The time hasn't come yet.



「だからどうにかするってばッ! うるさいな!」
 ダン、と机を叩いて激昂した俺を、上司は苦々しく見つめた。
「……アメリカ。もう、ヒーローなどと夢を見る時代は終わったのかもしれんな」
 何もかもわかったような口ぶりに、悔しさが込み上げる。
 そんなことはないと言ってやりたいのに、それでも、頭の奥から湧き上がるような熱に、もはやまっすぐ立っていることも難しかった。
「固定相場はやめる。……所詮お前も、数ある国の一つだったということだ」
 ぐらりと世界が揺れて、思わずその場に膝をつく。
「……くそ」
(だから言ったんだ、新しい世界通貨を作ろうって――)
 耳障りな声が頭を駆け巡る。
 うるさいうるさいうるさい。
(約束通り1ドルあたり1/35オンスだ。こんな紙切れいくらあったってしょうがねぇよ。金に代えてくれるって約束で、お前の条件を呑んだんだぞ。いい独立国なら、これくらいしっかりしろよ。なぁフランス?)
「黙れッ!」
 目の前に、呆れたとでも言わんばかりにため息をつくイギリスの姿が見えた気がして、がむしゃらに手を振り上げても、虚空を切るばかり。 
 悔しかった。
 俺は弱っている君たちを助けてやろうと少し見栄を切っただけだった。あわよくばこのまま世界のヒーローになれるのだとすら思った。
 世界の正義はすべて手中に収めたと、もはや神は自分を裏切らないと。
 なんて残酷な勘違い。
 些細な見栄はもはや取り返しのつかないところまできていて、あとはアメリカの内部を蝕み、自滅するのを待つだけ。
 そんなこと、そんなこと許さない。
 苦しい。
 頭がガンガンする。
 こんなに頭が熱いのに、体は芯から凍えるほどに寒い。
 ああ、こんな惨めな思いは、いったいいつぶりだろうかと、薄れゆく意識の中で思った。



