発殴っておいた。 テキサスが華麗に宙を舞った。 ナイトクルージングっつったって、コイツの出す食事だ、あまり期待はしていない。 それでも星空はきれいだった。 ふと視線を下げて、落ちたら最後、何もかもを呑みこんで決して帰さないとでもいうように、真っ黒に横たわる海を見て、少し身震いがした。 ああ、早く来ねぇかなアイツ。支度に何分かかってんだ。 昔から、正装の苦手なアメリカは、俺の二倍は支度に時間がかかる。そもそも二人だけの食事なんだから、そんなに気張ることはないだろうに。 それでも、「お待たせ!」と悪びれた風もなく現れたアメリカの凛々しい燕尾服姿に、俺は今までのイラだちをすっかり忘れてしまった。 俺が育てたあの小さなアメリカが、こんな……。 ガラにもなくドキドキしてしまう。 「に、似合ってんじゃねぇか」 「そうかな。実はこれプレゼントされたんだ。一回は着ないと申し訳ないだろ?」 盛り上がっていた気分が一気に冷めた。風もさっきより冷たく感じる。 「女か」 「君がモテないからって妬くなよ」 大人げない、という顔を向けられても困る。 「妬いてねぇよばかぁ!」 がちゃん、と食器が音を立てた。 二人で他愛無い会話をしながら、別段うまくもないディナーをつつく。 ふと気づいたようにアメリカが、肉をくわえながら軽い調子で言った。 「夜の海って真っ暗だねー。怖い怖い」 「……怖いよ、海は」 対する俺の返答があまりに暗かったので、アメリカはちょっとびっくりしたらしい。 しばらく瞬きして、そうして拗ねたように押し黙った。 「君ってさ……」 「なんだよ?」 「たまに俺の知らない顔す――」 アメリカの言を遮るかのように、俺の胸ポケットから喧しい電子音とバイブ音が響いた。 「あ、悪ぃ」 大したことのない相手だったら出なくてもいいかと思ったのだが、液晶画面に浮かんだのは「フランス」の文字。 「……忘れてた」 俺は頭を抱えた。 突然アメリカに「やあ、今暇かい? すぐに来てほしいんだけど!」と連絡をもらって舞い上がっていた俺は、フランス絡みの急ぎの仕事を抱えていたことをすっかり忘れていた。 ああ、これは……無視すると百年戦争が始まりそうだ。 「……も、もしもし?」 『……もしもしじゃないよねぇ、お坊ちゃん。今どこだ?』 あー、すごい怒ってる。どうしようか。 「い、今……西海岸……」 『なんだなんだぁ、ウェールズにでもおでかけかぁ……って違うだろうがぁああ! ロサンゼルスかっ! サンフランシスコかっ! 何やってんだお前はッ!』 「ろ、ロス……のそばというかなんというか。むしろ海の上? いや……本当に……済まなかった……。明日の朝には帰……」 『待ってられっかそんなん! もういい、俺が今からそっち行く! 待ってろよ!』 「え? 来んのかよっ」 『実は今、野暮用でカナダにいるんだよね』 「カナダぁ? お前だって似たようなもんだろうが!」 『ハァ? ふざけんなよ! テメェが連絡取れねぇからしょうがなく他の仕事を先にやってたんだろうが!』 「……すいませんでした」 『ったくこのお坊ちゃんはよぉ、アメリカのこととなるとすぐ大事なこと忘れんだからよぉ』 とにかく待ってろよ、とぶつくさ言いながら電話が切れる。 あーあ。 電話を握りしめたまま悄然とする俺に、憮然とした声がかかる。 「……フランス?」 見ればつまらなそうに頬杖をついているアメリカだ。 「あ、ああ。急ぎの仕事あるの俺忘れててさ……あいつ今カナダにいるんだって。で、こっち来るって……」 「へぇー、来るんだ」 「しょうがないだろ、仕事なんだから。食事中はちゃんと背筋伸ばせよ!」 「ハイハイうるさいなぁ」 それきりアメリカは無口になってしまって、俺はなんだかさっきよりも不味くなった気がする料理をひたすら咀嚼した。 仕事が控えているとなれば、酒を飲むこともできない。 ただ黒くさざめく海が、気分の盛り下がった俺たちを揺するだけだった。 すっかり夜も更けた丑三つ時、ドドドドドとエンジン音がして、俺は目覚めた。 