「ねぇねぇ、君、一人ー?」 落ち着いた色のブロンドを一つにまとめ垂らした背中はピンと伸びて、理想的な腰のくびれを余計に印象付ける。 だが彼女はちらりとこちらに一瞥くれると、無言で歩き去って行ってしまった。ヒールがアスファルトを打つ、硬質な音が冷たく響く。 「……ちぇっ」 手持無沙汰にいじくり回していた携帯を再び取り上げて、白々しく光る画面と、通り過ぎる車を交互に見比べながら暇を潰す。燃費も愛想もエコばかりで、どうにも俺のテンションを沸き立たせてくれる情熱的な車や女性には、出会えそうになかった。 耳にあてがった携帯からは、プルルル、と無機質な呼び出し音が続いている。ややあってガチャリ、と例の小気味いい音が響いて、俺はようやく、孤独から抜け出したような気分になれた。 ボタンひとつで、何ともお手軽な時代になったものだ。これでいつ靴紐が解けても大丈夫なのだと思うと、ひどく心強い。 「あ、ドイツー? おれおれー。今ねー、俺すっごい暇なんだー」 『俺という名前の知り合いはいないが』 電波に託された声は、数百年と聞き続けている声より、ほんの少し、こもって聞こえる。当然だ。これはドイツの声そのものではないのだから。 早く目の前で、ドイツの声帯そのものが、空気を伝って俺の鼓膜を震わせてくれればいいのに。 「もー、またそういうこと言うんだからー。それつまんないぞー。あー、それでねー、俺いまどこにいると思うー?」 『悪いが仕事中なんだ。切るぞ』 予告に違わず、数秒後にブツッと耳を刺すようなそっけないサイン。俺に何を言う隙も与えず。もしも緊急の用事だったらどうする気なのだと毎度抗議するのだが、お前の第一声で緊急性の有無など判断可能だ、とあっさり切り捨てられると、そうなのだろうか、ドイツはすごいな、と納得せざるを得ない。 「ちぇー」 通話終了、0分18秒、と嫌味ったらしく表示されたディスプレイに目を落とし、俺は繰り返した。この0が浮かび上がって、もちもちのニョッキになる夢を見ながら、見上げたミュンヘンの空は茜色だ。そう、あれがトマトソース。 お湯をひとわかししよう 「イタリア、何してるんだ?」 こんなところでまさか兄ちゃんが言うところの「イギリス様」に遭うだなんて思ってもみなかった俺は、のんきに紙袋を提げたその姿を見るなり、ヒッと息を呑んで、そのまま卒倒しそうになった。あれ、呼吸ってどうやるんだっけ――。 「おい、おいおいおいおい!」 ふらりと傾ぎかけた体を支えられる。背中に触れた腕が、今にも振り上げられそうで、俺の意思とは関係なく首が竦んだ。 「ヒッ、やめてやめて! お願いだから、なんでもするからぶたないで!」 手のひらを突き出して、イギリスを視界から消す。そんなことをしても何の自己防衛にもならない、と訓練中はよくドイツに怒られたものだった。ちゃんと目を開いて、避けるべき対象をしっかりと見据えること、と。そんなことを言われても、思わずぎゅっと目を閉じて顔を背けてしまうのは、もう本能的な反射なのだからしょうがない。 視界から消してしまえば、それで危険は排除完了。それでいいじゃないか、もう。 「失礼だな、出会い頭にそれかよ……それとも、殴られる心当たりでも?」 てのひらの向こうから、地を這うような声。ああ、前言撤回。世界はそんなに甘くないのでした。 「いやぁあああ、やめてぇえ!」 「おい、騒ぐな。衆目の的じゃねぇか」 ばたばたと顔の前で振っていた手首をがっしり掴まれて、心臓が縮みあがりそうになった。 「ひぎぁあああ!」 「『何でもする』んだろ? これは命令だ、『騒ぐな』」 俺はぐ、と下唇を噛み締めた。今すぐこの場から逃亡してしまいたい。 * 「何でもする、なんてほいほい言うもんじゃねぇぞ」 ああそうだ、ドイツにも言われた。 イギリスが俺を連行したホテルは、ドイツの家のものらしく、シンプルで無骨な中にも近代的なアートの匂いが漂っている。いったいなんだってイギリスがドイツの家にホテルなぞ取っているのか、俺には知る由もない。 「飲めよ」 なんでもない風で差し出されたお茶。しかしそのカップはそんじょそこらのカップではなさそうだった。繊細な女性のような陶器に手が震える。よく見れば、イギリスが持つポットも揃いの柄。ああいう趣味のものがドイツの家のホテルに備え付けてあるわけはないから、茶器も茶葉もイギリスが持ち込んだものなのだろう。なんてこだわりだ。 「……おいしい」 一口、含むと豊潤な香り。すとんと体を落ち着けてくれる。俺はようやく、ふかふかの椅子に身を沈めてため息をついた。ずいぶん緊張していたのだと思う。 イギリスはその一言に満足したようで、フン、と相変わらず高圧的な態度で脚を組んだ。 「さっき買ってきたドイツ産のハーブティーだ。落ち着くだろ? ……で、お前はいつも一人でドイツん家をうろついてんのか?」 