どうせフェアリー・テール?


 オリエント急行――かつて「文明の華」パリより、異国の地コンスタンティノープルへの夢を乗せ、一昼夜駆け抜けた国際寝台列車。多くの王侯貴族を乗せ、異なる世界を結んだ近代技術の結晶は、二度の世界大戦、東西冷戦の時代を経、その運行区間をストラスブール・ウィーン間と大幅に短縮して現在に至っている。かつての特権階級が贅を尽くした「青きプリマドンナ」の面影はもはやない。
 しかしながら、あまりに名高いその寝台車を購入、復元し観光用に運行する試みは数多く存在し、かく言う今回も、実に70時間近くをかけ在りし日の最長距離を辿るという企画に、世界の名士たちがこぞって招待されたというわけだった。そして今日はさらにその予行を兼ねて、知る人ぞ知る、人ならざる存在である「国々」が試乗に招かれた。要は実験台なのだと、その一人であるイギリスは思う。
 さながら高級ホテルのスウィートのような一室。というにはやや狭いが、そもそも細長い列車の中でここまで贅沢なスペースを取っているということがすごい。しかも今は壁板を一部取り払って、隣室と連結していたから、なおさら広く感じられた。やわらかなマホガニーの暖かい色に囲まれて、柔らかなソファベッドに身を預け目を閉じる。
 ふわり漂う香は、淹れたばかりのアールグレイ。
「懐かしいな」
 今回は数日限りの復興企画だが、かつて実際にヨーロッパ大陸を貫いていたオリエント急行が、華々しく運行を開始した折には、やはりイギリスたち各国の貸し切りで、試運転が実施されたのだった。
 そんな感傷も解さぬ様子で、向かいの――正確には隣室だ――青年はちらり、と青い目を携帯ゲーム機の影から覗かせた。ソファに寝転がるな、靴を脱げ、目が悪くなるぞ、音がデケェ、諸々の注意は何度か黙殺されたので、もはや諦めてイギリスは紅茶に口をつける。
 だがしかし、いい加減に続く沈黙にも耐えかねて、ついに根本的な部分に触れた。
「お前、ゲームやってるだけなら自分の部屋に帰れよ」
 せっかくの常ならぬ豪華列車での旅。「恋人」と二人きりだというのに、いい加減空しい。
 どこか拗ねた気持ちなのを、悟られただろうか。アメリカは何も言わない。
 やがてプツリ、と唐突に電子音が途切れて、アメリカの視界を独占していたゲーム機はテーブルに。
「……気持ち悪いんだぞ」
 気分が悪い、との訴えに顔を覗き込めば、確かに少し血色は悪い。
「列車の中で延々寝っ転がってゲームなんかしてるからだ」
「君の小言がうるさいからだろう」
 うぅ、と呻く。憎まれ口にも覇気がない。
「おい、そこで吐くなよ。待ってろ、今なんか袋を……」
 吐き気はしないよ、と尖らせた口にも構わず、手近なところにポリ袋を広げ、ハンカチを軽く冷水で濡らし額に乗せてやった。
「冷たくて気持ちいい」
 目元をしっかり覆った濃紺の綿地に毒気のない感想。要は「ありがとう」ということなのだと思う。
「そうかよ」
 ため息を禁じえない。
 窓の外はなだらかに広がる田園風景。ドイツの夏は早い。異常気象の影響か、ここのところ更に早くなっている、と聞いた。開けた窓から風が流れ込んでくるお陰で、暑苦しいというほどではないが。
 ああ、あの日もこんな陽気だったなと、大人しく見上げてくる空色の視線を振り払うように目を閉じた。外気だけは既にコートが手放せないほどに寒くなっていたけれど。
 列車がカタンカタン、と揺れる音だけが小さく響いている。
 アメリカがこちらには目もくれずゲーム機の電子音を響かせていた理由が、わかった気がした。
 要はこんなお誂え向きの空間に二人きりでいることが、気恥ずかしいのだ、どうしようもなく。アメリカもそうだったのだろう。
 これは決して自意識過剰などではない。なぜならイギリスはアメリカが自分に向けて愛を語るその言葉を、人の一生分ほども昔、まさにここで、聞いたのだから。

