「さてと、あいつら皆食堂に大集結だと思うけど。どうする? 行く?」
一階玄関口付近のロビー。今のところ、別の残像が見える気配はない。
「道理で昨日帰って来た時やけに静かだと思ったんだ」
普段なら誰かが必ずダベってる賑やかな寮なのに、昨日に限ってロビーやエレベーターですれ違う知り合いの数が少なすぎる気がした。それで余計に、なんだか、その、上司との浮かれ騒いだパーティの落差が浮き彫りになって、寂しい気がしたっけ。
「ははは、これで一通り見たら、お前も帰って、無事パーティの主役ができるじゃない」
もう完全にサプライズも何もない。いいけどさ。皆がこんな風に、せっかくの休みを潰して俺のために誕生日パーティの準備をしてくれてたってことを、真偽の程はわからないけど見せつけられて、なんだか胸の奥がじわじわあっためられてる気分。
「……それで俺が帰れるのはいいけど、君は?」
きっと学校は、俺に「これ」を知らせたかったんだ。誰も祝ってくれない、なんて心の奥底でどこか拗ねてた俺に。
今や目的は果たされた。俺は無事7月5日に戻って、素知らぬ顔で、皆が準備してくれたパーティに飛び込めばいい。
でもそれは俺の話だ。なぜフランスまでもが、俺と共に皆の「7月4日」をなぞり直さねばならなかったのか。
「俺?」
に、と青い瞳が細められる。普段はべらべら口が軽いくせに、なんなんだこのおっさんは。
じっと見ていると、「やーねぇお兄さんそんなに美形?」とかまた訳の分からないことを言い始めた。この人、本当悩みとかなさそうだな。
「……結局、君がどうしてここにいるのかわからないままだぞ。君だって昨日はあの中に混ざってわいわいやってたんじゃないの?」
「そうねぇ、やってたよ。おにーさん大分頑張ったんだからね! まぁ、本番まで秘密にしときたいことも色々あるけど、たぶん厨房に行けば俺がいるな」
「でも君は何かを『やり残して』ここにいる、んだろう?」
フランスはふざけるみたいにして唇を尖らせた。
「もーアメリカお前しつこいぞー。だいたいお前、お兄さんなんかにキョーミないだろ?」
「うーん、そう言われればそうなんだけどさ……」
どうしよう、このまま誘導に従って厨房を覗きに行くべきなのかな。でも、そうしたらなんだか、そのまま終わってしまいそうで。
「――おいヒゲ、どこ行くんだよ! 料理の仕込みはいいのか? あ痛っ……クソッ」
俺のセリフを遮ったのは、聞き慣れた怒鳴り声だった。
あまりに真に迫っていたので、思わず俺は振り返って視界に入った、身を屈め顔を歪めたあの人に「イギリス」と呼びかけそうになった。だがその目がちっとも俺の方を向かないことに違和感を感じ、その鋭い視線を追うと、果たしてその先にはフランスがいたのだった。いや、フランスなら俺の目の前にいる。じゃああれは、イギリスの視線の先にいるのは――昨日の。
「お前まさか、抜け駆けするつもりじゃねぇだろうなぁ」
「……何の話?」
へらりと笑った顔は相変わらず気に食わない。何が一番気に食わないって、その、はぐらかすような曖昧な物言いだ。
厨房に行ってみる前に、昨日のフランスに出会ってしまった。これは果たして俺の知りたかったこと――なぜフランスが「休みをやり直」し、ここにいるのか――を知るのに有益なのか否か。
「言ったよな? サプライズにするために、今日は絶対にあいつを祝わないってな」
イギリスは不審そうな目をぶしつけにフランスにぶつける。
それを受けるフランスは制服のジャケットとネクタイをとっぱらって、腕まくりした状態だった。長ったらしい髪は後ろでひとまとめにしている。彼の自供通り、それまで厨房で腕を振るっていたのだろう。
「同室のカナダでさえ、不自然に耐えてんだ。テメェが抜け駆けしたら全部パーだぞ、わかってんのか?」
フランスの記録とやらは、しばらく得体の知れない笑みを浮かべたまま、笑っていた。始めから見咎められるのをわかっていて、ここまで出てきた、そんな感じがした。
口には出さない、視線だけのやりとり。対峙し合う昨日のイギリスとフランスを、目の前の生身のフランスは、何の感情もうかがわせない表情で静かに見つめている。
