俺は、生まれて初めて、宇宙人なるものを、見た。
「ひ……ぎゃあああああああああああっ!」
 まるでホラー映画の中のような腹の底からの悲鳴が自分の口から出ているものだと気づいたのは、ずりずりと尻を床に擦り付けながら後ずさっているのもどうやら自分の随意的な神経の運動によるらしいと気づいたのとほぼ同時だった。
 腰が抜ける、などとよく言うが、まず立ち上がろうという気にもなれない。脊髄反射のように、自由になる手足ががむしゃらに床を蹴って、その異形のモノと少しでも距離をあけようとする。
「ああああああ、ああ、あああああっ!」
 俺の喉は息が切れても、断続的に震えることをやめない。まるですべて出し尽くしたら、この恐怖体験が浄化されでもするかのように。
 そんな俺の一連の危険回避行動をすべて他人事のように自覚した頃、張り裂けそうな心臓の鼓動にも気づく。まるで飛び出してしまいそうなそれを慌てて押さえて、そこで初めて「怖い」という感情を思い出した。
 宇宙人。数十年前の怪しげな海外ドラマに出てくるような、いたって安っぽいフォルムのそれ。子供のような銀色の。それでも確かに頭部があり胴体があり四肢が伸びている。表面は妙にてらりとして、ともすれば液体のようにも見える。それから昆虫のようにぎょろりと大きな目。ひとにらみされただけで、どこか別の次元にでも引きずり込まれそうな。
「リトアニアっ?」
 そこへ初めて、捕食者と被捕食者以外の登場人物が、あまりにも唐突に乱入してきて、俺の頭はますます混乱した。
 小さな宇宙人の背後の、何の変哲もないドアがばたんと開き、顔を出したのはこれまた何の変哲もない青年だった。メガネの顔にブロンドの、たっぷり栄養の行き渡った体躯を持つ、年頃の青年。だいたい俺と同い年か、さもなくば年下だろうと思う。
「どうしたんだい、大きな声出して」
 青年は一通り部屋の中を見渡すと、まるで拍子抜けするみたいに眉を寄せた。先ほどドアを破った際には、いまにもエイリアンに襲われかけている俺を慌てて助けにきたヒーローみたいな顔をしていたくせに。
「トニー、君また何か彼にイタズラしただろう」
 青年はあっさり銀色の異種族の脇をすり抜けると、尻餅をついた形の俺に、Tシャツからぬっと伸びた精悍な腕を差し出した。
 英語を喋っている、ということは外国人なのだろう。それともここは外国で、すると外国人はむしろ自分ということになる。彼が部屋に飛び込んで来た際、なぜ俺の母国の名を叫んだのかはよくわからなかった。
「ああ、それは……おもちゃか、何か」
 力強く俺を引っ張り上げた青年の飄々とした様子に、俺は徐々に平静を取り戻しつつあった。考えてみれば、まず考えるべきはあの生物らしきものが単なる作り物であるという、もっとも陳腐な可能性だろう。
 俺は、みっともなく取り乱し絶叫したことを恥じ始めていた。
「それ?」
 安堵し胸をなで下ろす俺の視線の先を追って、青年は首を傾げた。
「どんなオモチャなんだい、トニー」
 わずかに腰を屈めて、咎め半分、好奇心半分といった様子で青年は眉を上げた。
「失敗、シタ」
 それに答えるようにどこからか響いてきたのは、壊れたラジオのような、耳障りな電子音のような、甲高い声。
「よくわからないけど、あんまりリトアニアを困らせないでくれよ、せっかく遊びに来てくれたのに」
 音の発生源をつかみかねてキョロキョロする俺を無視して、青年はあさっての方向に向け肩を竦める。
「反省シテル」
 グレイを模した人形の頭がわずかにうなだれたように見えた。まったくよくできている。この青年は実は映画関係者か何かなのだろう。だが一体どうして俺はここにいるんだったか。
 思い出せない。何も。
 ついさっきまで何をしていたとか、今日の朝何を食べただとか、俺の部屋のインテリアがどんなだったとか。
 思い出せない。何も。
 耳鳴りがして頭の奥がつんと痛む。
 そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、青年は何事もなかったかのように話を続ける。
「いまイギリスが例の兵器を焼いてるから、もうしばらくここでトニーと遊んでるといいぞ」
 兵器?
 それも映画のセットか何かか。
 青年の言葉は映画などでよく聞くアメリカ英語の代表的なイントネーションで、非常に聞き取りやすいが、ところどころ文法が間違っている。まず「UK」なる主語が「some weapons」を「bake」すること自体おかしいだろう。もしくは兵器ではなくてそういう名前のパンか何かなのかもしれない。そうしたらUKも「連合王国」の略称ではないのかも。
「いいっていいって。俺はヒーローだからな! 君の分まで闘ってきてやるんだぞ!」