***

 もういいだろう、と彼が突っかかってきたのは、まさに開通記念式典を間近に控え、フランスはパリからルーマニアはジョルジュまで、記念すべき国際列車就業の試運転に招かれた車内であった。
 元はアメリカの寝台列車に感動したのだという創業者は当然、経路が通過するヨーロッパ各国のみならず、アメリカをもその試乗に招待していた。ついでに言えば、イギリスも列車の経路にはなっていないが、一部の資本が関連企業なのである。世界広しといえど、近代化事業の興るところ、イギリスが関わらないものはない。
 堅苦しい車内の解説と経営陣や各国との挨拶。一通りの義務が終われば、あとは食堂車での夕食会まで、のんびり優雅な旅の始まりだ。客室はなかなかに趣味のいい部屋だった。一人車窓を眺めながらブランデーを傾けるのも悪くない、と踵を返したイギリスを捕まえて、アメリカは狭い通路を塞ぐように仁王立っている。見下ろす視線が気に食わない。
「どけよ」
「君、ずっと俺と目を合わせなかったろう。いい加減、そういうのどうかと思うぞ」
 いい加減、も何も、かれこれ一世紀はこういう態度を取り続けている。時の経過とともに自分たちの関係がかつてのようにすっかり元通りになるなどと、アメリカが信じていたのならそのことの方が驚きだ。
「あれから何年たったと思ってる? もう百年――」
 工業化は軌道に乗り、西部開拓も進んだ。問題だった各州の意見対立も、北部が南部をねじ伏せる形で既に決着している。あれほど不安定だった素人の集まりが、今じゃすっかり強大な国になった。そういう報告だけはカナダからよく聞くし、また自身が目の当たりにしてもいる。これで複雑でない方がおかしい。それでなくたって重工業部門においては、イギリスはあの新興国ドイツに押され気味だというのに。
「やっと百年だ」
 すべての鬱憤をぶつけるように吐き捨てた。
 百年経った? だから何だ。
 そんなことでこちらの負った不利益も世界戦略上の方向転換も、すべてなかったことになると思ったら大間違いだ。
 時が経てば赦せるのではないかと思った。一人では立ち行かなくなったアメリカが困っている姿を見れば、また情も湧き上がるだろうと。だが、肝心のコイツが今や自分と並び称されるほどの経済成長を遂げ、ことあるごとにこうした生意気な態度を取ってくるのでは、癒されるものも癒されず、かえって不快感は増すばかりだった。
 どこまでも自己中心的、他人の感情というものがまったく見えていない。
 嫌になる。
「まったくお前は育ててやった恩も忘れて、いざ独立したらてのひら返して、こっちの都合も関係なしに、自分の利益しか考えずに物を言う。見上げた恩知らずっぷりだな。変わってねぇよ」
「なっ、なんだいその言い方――」
「俺にどんな態度を要求してるんだ? アァ? ちょっとやそっと荒稼ぎしたくらいで、この俺が、お前ごときに敬意を払うとでも?」
 ムッと押し黙った目の前の巨体を軽く突き飛ばして、振り返りもせず部屋へ向かった。
 みっともないくらい気が昂ぶっている。こういうときこそ、大人の余裕を見せなければならないというのに。冷静になれ、あんな若造の傲慢など本気で相手をすることはない。
 だというのに。
「おっ、イギリス、これからサロン車の方に行くけど――」
 部屋の前でばったり会ったフランスが軽く手を挙げてくるのにも返事をせず、傷一つついていない真新しいドアを音高く閉めてやった。
 ウロウロしてまたアメリカに会うのも癪だから、しばらく客室に閉じこもって本でも読むとしよう。それで気分が悪くなるようならチェス盤でもいじっていればいい。