 解熱剤をこれでもかと服用して(たぶん体に悪いから絶対にやってはいけないことだ)、ふらつく体に鞭打ってネクタイを締める。
 こんなになるまで我慢してただなんて、つくづく俺も立派な奴だ。
 長く立っていることはできないので、椅子に腰かけて痛む頭をもてあましていた。
 やがてイギリスが来て、フランスが来た。本来ならば俺が出向くところを、あいにくこの体調のために呼び出す形になったのだった。
「お前……聞いてたより酷いな。大丈夫なのかよ」
 同情するかのようなイギリスの声が忌々しい。
 こんな、こんなはずじゃなかったのに。
「お前最近ムリしすぎじゃないのか?」
 伸びてきたイギリスの手を振り払うように立ち上がった。
「君たちに心配される筋合いはないよ。悪いけど。で、御覧の通り調子があんまりよくないんだ。用件は手短に済ますよ」
「テメェ、呼びつけといてなんだその言い草……っ!」
 怒鳴りかけたイギリスを、まぁまぁ、とフランスが制している。
 仲のいいことで。誰のお蔭でそうしていられると思ってるんだ。
 俺は胸の中のどす黒い思いを反芻した。
 どさり、と再び椅子に身を預けると、口早に重要案件を告げる。もうこれ以上、彼らの顔を見ていることに耐えられそうになかった。さっさと用件は済ませて、帰ってもらうに限る。そうして生姜湯を飲んで温かいベッドで眠ろう。
「悪いけど、君たちとの約束は反故にさせてもらうことにするよ。今後、USドルは金と兌換できない」
「は?」
 翠の目をいっぱいに見開いたのはイギリスだ。
「今更何言ってんだよ、アメリカ」
 冗談だろ、とフランスが言うが早いか、イギリスはテーブルを乗り越えて俺の上に馬乗りになって、俺のネクタイを鷲掴んだ。
「テメェは俺たちに負債抱えてんだぞッ、それをこんな紙切れで支払ったつもりか!」
 ドスの利いた低い声。元海賊の育て親は、たまにこんな、俺の知らない顔をする。そんな時の彼は、決まって激怒しているのだった。
 胸倉掴まれても、睨み返すことしかできない。それが俺の、ちっぽけなプライド。
「ふざけんなよっ! USドルは金と同等の値打ちがあると偉そうに触れて回ったのはどこのどいつだこのガキが! それで今更、湯水のように金使ってもうありませんだァ? 世界をナメんのもいい加減にしろ! どこのタチの悪いガキの冗談だァ? テメェのしたことが、どれだけ重大なことかわかってんだろうな!」
「……ああ、そうだね……でもいいさ、このツケは、日本とドイツに払ってもらう……」
 財政支出がかさんだ自国の赤字経済とうらはらに、劇的な経済回復で黒字を見せている二国を思う。
「お前……はッ」
 ぎりり、と襟首をつかむイギリスの手に力が込められる。それがあまりに悔しかったから、敢えて余裕綽々に見えるように、軽薄な笑顔を浮かべてみせた。
「見てみろよ……『奇跡の復興』だって、いい気なもんさ……誰が援助してやったと……!」
「アメリカ!」
 バチン、と頬を張る音が響いた。
「アメリカ……」
 なんで。
 なんで、殴った君が、そんなに痛そうな顔をするんだい。
 押し黙った俺、眉根をぎゅっと寄せて唇を噛み締める君。
「おい、イギリス。……帰ろう」
 俺の喉を食い破るんじゃないかというほどに凶暴な顔をして怒っていた君は、フランスに軽く肩を揺すぶられただけで悄然となって、そっと俺を解放した。
 正直、体中の血が逆流しているんじゃないかと思うほど異常に沸き立って波打って、本能が死の恐怖にどっと脂汗を噴き出していた。
 フランスに連れられてこの場を去った君の足音が、パタン、と閉まったドアの向こう側から聞こえなくなるまで、俺は軽く薄笑いを浮かべて天井を眺めていることしかできなかった。
 熱が上がった気がする。
 衝動のままに立ち上がれば、そのままふらついて壁に右肩を強打した。
「くそっ、くそっ!」
 力の入らない腕で、血が滲むまで壁を殴打し続けて、そうしてこのまま朽ち果ててしまえればいいのにと願った。

**

「ちょっとー、俺殴ってないぞー、あのガキ」
 俺の家のスコッチを勝手に開けながら、フランスが言う。普段なら怒鳴ってやめさせるところだが、もう今日は何もかもがどうでもいい。
「いいんだよ……俺が殴れば」
 殴ってしまった。
 アメリカを。俺のかわいいアメリカを。
「何拗ねてんだよ。むくれてもかわいくないぞ。今更殴ったこと後悔してんのか?」
「……うるせぇなっ、ほっとけよ!」
 もう何千回と言っただろう、図星を突かれて、こんな常套句しか口に出せない自分が本当に嫌いだ。
「まぁ、これが本来の姿なんだろうねぇ……俺らはちょっと先のことがあって弱っちゃってただけで、あいつはたまたま絶好調だっただけだろ? いつか終わりの来ることだったんだ。それが見えなかった俺らにも責任があるよなぁ」
 珍しく殊勝な顔でフランスがまじめぶったことを言ったので、俺もつい感情の箍が緩んだ。
「勘違い……させてた。俺……」
「はぁ?」
 至極間抜けな相槌を打たれても、一度開いてしまった栓はもう元には戻せない。
「すごく残酷なことだったのに……あいつにとっては、あいつが、一瞬でも、世界のヒーローだなんて、そんな残酷な夢を、みさせたら、いけなかったのに……嬉しくて、頼って……」
 言葉と同時に止め処なく溢れてくる涙。
 俺は、バカみたいに同じことを繰り返す、俺のこの涙腺も大嫌いだった。
「お前ねぇ……、そこで泣くくらいなら、アメリカのところで泣いてくれる? お兄さんにはどうしようもない」
 思考はぐるぐる繰り返す。
 俺のちっぽけな頭じゃ、アメリカを幸せにしてやれる名案など絞り出せそうもないのに。
「日本にしわ寄せがいくのに……あいつはそれでよしとするのか?」
 ぐちぐちと零した言葉は、思った以上に泣き言じみていて、自己嫌悪で涙と一緒に溶けてしまえそうだと思った。それでも、撤回するのは面倒くさいし、フランスの茶々も大したことなかったから、放っておく。
「ドイツは無視かい。お前って昔から日本好きな」
「……あんなこと言うやつだと思わなかった」
 自己中で、バカで、あげく逆ギレして。
 あんな奴でも、俺はこの愛情を捨てることができないでいる。
「誰にだって間違いはあるよ。許してくれるさ、日本も、ドイツも。あいつらは忍耐強いからな。こと経済に関しちゃ、いきあたりばったりのアメリカよりは強いだろうよ」
 なんて言いながら、フランスがスコッチの入ったグラスを俺に渡す。
 酒にまかせてグダグダに言いたいこと吐き散らすのも、時には必要だと思うけれど、まだそういう段階じゃない、俺は思って、フランスを睨んだ。
「……ムカつく」
「え、それ、俺?」
「そうだよっ! そんな理解ある大人ぶったことなんでサラッと言えんだよ! そんなこと……そんなこと、俺が一番にあいつに言ってやりたかったよ!」
 俺はまだまだ至らない国で。まだまだあいつのために、考えなきゃいけないことがいっぱいあるのに。
「それはほら、経験の差かな……」
 現状に満足した奴から、敗れ去っていくのみだ。

