「……おい、なんだこの呪文は……」 弟が籠っていると教えてもらって訪ねた小部屋には、人のひとりやふたり呪い殺せそうな、不気味な呪文が飛び交っていた。悪魔憑きか何かの録音なのか、なんておぞましい。気味悪がってスピーカーに目を向けた俺に、その「弟」はにこやかに笑う。 「呪文じゃないよ、宇宙語の訓練をしているんだ!」 「うちゅうご、だァ?」 よくよく見れば彼は最初から、魔法陣の溢れかえった古文書などではなく、無機質な活字の躍る、何らかのテキストのような物体と向き合っているのだった。 「おいおいしっかりしてくれよイギリス、何ぼけーっとした顔してるんだい、宇宙人と会話ができるようにだよ!」 注意して聞けば、昼のメロドラマを早回ししたようにも聞こえる不愉快な音声に、ちょうど「私は、敵ではありません」と流暢な英語で解説がついた。あぁ、この女の声は、なかなか、好みだ。 「あー、もうお前、アホじゃねぇの……」 感想など、これ以外にない。 「で、この言語構造の分析は誰がやったんだ? そもそもサンプルはどこから取ってきた? え? どこのお偉い先生のお仕事だ? それともバイリンガルでも見つけたか?」 そうこうしているうちに、少し前から、英語の吹き込み担当は男性に切り替わってしまっていた。映画俳優のような低めの声。男の声になど興味はないが、こうも繰り返し「武器を捨てなさい」「私についてきなさい」「家はどこですか」とやや緊張感のある一文ばかりを唱えられると、嫌でも耳について仕方ない。 「分析と教材作成を担当してるのは、うちが誇る極秘研究チームだよ。地域研究0班といってね、うちの国だけの最先端情報だから、ロシアには内緒だぞ」 どこか得意げですらある弟に、軽く眩暈を覚えた。 「またくだらないことを……お給金はいかほどだ? 騙されてんだよ、オマエ」 「戦争に占い師持ち出す人に言われたくないよ」 いくら説明してもわからない人種というのはいるものだ。古来人類の歴史を左右してきた非科学的な力と、にわかの夢物語は違う。 だがアメリカに関しては、俺はすっかり諦めていたので、敢えて深い説明は避けた。 「……フン、それで、宇宙語ってのは類型はどこに属すんだ?」 「包合語」 分かってはいたが、英語をはじめとする諸インド・ヨーロッパ言語とは大分違う世界の言語らしい。遠い親戚ですらなさそうだ。 「……そりゃ、難儀なことで」 「いいかい、宇宙語ってのはすごいんだぞ、これは人類がたどり着く究極の認知体系を……」 「わかったから、落ち着け」 聞く耳など持たない、と態度で示したら、さすがに長い付き合いだ。弟はぶすっとして、再びテキストじみた紙束に向かい始めた。 俺のことは完全無視することに決めたらしい。 「なぁ、宇宙なんか行ってどうするんだよ」 手持無沙汰になった俺は、話題の方向性を変えようと試みた。決して構ってもらえなくて寂しかったとか、そんなではない。読者諸賢におかれては、くれぐれもそうした誤解のなきよう願いたい。 だが弟はすっかり誤解したのだろう。ちら、と冷たいブルーの瞳をこちらに一瞬だけ向けて、どう聞いても「hungry, hungry」としか聞こえない音を舌に乗せた。 続く英語は「静かにしなさい」。 なぁ どこまで遠くに行く気なんだよ そんなに 俺から離れたいのかよ かくて、怖れを知らぬ勇気、我が心にみなぎり、自由となったもののように、私は言い始める。 なんだかんだと理由をつけて、恋人が自分を捜してくれるのは嬉しい。迷宮のような軍事施設の最奥、設備は単なるレクチャールームだが(そして実際の用途もまったくその域を出ないが)、落ち着いた雰囲気が気に入っている。その、机と椅子ばかりの一室に、どこで聞きつけたのか、今日も彼は現われた。 俺はもちろん、それを歓迎した。 ところが、人類はついにあの星々きらめく宇宙へとこの身を躍らせ、まだ見ぬ高度な文明と意思疎通する段階にまで来ているのだ、というこの興奮を、彼もともに分かち合ってくれるだろうと思ったのに、イギリスは一歩部屋に踏み入った瞬間から、ドン引きした様子を隠そうともしない。 俺もそこまで懐が広くないから、自然、面白くないという心境をありあり態度に表してしまう。 やっぱりいきなり我が国が誇る最先端研究の粋である、この宇宙語学習用テープを聞かせるのは抵抗が大きかったかもしれない。 イギリスは熱心にテキストを目で追うフリを始めた俺に気を悪くしたのか、手近にあった椅子に、なんとも行儀の悪いことに逆向きに腰かけると、背もたれに縋りつくようにして、そのままくるくる回り始めた。 