 乗務員にブランデーを垂らした紅茶を頼んで、それも四杯目になろうかという頃、乗務員ではありえない不躾さで、ドンドンドンドン、と執拗にコンパートメントの扉が叩かれた。
 うとうとしかけていたイギリスは、扉越しの遠慮ない声にハッと覚醒する。
「おーいイギリスー、今日も今日とて孤立中かー?」
「閉じこもってばっかじゃ視察の意味ないでぇ、こっち来てカードせぇへんー?」
 フランスとスペインが扉の前でにやにやしているのが目に見えるようだった。
「行かねぇ」
 うたた寝してしまったことを悟られないよう、首を一振りしてからやや大きめに返答する。
「あと小一時間で夕食だぜ? その後はダンスパーティだし、お偉方と顔突き合わす前に、ちょっとは羽根伸ばそうぜ」
 もうそんな時刻だったか。確かに、車窓を流れる景色は茜色。肌寒さを感じて、軽く開けていた窓を閉める。
 また「仕事」とは気が滅入る。シャツの皺を伸ばし、開けていた襟元と袖口のボタンを留め直し、上着に袖を通す。
 木製の扉の向こうでは、まだスペインが喚いていた。
「さっきからドイツの奴に全然勝てへんねん、イギリスも協力して俺の金取り返してー!」
 開き戸の中にある洗面台で軽く顔を洗っていたところに、聞き捨てならない状況説明を浴びせかけられる。どうやらサロン車では、白熱した賭博が繰り広げられていたらしい。
 それを聞いては、スーツを着た海賊、と西ヨーロッパにその名を轟かせたイギリスが、黙っていられるはずもなかった。そもそもそういう「大人」の遊びなら、こちらの得意分野だ。
「アァ? あんな若造に何ヤラれてんだテメェら!」
 それまで寒冷地で中世さながらにまとまりもなく、畑ばかり耕していたような国の集合体だ。近頃盟主プロイセンが悲願の統一を果たしたばかり。国際政治の舞台に慣れない様子で顔を出すようになったドイツの姿は、国の「大先輩」イギリスとしては不遜にも無礼にも映る。あの、成り上がりが。その無愛想で頑なな振る舞いに、忌々しいプロイセンの顔を思い出し、イギリスは王者の顔でそう吐き捨てるのが常だった。
「あいつ駆け引きとかヘタクソそうな顔してなかなか手ごわいねんー、きっとプーやんがいらんこと仕込んだんやってーアレ……」
「プロイセンがいないあのメンツならお兄さんの圧勝だと思ったのに、とんだ誤算だよ」
 乱暴に濡れた顔を擦り、イギリスはついに殻を破った。狭い通路に広がっていた光景は想像通りのもの。旧知の――因縁の仲である海の向こうの二人が口々に泣き言を繰り出している。
「お前は元から戦力外だろうが」
「ひどい! イギリスひどい!」
「お前が一回でもこの俺にカードで勝った例があるかよ?」
「ぐ……反論できない……っ」
「うわ、マジ? フランス弱ぁー……」
 ハハハハ、と遠慮ない嘲笑が響く。なんだか気分もノッてきた。やはり高級国際寝台車の夜はこうでなくては。
 イギリスはキュ、と白手袋をはめ直し、ニヤリと浮かぶ笑みを抑えることができなかった。
「イギリス様の手腕を見せてやるよ」