 俺が何一つ疑念を差し挟む余地もないまま、青年は、それがまるで身を挺して地球に衝突寸前の隕石を爆破しに行くくらいの重責かつ栄光ででもあるかのように、ばちんとすごくいいウインクを一つ残し、あとには俺と、例の気持ちの悪い人形だけが残された。
 一人にされて、冷静にもう一度自分の置かれた状況を考え直してみる。
 年甲斐もなく、というか生まれて初めて生物的本能のもてる限りで絶叫をして取り乱してしまったが、その原因である宇宙人と思しき物体はどうやら作り物のようだ。ここまではいい。だが考えれば考えるほど、謎が深まっていく底知れない恐怖がじわりじわりと、脳の片隅に霞み始めていることには薄々気がついていた。
 まず、俺はいったい誰なのか?
 十代後半の何の変哲もない男子。ついでにいえばリトアニア人。以上。
 名前も住所も誕生日も思い出せない。ここはどこで、なぜここにいるのか、帰るべき場所はどこなのか、さっきの青年が知り合いなのかどうか。
 ジーンズのポケットを探ると、ぼろぼろにすり切れた黒い革財布とパスポートが出てくる。財布の中には数枚のユーロ紙幣とアメリカドル紙幣。クレジットカード、キャッシュカード。裏書きは「トーリス=ロリナイティス」。パスポートも同様で、ついでに言えばそのロリナイティス氏は御年19のようだった。有効期限まではまだまだある。新しく取ったばかりか、更新したばかりのパスポートなのだろう。出国入国スタンプはほとんどなく、アメリカの就労ビザが目に付く程度で、特に諸国を遍歴していたというわけでもなさそうだ。入国印のみで出国印がないから、ここはまだアメリカなのだろう。
 パスポートをあらためる視界の端で動くものがある。ふと視線を下ろすと、一メートルは先にあったはずのグレイの人形が、すぐ足下にあって俺は喉の奥でひきつった悲鳴を呑み込んだ。
「ゴメン……リト」
 銀色の小さな手が、俺のジーンズを掴んで、小首を傾げる。
「ひ、あ、うあ……」
 俺はえらく取り乱して、その小さな銀色の塊を必死に蹴飛ばした。だがそれは蹴られる前に、巧みに脚の後ろ側へ回り込んだようだった。
「うわ、わ、あ」
 こうなるといよいよ恐慌状態になって、とにかくその気持ちの悪い、動いて喋る人形を引きはがそうと、わけもわからずがむしゃらに手足を振った。体中の毛がぶわりと逆立っている。
「オレノコトモ、忘レタ?」
「うわあ、なんだよ、なんだよこれ……っ、人形じゃないのか……っ?」
 動いた。間違いない。
 人形でなかったそれは、俺のジーンズをやっと解放して、一歩離れた。異様に大きな目が無遠慮に俺を見上げる。
「リト、ゴメン。全部オレノセイダ」
 妙にエコーのかかる声。キンキンと響くそれは、まるで目の前の生物が語っているかのようで。俺は知らず知らずのうちに、自分が涙目になっているのを自覚した。
「なんなんだよっ! これはいったいなんなんだよ!」
 怒鳴りつけた。
 みっともなく、手に持っていたものすべてを投げつける。散らばるコイン、パスポート。トーリス=ロリナイティス。知らない、知らない。何も知らない。
 理不尽だこんなのは。胃の中がぐるぐるする。自分の拠り所を一瞬のうちにすべて失った絶望。
 俺はどこから来て、どこへ行けばいいのか。
「オ前ノ記憶、吸イ取ッテシマッタ」
「……記、憶……?」
 ようやく、俺はこの耳障りなハウリングが俺に向け語りかけられたもので、しかも深い反省の色を帯びたものだと気がついた。そして、俺の知りたい答えは今、あの至極マトモな眼鏡でブロンドの青年ではなく、この地球外生命体こそが与えてくれるのだということにも、不本意ながら。
 意志疎通が、できるのだろうか。会話の途中で頭から丸呑みされることもなく、いたって常識的に?
「本船ニ送ッテシマッタ。シバラク帰ッテ来ナイ」
「……何の話? 返って来ないって、それは、俺の記憶が……?」
「ソウダ」
 俺の疑問符に対し、それははっきり肯定の声を上げた。
 ああやはり、この禍々しい色の卑小な生物は、今まさに俺と意志疎通をしている!
「返ってこない……、どうして?」
「失敗シタ、本船ニ送ルツモリハナカッタ」
「本船? 返してもらえないの? 俺、今訳わからないんだけど」
 ぶるりと震えながら、恐る恐る視線を会話相手に投げた。相変わらず、てらりとした奇妙な表面だった。
「リト、オレノコトモ忘レタ、寂シイ。デモ、スグニハ戻ッテ来ナイ」
 俺が脱力のあまりしゃがみこんだのをいいことに、エイリアンはとてとてと体重を感じさせない動きで俺の傍までやってきたが、その触手じみた気味の悪い細い腕が持ち上げられたのを見て俺が喉の奥をひきつらせると、何を思ったのかそれを引っ込めた。