俺はさっきからキィキィと俺を陥落させようと鼓膜に伸びてくるそれが、気になって気になって仕方ない。 「……おい、いい加減、滑稽なマネはやめろよ」 それでも意地になってテープに合わせ例文を音読していると、ギシリとイギリスが椅子を軋ませた。立ち上がってこちらへ近づいてくる。 「お前がこうしてる間にも、ロシアはせっせと衛星の開発に勤しんでるんだろうよ」 目の前から消えたテキストは、数秒後にはイギリスの背後へ飛んでいた。 「何するんだい」 ばさ、と予想通りの音が響いて、それきりテキストは、美しくない姿勢でカーペット張りの床にくたりと収まった。 「俺が来てるからって、わざとらしくふざけてみせるな。こんな大がかりなジョーク」 イギリスは、スピーカーから流れ続ける教材テープを切ってしまいたいらしく、しばらくきょろきょろと部屋を見渡した。 「バカだなぁイギリス、未踏の地に無言で軍事兵器を持ち込むなんて、時代遅れだぞ。そこに元から住んでる人のことを考えないとね。知性を持った者なら、話せばわかるんだよ、いかに民主的政体が合理的かってことがさ――」 「で、『宇宙語』か? 何が宇宙人だ」 狭苦しい部屋に、白々しい蛍光灯の光が容赦なく降り注ぐ。一般人立ち入り厳禁の施設の一室に二人っきりだというのに、イギリスの雰囲気はちっともそれっぽくなかった。 「……俺は、もう疲れたよ」 疲れた、と体中で表現すると、椅子の背もたれが相槌を打つようにギシリと軋んだ。 「君はいつだって仕事のことばっかりだな」 笑って見せるが、目の前の恋人は眉を寄せ仁王立ちしたままだ。 「君は夢見たことがないのかい? オーパーツとか、先史高度文明とか、宇宙人とか」 これ見よがしなため息。大きく落ちた肩を思い切り抱きしめたい衝動に駆られたが、説教はまだまだ続くようなので、大人しく座っておいた。 いつもの茶化すような口調が、彼には気に入らなかったのかもしれない。本当にいつものことなのだが。 「今、そんなこと言ってる場合か? 盟主のお前がそんなことでどうする。悔しいが俺はな、お前のように科学の最先端を、国を挙げて追い求めるほどの余裕も力も義務もなくて、こんな風に口を出すことしかできねぇけど――」 苦々しげに言い淀んだイギリスの目が、ちらりと俺を窺うように動いた。 ああ、彼は自分をこんなにも信頼してくれているのだ。たとえそれが不承不承の選択だとしても。 その瞳に、たまらなく愛しさがわき上がる。 「あのね、イギリス」 腰に当てられていた、白い手を取る。イギリスは無言のままそれを見つめていたが、振り払おうとはしなかった。 「これを軍事戦略だなんて言う人もいるけど。俺の上司やチームの中にもさ」 空を見上げるつもりで天井を仰いだ。この建物にはそもそも、機密保持のために窓らしい窓がないのが、残念といえば残念だった。目に痛い蛍光灯が、ムードも何もぶち壊してくれる。 「でも、俺は夢を見ていたいよ」 現実逃避なのかも、しれない。 たとえば、君とこうして二人で語らうことに、どうしようもない幸せを見出していることも。 君はいつだって「そんな暇はない」「そんな場合じゃない」と俺を目覚めさせ急き立てようとするけれど。 けれど。 「宇宙からなら地球のどこでも支配できるとか、そんなこと考える前にさ、君だって、考えたことあるだろう?」 風避けのない最前線に立つには、現実の薄暗い可能性にばかり囚われない、ふわふわ風に漂うような自由な空想力が必要だ。最近特に、そう思う。 しんどくないと言えばウソになるが、自分が幸せだと知っている者は強いのだ。 ビビッているのかな、いまさら。 「まだ見ぬ世界に、何が待ち受けているのか。人が決して踏み入れることができなかった、許されなかった領域に、ジブラルタルの西に――」 ああ、この胸にみなぎる勇気に打ち震えるなんて、歴史上何度だって経験してきたというのに。何度繰り返しても、新鮮な喜びは血流の隅々まで沸き立つように。 俺は、たぶん、そういうのが得意なんだ。 もう片方の手も引き寄せると、イギリスのきらきらした緑の視線が、まっすぐ俺に降り注がれる。ああ、こちらの方が、無遠慮な蛍光灯よりずっといい。その蛍光灯の光は、イギリスの影が遮っている。 「言語っていうのは厄介だよね。人間の本能が作り出してきたもので、歴史とともに、より意図を明確に合理的に伝達すべく変化を重ねてきたけど、未だに俺たちは究極の体系には達していない。もどかしいことばっかりだ。でも、どこかに、それがあるかもしれないって、思ったら素敵じゃないかい? ――この、気持ちは、何と言えば、君に伝わる?」 この世に生まれて、君と出会って、君と過ごしたたくさんの時間があって、今もこうして君が隣にいてくれること。 