***

「ええと……困るんですけど……」
 イギリス、フランスの後に面会予定だった日本は、いつも通り予定時刻の10分前に俺の家を訪れて、イギリスの足跡がついたテーブルとか、乱れた俺のネクタイとか、腫れあがった俺の顔とか、血まみれになった壁とか手とか諸々に顔をしかめつつ、何でもなかったかのような挨拶のあと、俺の話を静かに受け止めた。
 あげく、えらく控え目な抗議だ。相変わらず彼は、何を考えているのかさっぱりわからない。
「ハハ……ッ、君にフラれたら、俺はもう行くところがないな……」
 君の弱気な態度に気を良くして、更に追随を仕掛けてみても、実は大して効果はないことももう学習済みなのだけれども。日本は態度に表れている以上に戸惑い、怒っているに違いないと、なんとなくここ数年の親しい付き合いでわかってきていた。
「お陰様で大変好景気ですので、その、国民の皆様もいくつか巨大プロジェクトを予定していまして、そこにそういうドカーンとした事態を起こされますと……」
「1ドル360円だなんてふざけたレートで、いつまでも世の中渡っていけると思ってるのかい?」
「アメリカさん……」
「円には投機が集中するだろうね……、金利は頭打ち、かわいそうに、インフレまっしぐらだ」
 自棄になった俺の暴言にも、大人な君は軽くため息をつくだけ。
「無駄づかいはよくないと、誰も教えてくださらなかったのですか」
 あまりに張り合いがない。
 こうも子ども扱いされると、子どもぶってみたくなるじゃないか。
 あんまり甘やかさないでくれよ。
 もう俺は自分の両足で歩いていくって決めたんだから。甘える味を、思い出させるのはやめてくれ。
「しょうがない時っていうのがあるよ。うん、まぁ、これからは控えるけど」
「……イギリスさんは怒ったでしょう」
 ずきずきと、頬が痛む。ついでに言えば血まみれになった手も、半端に血が乾いてきてパリパリと痛い。
「……どうして、君にまでイギリスの話を出されなきゃいけないのかな……」
 心底うんざりと、突き放すように言ったのに、意外にも君は目を細めて、同情を込めた目を向けるから、思わず居住まいを正してしまった。
「見ていて何かを思い出すんですよ。素直になれない、ひとたちの話……。自分から縁を切ったつもりでいても、この内には確かに残っているんです。幼い日の温もりとか、笑顔とか、教えてもらったいろんなこと」
 日本は自身の胸に手をあてがい、まっすぐ俺を見る。
「今度のことは、貸しですからね。――大丈夫。どうせこんな日が来るだろうと思っていました。今まで本当にありがとう。これであなたもただの国になり下がったからには、すぐに追い抜いてやるから覚悟なさい」
 凛々しく優しい言葉を吐いて、これのすべてが本心だなんて言ったらもちろん嘘なんだろうけれど。食えない国だ。俺はそれだけしか知らない。
「それから」
 まるで村の長老か何かのように、ゆったりとそれでいて威厳漂わせて言うこの国はすごい。イギリスとはまた違う、それでも双方とも俺を、精神的に包み込む何かだ。
「どうか、イギリスさんに、心配させてあげてください」
 ハハッと自嘲の笑みが漏れる。
 ずいぶんとおかしな言葉の使い方をする。させているのは俺か、イギリスか。
「心配どころか、殴られたよ」
「あなたがまた自棄でも起こしたんでしょう」
「うん……日本、君が生意気だって、言った……」
 半分本心で、半分は申し訳ないと思っている。
「私に言わせればあなたが生意気です」
 気にした風もなく君が言うから、許された気になった。
「うん……そうかもしれないな……」
「『かも』じゃないですよ、この若僧が!」
 バシ、と背中を叩かれた。熱で朦朧とする体には、ずいぶんと応えた。