「……ったく、三つも等時刻線またいじゃったじゃねぇか」 ガウンを羽織ってデッキに出れば、フランスが船を乗り移ってくるところだった。 「遅かったな。ケベックにでもいたのか?」 「なんでよりによって西海岸なんだよ、レジャー気分ですかコノヤロー! あげくクルージングたぁ、お邪魔しちゃったみたいですいませんねぇ……」 フランスの視線が俺の背後に刺さる。振り向けば、あくびをかみ殺したアメリカがいた。 「まったくだよ……せっかくいい気分で寝てたのにさ」 アメリカの訴えを無視して、フランスは自身を抱くように身震いする。 「あー、寒っ。夜の海なんて出るもんじゃねぇな。……ロクな思い出がない」 「……そうだな」 海を見据えて言う俺を、フランスは軽く小突いた。 「ってお前のせいだよコラ。今日のも、思い出のも」 「思い出云々のはお前のせいだろうが」 「そうだったかー? あー、マジ寒い。早く中入ろうぜ」 言うなりフランスは俺の肩を抱く。正直俺も寒かったから、邪険にする気にはなれなかった。 船室には、談話スペースと各個人用の部屋がある。 俺の肩を抱いたまま、背を押すようにして談話スペースを通り過ぎ、俺の部屋へ向かおうとするフランスを、アメリカが呼びとめた。 「仕事の話ならここですればいいじゃないか。コーヒーくらい淹れるけど?」 「バカだねぇ、お前。いくらお前がイギリス秘蔵のかわいこちゃんでも、国家機密ってもんがあんのよ。心配しなくても、二人でよろしくやっとくから、お前は寝てな。じゃあ、朝まで母ちゃん借りるぞ」 「悪いな、アメリカ」 俺の落ち度で夜中に叩き起こしてしまったことを素直に詫びて、俺は待ちうける仕事に頭を悩ませた。 個室のドアを入る瞬間、フランスが「寒ぃよー、紅茶淹れてくれよ」なんてのしかかってくるから、俺は思わず倒れそうになった。 「わっ、やめろばか!」 こんな時にでもふざける根性が憎らしい。俺はフランスを殴ってカギをかけた。 紅茶を淹れている間に、フランスがベッドに広げた書類相手にうんうん唸っている。 わざとゆっくり紅茶を淹れても、淹れ終わってしまえばお前も手伝えとばかりに睨まれて、結局二人で唸る羽目になる。 空も白む頃ようやく仕事が片付いて、俺は眠い目をこすってうーんと伸びをした。 「はぁ……どこの一夜漬けだよ、ほんと、もう二度とやりたくねー」 フランスがベッドに散らばった書類を片付けながらぼやく横で、俺は誘惑に耐えきれず、ベッドに横になった。 「ん……」 「おい……寝るの? 一緒に朝の便で帰ろうぜ」 「ムリ……」 「お前ねぇ……そんなかわいい顔して無防備に寝てると、お兄さんが食べちゃうよ?」 「んー……」 心地いい睡魔が襲ってきて、のしかかってくるフランスも何もかもがふわふわと夢心地だ。 頬を撫でる手も子守歌のよう。 途端ガチャガチャッ、バタン、という盛大な音がして、船室のドアが開いた。無理やり目をこじ開けて見やれば、俺にまたがるフランスの向こうに、カギ束を手に、目の下にうっすらクマを作ったアメリカがいた。 「イギリスッ! 空港まで送るよ! 車の中で寝ていいから! あとフランスは昨日君が連れてきたクルーザーの船長が呼んでるっ!」 何をそんなに慌てているのか、舌を噛みそうな勢いでガーッと言い募ったアメリカに、フランスはお手上げというようにため息をついた。 「お前……ひょっとして一晩中そこにいて聞き耳立ててたの?」 アメリカは、自分が女友達と楽しくやるのは全然許されると思ってるけど、イギリスには女だろうが男だろうが仕事だろうが、自分より優先するものがあってはいけないと無茶苦茶な独占欲を抱いてるといいなぁ……頑張れイギイギ! とりあえずイギイギ視点を通そうとしてしまったあたりで、リク内容から大きく外れだしたなーと反省しております……ごめんなさいッ!(またか!) クルージングは自分の憧れです。ゆんゆん様リクエストありがとうございましたv (2007/9/27)
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