 イギリスが途中参戦したサロン車でのカードは大乱戦と相成った。ドイツの強運と手さばきはやはり彼の盟主プロイセンの癖を随所に感じさせるものであったが、短気を起こしやすい彼と違い、目の前のドイツは若輩ゆえの劣等感からか、ここぞというところで慎重になる冷静さも兼ね揃えていた。細かい部分では所詮受け売り、詰めが甘いものの、決して容易く勝てる相手ではない。
 端から地味な頭脳戦に向かないフランスや、肝心なところで気を散じるスペインを置いて、イギリスは久々に熱い勝負に全神経を注いでいた。
 視界の端で、さっさと勝負を放棄したフランスが飲み物を頼んだり外野と会話を交わしたりしていたが、どれも大して耳には入らない。
 ゲームを始めて三十分ほど経過したときだろうか、ふと十人がけのコンパートメントを見渡して、ずいぶんと人が減っていることに気がついた。もはや隣にいたはずのフランス、スペインの姿すらない。冷めた様子で勝負を傍観しながら、楽譜を眺めていたオーストリアが、なんだか落ち着かない様子で立ち上がる。
「ドイツ、お下品なお遊びはそのくらいにして、夕食の前に着替えましょう」
「ああ、そうだな」
 ドイツはあっさりうなずくとカードを手放してしまう。ドイツが立ち上がったことで、他のメンツもばらばらと手札をテーブルに放った。一気に興が削がれ、イギリスは眉根を寄せる。
「なんだよ、まだ時間あるだろ。逃げんのか?」
 食い下がるイギリスをじっと見下ろして、ドイツは何か言いたげに視線をさまよわせていたが、オーストリアに急かされて、結局無言で背を向けた。かと思えば、その出口でぽつりと言い放たれたのは。
「……逃げているのは、お前の方だろう」
 かしゃん、と僅かな音を立ててコンパートメントの扉が閉まる。
「な……なんだあれ……」
 ぱくぱくとあいた口が塞がらない。なぜ。何故、この大英帝国様があんな若造にこのような侮辱を受けねばならないのか。
「逃げてる? 俺が? 何からだよ、意味わかんねぇ……!」
 気づけばダンスすら可能な広いサロン車に、たった一人だった。
「結局俺がカード片づけんのかよ……くそ、フランスの野郎、どこに……」
 我ながらマナーが悪い、と思いつつ、靴底でテーブルを蹴飛ばす。車両の壁に固定されたそれはもちろんそんなことで動いたりはしないので、結局こちらの足が痛んだだけだった。
 紳士らしからぬ悪態をつきながら乱暴にカードを掻き集めていると、かしゃん、とわずかに空気が揺れた。列車がジョイントでも通過したのだろうかと放っていたが、この、背中に突き刺さるような視線は。
「……何か用か?」
 扉にもたれかかるようにしていた若者は、昼間見たときとは違い、夜会用の出で立ちだった。ああ、イギリスも夕食の前に一度着替えねばなるまい。
「別に? 相変わらず、ヨーロッパ連中は仲がいいなぁ、と思っただけだよ。君もなんだかんだ言いながら、お楽しみみたいじゃないか?」
「相互不干渉なんだろう。お前の発展にはよろしいことだったんじゃないのか? え? アメリカ。古臭いしがらみだとか、厄介なゴタゴタだとか、お前そういうの嫌いだもんなぁ」
 嫌味の応酬に、いやでもこめかみが緊張して震える。かたんかたん、と揺れる列車。窓に反射するコンパートメントの明かり。いつの間にか外はずいぶん暗い。
「……そうだね、大嫌いだよ。ベタベタベタベタと。何度ケンカしても、彼らは当たり前みたいに受け入れられて」
 アメリカはゆっくりこちらへ歩み寄ってきた。逃げ場を探すが、客室は生憎アメリカ側のドアだ。
「だから、ご退場願ったんだ」
「は?」
「ねぇ、君とゆっくり話がしたかった。……だめかい?」
 イギリスとアメリカの間に「話」なんてない。あるのは恨みつらみ、摩擦、戦略的協定、それだけ。
 今までずっとそうだったのだ。これからもずっとそう。
「話なら一人で勝手にしてろ。俺は着替える」
 強引に脇をすり抜けようとした、その腕を掴まれる。
「……っ、いつになったら、俺の話を聞いてくれるんだい!」
 ひどい力だ。とっくに、腕力じゃ敵わない。そんなことなら知っていたはずなのに、涙がこみ上げそうになる。
「話して何でも説き伏せられると思ったら大間違いなんだよバカ! 俺はお前の思い通りにはならない!」
 じたばたと暴れてみても、拘束は解けそうになかった。みっともない。ああみっともない!
「な……にを、勘違いしてるんだか、知らないけどね……俺は、君に赦してもらおうとも、君を懐柔しようとも思わないよ……そりゃ、そうなったら素敵だと思うけど、そんな俺の考えを、君は好かないだろうから。どうせ傲慢だって言うんだろう。プライドが高いのはいいけどね、君ってそんな人だし……ほんとに誇り高い人だと思うし、それに相応しい歴史を持ってる。ただ、言いたいことすら、伝えさせてくれないのかい……」
 いつの間に、ずいぶんと偉そうな物言いを身に付けたものだ。
 これではまるで、こちらが聞き分けのない子供のようだ。そう、言葉を弄すればたやすく優位に立てる。こんなものは、真の国力を反映してなどいない。そのはずだ。
 イギリスは大きく、深呼吸した。
「……一分だけやろう。そうしたら着替える」
「すぐ済むよ」
 アメリカは観念した様子のイギリスをようやく解放し、ふう、と大きく息を吐いた。こんなことでイギリスの同情を買おうというのなら、まったく浅薄極まりないと、イギリスは強いて冷めた感情によってアメリカの一連の動作を処理した。
「あのね、イギリス。いつからとか、どうしてとか訊かれても困るんだけど、ほんとにほんとの気持ちだから。聞いて、ほしいんだ。ずっと伝えたかった」
 ああ、どうしてこんなに真剣なんだろう。イギリスはずっと、この真っ直ぐすぎる視線から逃げてきた。
 かたんかたん、かたんかたん。
 時代は変わる。そんなのはわかりきっていたことだ。本当はとっくにわかっている。
 天使のような幼子が、見上げる長身に。馬に揺られ何年とかけた旅路が、たった数日石炭を燃やすだけで。
 かたん。

