世界W学園。
 学園と名はついても、ここでは何もかもが外の世界のそれとは異なっている。
 限られた資格ある者だけが入学する閉じた箱庭。いつ終わるとも知れない常春の楽園。精霊たちの狂宴のような毎日。良識も道徳も歪み、意味のある生は排除される。ここにはただ倦怠と、厭世と、諦めと、彫り傷だらけの机と、無意味な装飾と、古くさい遺物と、罪なほどの若さと、黴臭く分厚い書物だけがあった。
 古代ローマの宮殿を思わせる荘厳な列柱の連なる石の廊下に、気高き血を色濃く引く、学園でも有名な兄弟が二人、そのそっくりな頭を突き合わせてひそやかなため息を漏らしていた。兄をロヴィーノ・ヴァルガス、弟をフェリシアーノ・ヴァルガスといった。
「――寝返る?」
 不穏な単語を吐いて、ぴゃっと飛び上がったのは、色素の薄い肌に載せた眉をへにゃりと歪ませた弟の方だった。兄はすぐさまそのおしゃべりな片割れの口を塞ぎ、眉根を寄せる。鳶色の瞳に鋭い光を宿し、言い含めるように声を低めた。
「静かにしろカッツォ! 誰かに聞かれたらどうすんだ!」
「でも兄ちゃん……ロシア側に寝返るって……。そんなことしたら俺たち、イギリスに殺されちゃうよぉ……、こないだ調子乗って酷い目に遭ったばっかりなのに……。俺、もう二度とあんな無茶はしないって、ほとほと懲りたよ……」
「うっせ、バカヴェネチアーノ! 元はと言えばお前があんなジャガイモ野郎なんかと……! あんな奴にくっついて、わざわざイギリ……イギリス様にケンカ売ることなんかなかったんだ! お前は一人で一生イギリスの下でびくびくしてろ! こういうのはな、頭脳戦なんだよ! 時の趨勢を読んで、より有利な方についた奴が勝つんだ」
 学園を取り巻く勢力図には、目下二つの大きな派閥があった。かたや暴力的なスピードで拡大を続け、手の届くものすべてを飲みこまんと目論む覇者イヴァン・ブラギンスキ。かたや莫大な資金力と頭脳、よく回る舌で、気づけば要所要所に手下を増やし続けている、狡猾な切れ者、アーサー・カークランド。
 かといって、学園中がきれいに真っ二つに分かれていたわけではない。
 学園中の学生は、この無視のできない有力者二人の争いに巻き込まれ、日々どちらにつけばより有利か、という終わりのないテーゼに神経をすり減らさねばならなかった。
 それなりに実力のある生徒は、二人の間を巧みに渡り歩いた。ある時はイヴァンの強引さと得体の知れなさを嫌い、好意や忠誠心とはまったく無関係にアーサーと利害を共にし、逆にアーサーが欲張り過ぎれば、途端にイヴァン側に味方し牽制に入る。けれどそれも長くは続かない。
 そうした手のひらを返す真似ができるのは、彼ら――フランシス・ボヌフォアや、いまやアーサーをしのぐ存在感を示し始めたアルフレッド・F・ジョーンズ、最近落ち目ではあるが、ローデリヒ・エーデルシュタインや彼と組んだエリザベータ・ヘーデルヴァーリ、そしてもはやその支配力は無いに等しかったが、かつて配下に多くの魅力的な生徒を抱えていたサディク・アドナンなど――がそれだけの自己防衛力と、両勢力を均衡させ秩序を安定させるだけの重要度を持っていたからだった。
 少しでも隙を見せれば、牽制し合いながらもこちらを等分に切り取って行こうとする列強に、骨も残さず食い尽くされる。ここは、そういうところだった。
 だからこそ、つい最近ようやく兄弟相見え、手を取ることによってやっと、生徒総会でなんとか発言権を得ることができたようなヴァルガス兄弟などは、どちらにつくかを特に慎重に慎重を重ねて吟味すべきだった。
「ドイツの奴は頼りねーし、いつまでもあいつにくっついてる場合じゃねーぞ。俺たちがしっかりしねぇと。このままじゃ、あいつの下にいた他の奴みてーに、みんな強制的にロシアに持ってかれちまう。そうなる前に、俺たちはロシアに好意的なんです、ってとこを見せねぇと!」
「それならやっぱり、このままフランス兄ちゃんについていって、イギリスたちに守ってもらった方がいいよ! イギリス側にはアメリカもいるし……。あいつ最近すげーお金持ってるってみんな言ってるよ! それに、ロシア怖いもん……。イギリスも怖いけど」
