「今夜はお相手願えるかしら? ムッシュウ・ボヌフォア」
 大きなホールに控えた楽団は、ほんの少し前までは目の仇にしていたハプスブルクの坊ちゃんのところから招いたらしい。そういう意味じゃ、外交革命とやらもなかなか悪くない。ワルツの調べはゆったりと色とりどりのスカートを揺らし、俺の気分も音楽に合わせるように穏やかだった。
 たった今相手をしていた令嬢が疲れた様子だったので、ダンスを切り上げて隅に寄った。飲み物を手渡すと、赤い唇がにこやかに、そんな過激なセリフを吐く。
「ええ、何曲でも。マドモアゼル」
「いやだわ、ムッシュウったら。お分かりのくせに」
 美しい彼女には確か婚約者がいたはずだ。旧家の子息で、社交界はしばらくその話題で持ち切りだった。ところが当の彼女はそんな噂など意にも介さぬ風で「まだお会いしたこともないの」と可愛らしい唇を尖らせてみせた。
「結婚前の悪戯はほどほどになさらないと」
「今更だわ、私は貴方が思っているほど子供じゃなくてよ」
 つい先日まで社交界にデビューしたばかりの初々しい少女だったはずの彼女は、妖艶ともいうべき笑みで俺の目を情熱的に見つめる。そう来ないと。彼女が事あるごとに俺の隣にいたがったのは知っていた。色男はつらいね、と俺は湧き上がるいやらしい笑みを隠すために、ワイングラスに口をつける。
 初めての夜は、傲慢な貴族の若造相手よりも、俺のように海千山千のテクで優しくリードしてあげられる、経験豊富な色男の方が、かえって彼女のためかもしれない。なんて俺は手前勝手な理由をつけて、内心ほくそえんだ。今夜もいい夜になりそうだ。
「お父様が見ていらっしゃいますよ」
「父はあなたなら安心だと。けれど母や姉は、男の方は狼だって。どちらが本当かしら?」
「さあ? ご自身で、確かめてみますかマドモアゼル?」
 悪戯っぽく腰を抱いてホールの外へと促せば、彼女は口の中だけで、嬉しそうな悲鳴を上げた。うーん、男冥利に尽きる。心の中で婚約者とやらに詫びを入れて、俺は上機嫌で貴族たちのひしめくダンスホールを抜け出した。
 昼には勉強、サロンでの情報交換、議会での仕事、狩り、夜には飲んで遊んで踊って。月に一度、領地の農村を視察。食卓に並ぶ美酒美食、身を飾るきらびやかな衣裳には事欠かない。パリにある大きな屋敷は何十人もの使用人たちが毎日ぴかぴかに磨き上げる。ヴェルサイユの宮殿に与えられた小さいながらも快適な一室も、また然り。郊外の農村にある別荘もそう。宮廷にほど近い生活は優雅だった。ずっとこんな生活が続くのだろうと、俺はなんとなくそう思っていた。人間には生まれながらの役割がある。高貴な血筋、美しいものに満たされた生活。至高の芸術を継承し昇華することが、神に限りなく近い者たちの定め。そのために、この世は飽きもせず回り続け、俺に陶酔のため息をつかせるのだと。
 この時の俺はまだ知らなかったのだ。この狭く息苦しく湿っぽい、退廃的な箱庭の外に、もっと美しいものがあるのだと。それは、かつて想像したこともないような境地へと、日々刻一刻、歩みを進め続ける。繰り返し繰り返し同じ場所で同じダンスを飽きもせずに踊り続けていた俺たちは、なんて滑稽だったことだろう。この先にはまだ道がある。誰も見たことのない美しいものに、俺たちは辿りつける。いつかきっと。諦めずに進み続ければ、いつかきっと、もっと、もっと先へ。もっと素晴らしい世界が――そう語った、若く逞しい横顔。土と血にまみれた、職業軍人とは違う、つたない手つき。それでも。
「ムッシュウったら、何を考えてらっしゃるの?」
 気づけば目の前で、拗ねたように顔を寄せてくる美女。おっといけない、俺としたことが、目の前のマドモアゼルを退屈させるなんて。
「もちろん、あなたのことを」