「好きだよ」

***

 濃紺のハンカチに目元を覆われて、すっかりぐったりと横になったアメリカを見下ろして、イギリスはため息をついた。本でも読もうかと思ったが、ちっとも集中できそうにない。現に今も白昼夢じみた回想に浸ってしまったことであるし。
 ああ。もう。
 青き貴婦人が世界中の人々を虜にし、時を超え、今もこうして人々に慈しまれている。それはものすごいことだ。
 まさか再び、コイツとこの景色を見ることになろうとは。
「……なぁ、オマエ、いっぱしに気まずさ感じてたのか? 照れて、たり?」
 それでゲーム画面ばかり見つめていたのだとしたら、なんともかわいいところのある奴だと思う。ちらり、と伺った顔は覇気もない。
「……うぅ……だってしょうがないだろう、こんな、まるっきりあの時と同じシチュエーション、思い出すに決まってる……」
 なんとも正直な返答は、具合が悪いからこそなのか。それとも、図らずもいわゆる「思い出の場所」で、二人っきり、だからなのか――正確な場所はサロン車なわけだが、そこではまた愉快な仲間たちが思い思いに自由な時間を過ごしているのだろうから、二人は敢えて静かな客室に籠っているというわけだ。
 まさか人ならざる自分たちにまで、こんな日が来ようとはついぞ思いもしなかった。思い出す景色は、いつだって百年や二百年は軽く超えていて、めくるめく歴史とともに、簡単に朽ち果ててしまうものだから。
「だからお前はガキだって言うんだ。照れてどうすんだよ。大人の男なら、ここらで歯の浮くセリフの一つでも言ってみろよ」
 どうせできないだろうと高をくくっていたから、くつくつと意地悪な笑みがこぼれた。
 自分によく似て、この元弟は意地っ張りだ。
「ま、せっかくの旅行だけどな、その様子じゃしょうがねぇだろ。大人しくしてろよ」
 いまや恋人たる彼が、この思い出の場所で、何かドラマティックな行動を起こしてくれるかも、なんて緊張していた自分がばかみたいだ。イギリスはふっと詰めていた息を吐き出して笑った。それでいい。それがいい。それくらいがこの、自分の手には収まりきらなかった、それでもなおかわいい、元弟らしい。
 暇潰しに音楽でもかけようかとカバンを漁り始めたところ、それまで死んだ魚のように伸びていたアメリカがガバリ、と勢いよく身を起こした。
 それで目が回ったのだろう、上体がふらふらしている。
「お、おい、寝てろよ……」
 何をそんなに必死に、と見守る先で、力尽きたようにパタリと倒れた頭が再び着地した先は。
「……お前な」
「あ、今、恥ずかしい奴って思ったろ」
 ああ目が回る、と額の脂汗を拭いながら、左の太腿にぐいぐい体重をかけてくる。「頭も重いな、このメタボ」とは言えずに、イギリスはカバンに伸ばした手をひっこめた。
「君も大概恥ずかしい奴だと思うぞ。顔、真っ赤だ」
「ばっ……」
 ハハハハ、とアメリカがあまりに可笑しそうに笑うから、イギリスはどうしようもなくなって目をそらした。そらした先には、まだのどかな田園が広がっていた。
 かたんかたん、かたんかたん。
 時代とともに変わりはしても、気高き名はそのままに、青き貴婦人が世界をつなぐ。ああ、平和だ、とイギリスは太腿に感じる熱に目を閉じた。何気なく絡めた髪が手にさらさらとくすぐったい。うっすら青い顔をしたアメリカも、それにはずいぶん気持ちよさそうにしていた。
 ああ、これでは酔い止めの薬すらもらいに行けない。
 ほんの少し懐古趣味の、優雅な昼下がり。多くの夢と幻想と誤解と物資と兵士と弾薬を乗せて、息もつかずに自分たちが駆け抜けた、この道。
 在りし日のままの喧騒で、コンパートメントの扉がいきなり開かれるのは、ちょうど三分後である。

「イギリス! 今サロン車でカードしてんだけどお兄さん負けっぱなしで……!」
















 どうでもいいですが、自分で「王侯貴族」と打ったくせに、後で見返したら「居候貴族」に見えた件。その時にはまさか後半でオーストリーさん出てくるとは思いませんでした…(笑)。
 ところで十九世紀とかその辺のオリエント急行の一等客室は十二人しか乗れないんだそうですよ!(今は二段ベッドに改造されたりしてるものもあるようですが…)これじゃお偉いさんが全員呼べませんね…きっとイギイギは何か圧力的なもので一等客室をもぎ取ったのだと思います…フランス兄ちゃんやアメリカはもっと低い客室なんじゃないかな…。

 オリエント急行にはずっと乗ってみたかったのですが、今はもう殺人事件の舞台になったような(笑)在りし日の運行はしてないんだと、調べて初めて知りました…ええええ、今も変わらずトルコまでぶっ放してるんじゃないんだ…! ショック…!

 メルフォ不作動の上に一番お待たせしてしまいました…しかもなんだかまたご希望からナナメに外れた気がしますが…あうぅう…鳳条薫一さま、そんな失礼にも懲りずに、素敵なリクエストをありがとうございました!!

(2009/6/18)



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