「ヴェー……今日はたまたまだよ、暇だったから」 それに「一人で」ドイツの家を俺がうろつくことは稀だ。今回だって、いつものようにドイツを呼び出そうと思っていたところ、邪魔が入っただけなのだから。 「イギリスこそ、まさかここで会うとは思わなかった」 「あいつに話があったんだよ。アメリカの後にな。俺は7時まで順番待ち」 ちらりと見上げた、四角いメタルフレームの美しい時計は、まだ5時を少し過ぎたところだった。文字の大きさがまばらな、遊び心のあるデザイン。 「じゃあ、ドイツの言ってた仕事って、アメリカのことだったんだ」 「さあ、たぶんそうじゃねぇ? 俺も詳しくは知らねぇけど」 「ふーん、でもドイツがアメリカと話してるって知ってるだけでもいいよ。俺なんか、『仕事中だ、切るぞ』って――ひどいと思わない?」 ドイツの声マネをして精いっぱいその冷淡さを訴えてみるが、イギリスは特に関心を払わなかった。 「だってお前、めんどくさいもん」 茶に口をつけたまま、伏せた目を上げようともせずに。 「ヴェ! ひどいよ! 俺めんどくさくないよ!」 俺の抗議をよそに、イギリスのカップはあくまで優雅にソーサーへと戻された。 「どうせダラダラとどうでもいい話をしたんだろ」 「してないよ! これから本題に入るところだったんだってば!」 日本ならこんな物言いはしないのに。 俺とドイツがいかに仲良しか理解していないなんて。そもそもあいつは夏になると大群で俺ん家に押し寄せるんだぞ。 これだからイギリスは嫌いだ。 無論そんなことを声に出せるはずもなく、従って俺の心の声など何も知らないイギリスは、くっと口角を上げた。 「どうせ俺もお前も、あの2人が話し終わるまで暇だってことだ。不本意ながらな」 「そうだね」 何も考えず返事をしながら、あの2人が話し終わったところで、イギリスがアメリカに解放されたドイツを奪ってしまうなら、俺はなお暇なことに変わりないのではないか、という素朴な疑問が頭をもたげたが、イギリスにはイギリスなりの考えがあるのかもしれない。俺の知らない情報も握っていることであるし。 深く考えるのはやめた。 「まぁ食え」 イギリスが懐から取り出したフィナンシェに、全身が粟立つ。そもそもイギリスと食べ物の組み合わせは、どうにも不吉だ。 身を引いたのがバレたのか、イギリスは不快そうに眉を寄せた。 「言いたくないがな、これは通りがけにフランスの野郎が押しつけてきたものであって……」 「いただきます!」 イギリスはまだごちゃごちゃと言い募っていたが、俺にとって大切な情報が伝えられただけで十分だった。日本の話のように、最後の「〜というわけではないんですけどね」ですべて結論がひっくり返される心配もない。あれにはいつも脱力させられる。 「おいしい!」 「あー、そりゃよかったよかった……」 金塊を模した柔らかな焼き菓子を頬張って、バターの香りに包まれる幸せ。言うまでもなく気分は億万長者だ。ああ、生きててよかった。目の前にいるのがイギリスじゃなければなおよかった。 必死でイギリスを視界に入れないようにしていた俺に、痛い視線が突き刺さる。 何か用なのだろうか。ああもう、ドイツのバカ野郎。ムキムキ。ドS。童貞……あ、いけね、それは俺もだ! とにかく俺をこんな危険地帯に放置するなんて、後で容赦しないんだからな! と言ってみたところで、またどうせこちらが叱られてしまうのだろうけれど。 「あー、お前、夕飯はどうするんだ?」 「ヴェ?」 夕飯、というタームに思わず腹が反応するが、今お茶にあずかったばかりなので、それはそれほど深刻な訴えでもない。 「俺は7時から会談だから、その前に済ませちまおうと思うんだが」 「ヴェ? その後にアメリカと一緒に食べるんじゃないの?」 俺としては至極当然の質問をぶつけただけのつもりなのだが、予想外に怒鳴られて身が竦む。 「なっ、なんでアメリカが出てくんだよ! 別にたまたま予定が被っただけで、何も約束してねぇし……それに、遅くなったら店が閉まっちまう」 「……で、でもイギリスが来てるってわかったら、アメリカだって待っててくれるんじゃないの?」 少なくともドイツなら、きっと待っててくれるだろう。 「は? ね、ねぇだろ、そんなことは……」 「ヴェ……お店閉まっちゃっても、ドイツが台所貸してくれたら俺、作ってもいいよー、みんなのぶん」 もともと今日はそのつもりだった。今更1人や2人増えたところで問題ないし、賑やかな方がドイツもプロイセンも、隣のオーストリアも喜ぶだろう。 「そうと決まったら俺、買い物に行ってこなきゃ! イギリスも来る?」 「あ、あー……」 立ち上がった俺を、ぽかんと口を開けて見てる。なんてマヌケ面だ。 * ほいほいと食材を買い込む俺に、のこのこついてきたイギリスは、今更焦ったような声を出した。街はすっかり夕闇に包まれている。 