そうだ、じっと静かに、この学校が見せるものをすべて受け入れる。それ以外にここから脱出する方法はないのだと彼は言っていた。何度もここへ来たことがあるというフランスには、一番いい方法が、もうわかっているのかもしれなかった。たとえ対面させられた半透明の幽霊もどきが、他ならぬ自分であったとしても、ぎゃあぎゃあ騒いで掻き消してしまうのは、得策でないと。
「……何でお兄さんがそんな訳わかんない抜け駆けしなきゃいけないのよ? だいたい、あの山積みの料理見たでしょ? あれ作ったのほとんどお兄さんだよ? ここでサプライズ崩したら、一番悔しいのお兄さんじゃないの! 抜け駆けしたいのはお前の方じゃないの? だからそんな目で人を見……と、悪い……」
イギリスが、他ならぬイギリスが、他人を出し抜いて一番に俺におめでとうと言いたいなんて、そんなはずがあるわけなかった。
昨日のフランスも、即座に失言に気づいたらしい。悪いけどこの件に関してイギリスを刺激するなんて面倒くさいこと、俺だってしたくないし、うまいフォローも浮かばない。
「謝んなよ気分悪ぃな! お前いっつもそうだろ。今日だけは俺が何も言ってやれないの知ってて……ちくしょう、お前いつもそうだ。あの日も俺の代わりに……。とにかくこの日に関しちゃ、お前やたら出しゃばるよな! 手助けしたのだって、俺の代わり、とか思ってたんじゃねぇの……」
「ああもう今日はその話はなし! お前、一緒にアメリカのこと祝いたいんだよな? 観念したんだよな、辛いこと思い出すのは覚悟の上で、腹括ったんだよな? どっちなんだよ、ぶち壊したいなら、外れてもらうけど」
相変わらずフランスの物言いは年上ぶっていて気に障る。けれど正論なのも確かなのだった。だからずるい。理論を弄するのはイギリスだって大の得意技のはずだったけれど、どうしてかこの人は、自分のプライベートに関してはその能力をうまく発揮できないらしかった。
「……ち。抜け駆けじゃなきゃ、じゃあ、どこ行くんだよ」
「休憩だよ休憩! 少し休ませてよ!」
舌打ちひとつで、先に白旗を振ったのはイギリスの方だった。
「……しゃーねぇなぁ、俺は体調最悪でちっとも手伝えなかったし、いいよ、その辺で紅茶でも奢ってやるよ」
「いや、手伝ってくれなくて、むしろありがたかった」
「何か言ったか?」
「いーえ、別に」
二人がわいわいといつもの調子で連れ立って行こうとした矢先、玄関ロビーの自動扉をくぐり抜けて、また新たに登場人物が追加された。
「ただいまーっ! ヒーローのお帰りだぞぉ!」
いつにないハイテンションで現れたのは他でもない昨日の俺で、俺は客観的第三者的立場から冷静に自分の立ち居振る舞いを見つめ直すという行為の決まり悪さをとくと味わうことになった。なるほど確かに、録画ビデオのようなものなんだろう。
「騒がしい声出すんじゃねぇよ、うるせぇな」
そうそう、いい気分で帰ってきたっていうのに、真っ先にイギリスに気分の悪い顔を向けられて、一気にテンションも下がったんだっけ。
「あれ? 君たち、こんな夜更けに外出かい? もうすぐ門限……」
「すぐ戻るよ、じゃあな」
それでも気を悪くせず友好的な声をかけてやった俺に対してフランスはあっさり手を振ると、仲良くイギリスと出て行ってしまった。「抜け駆けして祝辞を述べる」なんてのは、粋な計らいを好む彼らしさはあったが、どうにもやはりイギリスの過剰な妄想にすぎないようだった。
昨日の俺は、それまで二人が交わしていた会話など知るはずもなく、イヤな人たちに偶然会ってしまった、くらいの感覚で肩を竦めたのだった。
気を取り直して前を向いた俺は、そうそう、前方から歩いてくる日本たちに会ったんだ。
「……あ、日本」
いつも俺に甘い日本はイギリスやフランスと違って、誕生日の俺を温かく迎えてくれるはずだった。それなのに昨日に限って彼ときたら、がくりと頭を下げただけで。さっさと俺の横を通り過ぎて行ってしまったのだ。
「おや、こんばんは。おっと、すみません、急いでいるので」