 言って唇を重ねる。後の手順はもう、体になじんでしまっている。
 柄にもなく思考を飛ばしてしまったのは、新独立国の将校たちが、先日宮殿を訪れたからかもしれない。青い軍服にきりりと身を包んだ一隊のその中に、あいつもいた。戦場では共に行動することが多かったが、イギリスの奴が独立承認の動きを見せたところで俺は帰国したから、顔を見るのはそれぶりだった。ここ数十年のあいつの成長ぶりには、多くの国々の栄枯盛衰をこの目で見てきた俺にも、目を見張るものがあったが、こうして実際に正式な賓客として俺の宮殿を訪れた姿を見ると、また一段と感慨深い。あいつが俺の膝丈しかなかったような頃からずっと見てきた。そのせいもあるのかもしれない。
 寝たことに、大した意味はない。
 ムードが盛り上がれば自然とそうなる。俺はそういった自然の成り行きや感情の高ぶりを何よりも大切にする、愛の紳士だから。
 俺が植民地争奪戦に敗れてから、あの変態がさぞや色々仕込んでいることだろうと思っていたが、意外にもあいつのプレイは普通だった。外見相応に、かわいらしくつたない所作で必死に愛を伝えようとする、そんな感じ。イギリスの奴は、きっとそんな純な姿にメロメロだったんだろう。それで足下も見えなくなるなんて、バカな奴。アメリカがベッドの上で従順だったとするなら、それはひとえに奴の加護を必要としていたからだ。それを見誤って引き際もわきまえず、束縛の程度を超えた。
 結果が、史上類を見ない新国家の独立。
 国となったあいつに初めて対面したあの日、久しぶりだな、とか、道中どうだった、とか、よく頑張ったな、とか、見違えたよ、とか、年上のお節介焼きなお兄さんの気分で、あるいは独立戦を援助してやった戦友として、暖炉の前に陣取って二人語らった。国という同じ身分の者同士、気がねもなく。二人きりで、夜も更けて。気づけばだんだんと二人の距離は縮まっていて、アメリカの宝石のような瞳が、熱心に俺の横顔を見つめていることに気がついた。一瞬会話が途切れて無言になると、暖炉の火を反射してきらきら光るそれに引き込まれるようにして、そっと頬に手を当てていた。いつもなら、そんなおあつらえ向きの雰囲気など一瞬で消し飛ばしてしまう無神経な発言とともに幼い笑い声を上げるアメリカは、その時はなぜか空気を壊さなかった。緊張気味に眼を伏せたあと、意を決したように俺を見つめてくる。そこまで来たら、いつものように体が勝手に動くのに任せるだけだった。深く唇を合わせても、服の合わせを解いていっても、アメリカは抵抗しなかった。これはきっと彼なりの俺へのお礼のつもりなのかもしれないなんて適当な理由に納得して、俺は少しのためらいも感じることなく、小さな頃から知っていた彼をベッドに横たえた。
「フランシス、好きよ」
 掠れがちに囁かれた美しいソプラノで、俺は記憶の中の白く柔らかい肌から、目の前のむっちりとした魅力溢れる肌へと意識を戻した。答えるように唇を合わせて微笑む。
 ああ、俺も好きだ。
 すべての肉体あるものは、こうして愛を交わすことができる。なんて素晴らしい甘い夜。いったい何の咎があろう?
 誰と肌を重ねるのも、等しく素晴らしいことだ。





みんなで騒ぐのも楽しいけどさ……。



お前もいけない子だねぇ。



またいかがわしいことじゃないでしょうね。
まったくあなたはいつもいつも……。



イギリスさんは野蛮で粗暴だから関わり合いになっちゃダメだって、フランスさんはいつもバカにしてるよ。



この人は俺が何とかするから。邪魔して悪かったね。
じゃあ、……おやすみ。










愛してるよ、アメリカ




Copyright(c)神川ゆた All rights reserved.
http://yutakami.izakamakura.com/