****

 議場に向かう廊下の途中、見知った影が壁にもたれかかっているのが見えた。
「イギリス……」
 呼べば顔をこちらに巡らせて、気まずそうに逸らされる視線。あぁ、俺を待ってたんだなぁ。相変わらずこの人は、わかりやすくて助かる。
 君に殴られた顔はまだ腫れが引かなくて、そんな顔で無理して笑ったら、君は顔を歪めて、泣きそうになった。
「……もう、いいみたいじゃねぇか」
 これは顔のことではなく、体調のことを言っているのだろう。
「お陰様で」
「ったくテメェは、いつまで経っても、テメェのケツも自分で拭けねぇようなガキだな……っ!」
 背を向けて言う君の声は震えている。
「日本に……迷惑かけて……っ」
「うん、謝ってきた」
 正確には謝ってはいなかったかもしれない。まぁいいか、と思った。
「どうしてもっと早く言わねぇんだよ……俺、俺……変だと思ってたのに、お前から金せしめて……バカじゃねぇの……」
 あぁ、何をしにきたのかと思ったら、そんなことを言いに来たのか。
 俺を殴ったこと、結構応えてたらしい。
 いいのになぁ、そんなこと。
 やっぱり君を無条件で守れる大国には、まだまだ程遠かったみたいだ。
「君も苦しいだろうと思って」
「いきなり言うから、もっと苦しい事態に陥ってんだよバカァ!」
「うん……でも……」
 君を守れるくらいの大きな国になりたかったんだ、とは、もう口にする資格などない。けれど。
「また一から出直すさ」
 一緒に頑張ろう。
 言ったら飛び蹴りを食らった。
「俺のセリフだ!」
 お前には言われたくない、と言うことらしい。
 これはフランスの分、これはドイツの分、これは――とぼかすか拳骨まで食らって、もう満身創痍だ。あいててて、と泣く真似をしながら笑っていたら、本当に涙が出てきた。
 涙を拭って絨毯張りの廊下を行く。
「バカばっかりだ」
 議場に向かう足取りは重い。俺はそんな、重い重いことだらけの世界に生きている。
「……何度だって、尻拭いしてやるよ。慣れてるからな」
 そんな理不尽極まりない君の嘆きを、今はまだ、素直に聞く気にはなれないけど。

 いつかきっと、いつかきっと――。
















 経済の話は難しいですね……。たぶんお望みの方向には行ってないだろうなー、と思いつつ、自分の趣味の赴くままに突っ走ってしまいました……反省。でも、あれこれ考えるのすごく楽しかったです♪
 杉本様、リクエストありがとうございました! 珍しく詩的な文章書いたら頭が良くなったような気がしましたが、たぶんひとりよがりです!(要はわかりにk……! 本当にごめんなさい)


(2007/9/27)



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