 まるで、俺が気味悪がって、触れられるのを厭うのがわかったみたいに。
「……君、は、宇宙人?」
 俺は少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていたが、それでも身の毛のよだつ感覚はなかなか消えない。
「違ウ、友達」
 奇妙な響きだ。信じていいものか、しばし迷った。
「友達? じゃあ、俺のこと知ってるの? 俺が誰で、どこに住んでるとか、さっきの人のこととか……」
「オ前、リトアニア。オレハ、トニー。アレハ、アメリカ」
「トニー……?」
 呼ぶと、嬉しそうに――目の錯覚かもしれない――頷いた。なんなんだ、自分の名前以外、全部国名じゃないか。大雑把すぎるにも程がある。何のアテにもならない。
「俺はトーリスっていうみたいだよ。そこに書いてある。写真も、俺でしょ」
 カーペットの上にに打ち捨てられたパスポートを指さすも、トニーは興味を示さなかった。
 宇宙には、きっとパスポートなんてないんだろう。
「君は、どこから来たの」
「ソレ、ナイショ」
「……俺の記憶は、いつ戻ってくるの」
「ココノ時間デ、『一年』クライ」
「一年……後……?」
 俺は俯いた。こんな奇妙な生き物の言うことを真に受けるなんてばかげている。けれど現に目の前にトニーがいて、俺と意志疎通をしていて、俺には一切合切の記憶がない。
「……疲れた」
 考えることの一切を放棄してしまうと、なんだかすごく楽になる気がした。俺はしばらく壁に体を預け、目を閉じた。シンプルな白い壁は、ひやりと冷たかった。トニーは相変わらず傍にいるようだったが、俺に危害を加える様子もない。ならばもうどうでもいい。
 耳を澄ますと、どこからか人の話し声が聞こえてくる。キンキンとエコーのかかった安っぽい音声でなく、きちんとした人間の、成人男性の低い声だ。それも何か言い争いをしているかのようで、時折興奮したように高くなる。 
 俺は意を決して立ち上がった。ドアを開けるとそこは、普通の民家の廊下だった。突き当たりの磨り硝子の向こうに、人影が見える。声はそこから聞こえているようだ。俺が歩き出すと、トニーもとことこと後をついてきた。宇宙人なんだったらもっと凄い移動方法がありそうなものだが、あくまでトニーは人間の子供のような動きをした。
「うるせーな、文句あるなら食うなよ!」
「俺が食べなかったら誰がこんなもの食べるんだい?」
「はぁ? だいたいなぁ、そもそもこれはリトアニアのために作ったんであって――お、ちょうどいいとこに」
 開けた先はリビングダイニングのようだった。テーブルを挟んで先ほどの青年ともう一人の男性が言い合いをしており、その男性が、俺を見てふと声色を変えた。彼もまた、見事なブロンドの持ち主だった。無造作なショートヘアのせいか、それとも細身な体躯のせいか、どこか幼く見えるが、声の感じからしてティーンということはないだろう。彼の英語は、眼鏡の青年に比べ、どこか響きが堅い。
「あの……」
 何から訊けばいいのかわからない。二人は俺がここにいることに、何の疑問も感じていないようだった。もちろん、その後ろのトニーにも。
 俺は二人を知らないが、二人は俺を知っている。何だか妙な気分だ。
「今、お前のためにスコーン焼いたんだ。コイツに食い尽くされる前に来てくれてよかった。アフタヌーンティーにしよう」
「見てくれよリトアニア、この人わざわざ自前のティーポットまで持参で! 嫌味ったらしいったらないよな!」
「バカ言え紳士の嗜みだっつーの! ……どうした、突っ立って」
 二人もさすがに違和感を抱いたらしい、きょとんと、俺が答えるのを待っている。
 俺は何をどう説明していいやらわからず、トニーに一瞥をくれたが、トニーは先ほどのように事情を説明する気はさらさらないようだった。





今回のこと、原因は君にあると聞いたけどね。これ以上、僕の靴下に手を出さないでくれるかなぁ



嫌だよ! 俺が責任持って、記憶が戻るまで一緒にいるって言ってるじゃないか!



「国」とはそもそも何なんですか? どうして俺たちみたいなのが存在するんです?



何が思い出せないん? あ、パルシュキの作り方とか? 俺でよければなんでも教えてやるから心配いらんよ!



なんだか、昔に戻ったみたいだよね、ポーランドさん



でも、僕たちには無理だね、あの御仁の付き人はね










ポーランドくん、君の粘り強さはこんなものじゃないでしょ? もっと頑張りなよ、僕を苦しめたときみたいに

もう大丈夫だぞ、ヒーローの俺が援護に回る!




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