奇跡のように彩られた、誰にも譲れない俺の幸せすぎる人生。 神に感謝すればいいのか、君に感謝すればいいのか、それとも俺を誇ればいいのか。 ああ、わかってよ、どんなに苦しくたって、どんなに閉塞した状況だって。 フランスじゃないけど、君を全身全霊で愛したい気持ちは、いつだって。 「俺の心を、君にすべて、正確に伝えられる言語がこの世にあったらよかったのに」 そっと引き寄せた顔はまだ不服そうな表情を保ったままだった。 構わずに目を閉じてしまえば、感じるのは柔らかな肌の触れ合いのみ。この唇が、俺を浮かせもし、沈ませもする。 こうして舌を吸って深く君を味わって、それで君の気持ちがすべてわかればいいのに。君が俺と、同じように――いや、ベクトルが違ったって構わないんだ、幸せで、いてくれるなら。 そのために俺は今日も明日も、全力を尽くすよ。 「ん……」 トン、と軽く突き放されて、背もたれに受け止められる。 見たかった緑は硬めの前髪に遮られて。それよりも今はぎらりと目を刺すような蛍光灯が痛い。 「夢見がちだな」 言い捨てて去った背中を飲み込んで、バタン、と扉は閉じる。後には規則的なリズムで録音されたスキットが、やけに無感情に響くのみだ。 「……夢は俺の原動力だよ」 かつて、手の届かない憧れの存在に過ぎなかった、彼の隣に並び立つ自身を夢見た。なんと身の程知らずな、という視座の欠如が、紛れもない俺の能力なのだと思う。 無謀? 蛮勇? そんな言葉は俺の辞書にはない。 この手に引き寄せる。あの月も宇宙も。 俺に届かないものはない。君が俺に、希望をくれた。 * 無機質で狭い廊下をバタバタ走る俺を見て、すれ違うアメリカ人たちは怪訝そうな顔をした。といってもすれ違う人間など数も知れていたのだけれど。 ここは軍事施設だ。世界の明日を握る、緊迫した盤面。人々は常に息を詰め、神経をすり減らして明日を予測し、備えている。浮ついた夢を語る場所じゃない。 それでも、どんな場所にいても能天気に笑ってアホなことを平気で言ってのける、それがアメリカなのだ。 こんなことをしている場合じゃないと思うのに、口づけられて体温はすっかり上がっていた。あいつに触れられるたびに、どうしてこんなにも切なく甘い心地になるのかわからない。 時局も考えず、抑えがきかなくなりそうなのは俺の方だ。あの愛しい弟と一緒に、夜空を見上げてまだ見ぬ宇宙の友人について語り合うのも悪くないだなんて、本気で思ってしまいそうになる。 それに抗わねばならない、という崇高な使命を帯びて逃げてきた、というのは嘘だ。これは嫉妬。つまらぬ嫉妬で、意地悪だ。 俺なんかとっくに格下の攻略済とみなして、いつもいつも、あの北のもう一極の方ばかり見据えているアメリカが、おもしろくない。 俺はもう、偉そうに大言壮語を吐く資格を持たない。そんな未知の広い世界のことなんて語れない。得意げに案内もしてやれない。 俺の知っている狭い狭い世界では、もう、お前を囲ってはおけないなんてずっと前から知ってたよ。その事実をつきつけたのはお前。 予測不可能、対処不能。 俺はもはや役立たず。 その先に何があるのかわからない。 俺はお前を、もはや先導できない。できるのはせめて隣に立って、お前をひとりにしないこと。それだけ。 なんて無力な愛! 得体の知れない闇の中では、それさえ叶うか知れないじゃないか。 ああ、ああ、お前を。 宇宙になんて 行かせない 罪深きこの地上で お前は俺だけ見ていればいい リクエスト内容は「アメリカ視点」だったのですがどうにも上手くいきませんでした…orz どんなに拒否されても米のことを「弟」と心の中でこっそり呼ぶイギイギに萌え、という気持ちを全力で込めてみました…。 ちょっとこの二人青春丸出しで、書いたこっちが恥ずかしいんですが… そんな恥ずかしい青春を疑わずに身をもって信じられちゃう幸せな恋してる二人がいいな、って思います! うわなんか色々ごまかした! 過去を共有できないジレンマっていうのは難しいけど二人の一番の萌ポイントだと思います。すれ違う切なさがなきゃつまんない! けれど私の文章力ではあんまり表現できなくてごめんなさい…orz 宇宙宇宙言ってはしゃいでるメリカにはいつまでもピュアでいてほしいです… 大変お待たせしてしまってごめんなさい! ゆぶねさま、メリカ愛心(何それ)をくすぐる素敵なリクエストありがとうございました!! (2009/4/23)
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