 弱気に語尾を萎める弟に、兄はチッと舌打った。実際のところ、ロヴィーノにも、どちらがより最善に近い道なのかは分からなかった。自分が助かるためなら仲間を売ろうが陰で列強と密約を結ぼうが何てことはない。今更、そんな形而上的なところで迷っているわけではない。要は、どちらがより恐ろしいか、という至極単純な話なのだ。あとは時の運だろう。
「ぎゃっ……!」
 突然、悪寒にも似た鋭い視線を感じて、思わず兄弟は抱き合って後ずさった。先程まで誰もいなかったはずの列柱の陰に、長いブロンドのストレートを背に垂らし、紺のリボンで飾った女子生徒がこちらをにらみつけるように立っている。
 それだけ見ればまるで祖父の愛した美しい彫刻のようでもあるが。
「何をコソコソ喋っている? お前たちのことは知っているぞ、ヘタレ兄弟。兄さんに不利な企みならば、二人まとめて地獄を見ることになる」
 美しい外見とは裏腹に、地を這うようなドスのきいた警告。兄弟はまったく同じタイミングで震え上がった。
「小物が……」
 お得意の「ごめんなさいごめんなさい……」や白旗が出る前に、その様を見下すように吐き捨てて、女生徒は踵を返した。
 その後ろ姿がすっかり見えなくなって初めて、兄はドン、と弟の胸を突き返した。ぱたぱたと、埃がついたわけでもない自分の服を払い、髪をセットし直す。そんな扱いを受けたことなど意に介した風もなく、やや髪色の明るい弟の方は、深い息を吐きながら口を開いた。
「あれ、誰? 美人だけどすげーおっかない……。あんな子いたっけ?」
「フン、前はポーランドの下にいた目立たない女だったのに、最近妙にロシアに似てきやがった。ロシアの妹だってよ」
「すごーい、兄ちゃん詳しい!」
「ばーか、言ったろ? 世の中、情報戦なんだよ。お前だって商売してたんだからわかるだろうが」
「えっ、ロシアの妹って言った? じゃあやばくない? 今の話、聞かれちゃったよ……」
「大したこと言ってねーだろーが。お前が『ロシア怖いよー』って泣いたくらいでよ。それに俺はなんも言ってないもんね」
「えぇ、兄ちゃんズルいよ! 俺たち一蓮托生だよ、って約束したじゃんか!」
「あー、知らねぇ知らねぇ! スペインだろーがフランスだろーが、テキトーに相手して遊んで暮らした方が楽だったぜ」
「もう……そんなこと言わないでよ、なんか俺、泣きそうだよ」
 ロヴィーノはフン、と鼻を鳴らすと、ズボンのポケットに両手を突っ込み、気だるそうに歩き出した。その背に、不安そうな弟の声がかかる。
「ねぇ、俺に内緒で寝返ったりしないでね! いつだって俺たちは一緒だよ!」
「さあな。お前がうまく立ち回れよ」
 ひらりと手を振り、飄々と去っていく兄に、フェリシアーノはため息をついた。フェリシアーノだって、できることなら兄のようにすべて放り投げてしまいたい、それができないのなら、こんな学校からは今すぐ逃げ出したい。けれどそれはできないのだ。
 朝から晩まで、中世の城のような薄暗い建物の中に閉じ込められ、授業が終われば渡り廊下でつながった寮で集団生活。角を曲がる度に、怯えて過ごす。
 長いこと、一緒にいられればどんなにか心強いだろうと願っていた兄は、いざ一緒になってみればあんな態度。まあ無理もない、自分たちは性格も生い立ちも、すべてが違い過ぎている。似ているのは顔かたちくらいなものだ。
「やだよ、一人は怖いよ……」





まあ、何度でも立ち上がれるし、俺らは。



きゃ……、ベ、ベラルーシちゃん、何それ……!



このグラスを用意したのは誰だ!



……ったく、ぼーっとしてんだか鋭いんだかわかりゃあしねぇ。



子供扱いするな、バカトルコ……。



ロシアさん……アメリカさんに、ひどいこと、しませんよね。



お前うるせぇよ、今度『愛』って言ったら罰金な。



えぇ、何それ! それじゃお兄さん愛を語れないじゃない!










君みたいな、ちっとも反省しないバカな子は死んだ方がいい

さよならロシア、俺の勝ちだね




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