「な、なあ、こんなに買って、もしアメリカが帰るって言ったらどうすんだよ――」 「こんな時間にせかせか帰るヤツなんかいないよー」 お、いいトマト。 「そ、そうだけど……でもあいつが仕事終わるのは7時であって……その時間なら、すぐ帰れるし……」 「そこにご飯があったら、ご相伴にあずかるでしょう」 「で、でも、俺とじゃ嫌だって、あいつ言うぜ……?」 「どうしてアメリカがそんなこと言うの」 心の底からヴェーと笑った俺に、イギリスはほとほと困り果てたように眉尻を下げた。いつもこんな顔をしていれば怖くないのに、と俺は思う。 いつもあんなに仲がいいのだから、アメリカがイギリスを待たずに帰ってしまうことなんてないだろう。帰ってほしくないなら一言「待って」と言えば済む。少しゴネられたって、本気で食い下がれば、最後には「しょうがないな」とみんな引き返して来てくれる。第三者の俺から見れば極めて単純なことなのに、どうしてイギリスはそんなこともわからないのか。まったく不思議だなぁ、考えすぎて疑いすぎると人間、身動き取れなくなっちゃうのかもね、と俺はドイツの大好物のじゃがいもを見定めながら少しだけいい気分になった。 「イギリスはアメリカに甘えたことがないんだね」 「あ、あま……ッ、バカにすんなよ、お前とは違うんだ! そもそもあいつは俺が育て――」 「マンマだって、子供に甘えるときだってあるよ。人間だもん」 ああ、楽しい楽しい、この世界。眉間の皺を伸ばして見回してみれば、色とりどりの野菜。おいしい食卓のにおい。 「お互いに支え合って、生きてるんでしょー」 我ながら、ドイツが見たら「へらへら笑うな!」と怒鳴られそうな顔をしていると思う。 でもあいつも、訓練中でもなきゃそんなに厳しくないんだよなぁ。なんだかんだ言って、気づけば眉間に加えた力を少しだけ解放して、俺を見守ってくれてるんだ。 「だから俺はドイツに甘えていいし、ドイツも俺に甘えていいんだ。じいちゃんもだし、兄ちゃんもだし、イギリスもだよ」 しばらく黙っていたイギリスは、何を言ったものか考えあぐねている様子だった。やがてようやく口を開いたかと思えば。 「……お前と話してると、大変だな」 「何それッ!」 ひどいよー! イギリスの鬼ー! ごはんマズイよー! この際だから言いたいことを全部ぶちまけようと俺が息を吸ったところで、「……ああ、もう行かないと」と、袖をまくって腕時計を確認したらしいイギリスが、くるり背を向けた。 「じゃあ俺は買い物したら一足先にドイツの家に向かうであります。って伝えておいてー」 右手は買い物袋を提げているので、左手で敬礼して見せる。ゆるりと振り返ったイギリスは、それを注意するでもなく。 「自分で伝えろ。っていうか人の家に勝手に上がるな」 「いいんだよ、俺とドイツの仲だもん。それに俺が電話したらまた切られちゃうし」 「なんだそりゃ。仲がいいんだか悪いんだか」 「イギリスだって、アメリカをご飯に誘ったら、帰るって言われちゃうんでしょ?」 カーッとイギリスの顔がトマトのように染まったのを見て、俺はいくらか日頃の溜飲を下げた。 今日の俺は、冴えてる。きっと夕食もすごいのが作れるだろう。 「言われねぇよっ! アメリカは優しい子なんだ!」 「へぇー」 さっきと言ってることが、随分違う。 頭から湯気が出ていないのが不思議なほど憤慨した様子の背中を見送って、ああ、お茶のお礼を言い損ねた、と俺は思った。 まあ、どうせ夕食の時に会えるだろう。イギリスとアメリカと、そしてドイツと。 今夜は、賑やかになりそうだ。 かの名曲へのオマージュです。ウソです。気合いはそんなですが、これ米英じゃん、と気づいたので、捧げたい気持ちは心の中に留めておきます。 でもリクエストをくださったあたりめ様には捧げないとお待たせした甲斐がないので、いらないとは思いますが精一杯献上させていただきます! あー、ドイチュかっこいいよむきむきむき。という気持ちで書きました。あとちょっぴり性悪っていうか強かなイタちゃんが書いてみたかったので大変満足です。イタちゃんは意外と強かなやつだと思います。イジめられて育ったからこそ、自らの手で、実力で(他の人とは意味がちょっと違うかもしれないけど)、幸せを掴む術を知っている、というか。 イギもメリカもそんなふうに生きられたらもっと幸せになれるけど、二人はすれ違いながらも二人なりの幸せを掴みつつあるので、きっと大丈夫なのです。 かわいらしいリクエストをありがとうございました! あと補足も生かさせていただきました!!(笑) 本当はメリカくらいは登場する予定だったのですが……なんか受け二人の裏側トークみたいなのって楽しいなって思ってしまって……orz (2009/5/6)
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