「ヴェェエエ、日本、待ってぇええ」
皆して今日はなんだか忙しそうだ、なんて思った俺は、もう一度気を取り直した。
「……ま、いっか」
自分を鼓舞するためなのか、声に出ている独白が我ながら傍で聞いていて痛々しい。
「そうだよな、俺だって皆の誕生日なんか覚えてないし」
俺は隣に立っているはずの、さっき出て行ったフランスでなく、今日ずっと俺と休みをやり直してきたフランスを、直視することができなかった。
ああ、なんて恥ずかしい! まるで子供だ、こんなんじゃ。皆に祝ってもらえないと思いこんで拗ねて――そのためのサプライズなんだろうけど、でも。
「あ、でもカナダの誕生日にはハンバーガー分けてやったし、きっと……」
そのカナダはイギリス曰く、ある密約によって俺に「おめでとう」と声をかけ「抜け駆け」することはできない。そんなことも知らずに、俺は一縷の望みを兄弟で隣人、親友でルームメイトのカナダに託し、エレベーターへ向かう。
「……アメリカ」
独り言をまくしたてながら、ずんずん廊下を進む「俺」の姿に、フランスは声をかけた。幽霊じゃない、俺と同じ立場の、傍観者のフランスの方。もちろん「俺」には聞こえない。「俺」は振り返らない。
フランスは構わずに続けた。俺の心臓は知らず知らずのうちに、このまま破裂してしまうのではないかと心配になるほど騒いでいる。
「おめでとう」
俺が聞いてはいけないのだと俺はなんとなく知っていたから、俺は耳を塞いだ。でも間に合わなかった。「俺」はそのままぶつくさ言いながら、エレベーターに消えた。部屋で待つカナダは「俺」など見向きもせず、野球中継に耳を澄ませながら、おざなりに「おかえりー」と言う。上司とのパーティのことなどに触れもせず。俺は知っている。
「フランス、君がやり残したことって……」
シンとしたエレベーターホールを眺め続けていたフランスは、俺の言い淀んだセリフに顔を上げた。それまで「俺」の残滓ばかり追っていた宝石のような薄青の瞳がまっすぐ俺を捉え、すっと細まる。愛を囁くための彼の唇が動く。
*
「アメリカ! アメリカってば!」
どん、と控えめに俺の背を叩いた衝撃と、聞き覚えのありすぎるぼんやりのんびりした声に、俺は目をしばたいた。
眩しいほどの陽光は、大きく切り取られた教室の窓から燦々と降り注いでいる。がらんとした教室に味気なく並べられた机はどれも微妙にしかるべき座標からずれている。
「入口塞がないでよ! 何ぼーっとしてるの?」
「あ、あれ? カナダ? あれ? 俺いつの間に学校に――しかも今、昼? え? 今日って何日だ?」
「何意味わかんないこと言ってるんだい? 昼どころか朝だよ。今日は7月5日。寝ぼけてるのかい?」
ざわざわと、朝の学園特有の喧騒が、足下から、教室の壁から、空気を震わせて伝わってくる。怪訝そうな顔をしたカナダの背後を、ぱたぱたと走っていく影があった。
始業の鐘が、学園のシンボルの一つでもある時計塔から風に乗って生徒たちを急かす。まったくいつもと変わらぬ憂鬱な朝。月曜日。
ああ、俺は知ってる。この授業を終えて寮に帰ると、カナダが俺を部屋に引き止める。その間に皆は大ホールの準備を整え、それがすっかり終わった頃には、カナダにそっと連絡が入る。
連れ出されてドアを開ければ、そこには寮中のみんなが集まっていて、一斉に声を揃えて「ハッピーバースデイ!」とか「一日遅れでごめんな」とか、我先に俺にプレゼントを渡してくれる。
日本や中国の自己主張の激しすぎる飾りつけは目映く、場を盛り上げるためにロシアが言い出した一言にパーティはおおわらわ、まとまりもなく笑い声と歓声と怒声が朝まで続く。机の上にはフランスが腕を振るったケーキに料理が並んでいる。
俺が一人でいる隙を見計らってこっそり近づいてきたイギリスが顔をしかめながら、「おめでとう」となんとか吐き出せたら、それを見送ったフランスはやっと、あの時と同じ顔で微笑むだろう。
ひょっとしたら共犯者の笑みに、ウインクを添えて。
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