The story of the present 【遠い遠い昔のお話】 「おい、アメリカ」 呼び止める声が若干、震えた。 大丈夫、大丈夫だ、落ち着けイギリス。 これは自分にとっては大切な「区切り」で「儀式」でも、相手にとってはそうじゃない。いつもの何でもない「小言」で「おせっかい」だ。 何を気負うことがある。 イギリスは大きく息を吸って、怪訝そうに眉をひそめた目の前の青年の顔を見据えた。その、ちっとも輝きを失わない青い瞳をいまや見下ろすことはできなくなっても、まだ睨みつけることはできる。 「お前な、なんださっきのヨレヨレのサインは。あれはれっきとした外交文書だろう。仮にも一国の署名があれじゃあ、威厳も何もあったもんじゃない」 「……これだから未だに田舎者の集まりの新興国は好かないって? 望むところだよ」 ハ、と挑発的に一笑してみせたアメリカの顔には軽蔑があらわだった。だがそれもいつものこと。あの日あの時、決定的な仲違いをしてから、自分たちはずっとこうだ。 「俺は女王陛下の威光も何も背負っていない。俺は俺の正義の名のもとに、俺の流儀で、署名するだけだよ」 君とは違って、とイギリスを毛嫌いする目だ。ズキリと痛む胸は、もう何度抉られたかわからない。きっとこの傷は、一生治りはしないのだろうと思う。 「フン、どうせ文具の手入れもロクにできないんだろう。アメリカ商人風情には、真に価値のあるものがわからねぇからな」 「『女王陛下により近ければ』価値があるんだろう? 君たち貴族と同じでさ。どこぞの公爵のお抱え職人がどうだの、先祖伝来の品がどうだの、君たちの言う『価値』ならわかってるよ、俺は迎合しないだけさ」 そう言い捨てて今にも去ってしまいそうなアメリカを引き止める言葉を、頭の中で必死に探す。 「合理的だの新時代だの、金に物を言わせて勝手に言ってるだけじゃねぇか。価値を作り出したなんて勘違いするなよ。真の紳士の品ってのは、一目見りゃあわかる。だからお前はナメられるんだよ」 「へぇ……」 「だからほら、せめて文具の手入れくらいきちんとしろ。品格を疑われて損をするのはお前だからな」 押しつけるように胸の前に突き出した拳は、みっともないほどに震えていたが、ここまでの流れは不自然ではなかったはずだ。 「なんだい、これ」 イギリスの差し出したものを受け取る気配もなく、ちらりと一瞥くれただけで、アメリカは苦々しくため息をついた。 イギリスのてのひらにひやりと感触を伝えてくるそれだけが、窓からの陽光を受けて鈍く光っていた。誰一人その美しさには見向きもしないというのに、いっそいたたまれないほどに輝いて。 「ペンナイフだ。そこらの成金には手の届かない、王室の……」 「へぇ? それで俺の格を飾り立ててくれるってわけかい? 冗談じゃないよ」 セリフを遮って、アメリカは突然、イギリスの手を払った。反動で飛び出したペンナイフがかつん、と壁に当たって跳ね返る。 それを拾い上げたアメリカは、廊下の窓をおもむろに開けると、見せつけるようにこちらを見て笑った。 「な、何を……」 「そんなに大切な品なら、君の大好きな伝統の庭園にでも葬ったらどうだい?」 しゅ、と青空に鈍い光が吸い込まれて消える。窓の外には広大なブリティッシュガーデンが広がっている。とさり、と響いた音が、どの木を揺らしたものなのか、イギリスには判別がつかなかった。 「俺の手にあるのも野に帰るのも、大した違いはないだろう」 とっさのことで、呆然と口を開けるしかないイギリスに冷たく言い募って、アメリカは踵を返した。 皮靴の足音が遠ざかっていく。 イギリスはみっともなく窓枠にしがみつきながら、自分の浅はかさを思い知っていた。アメリカのためだけに、いまや立派な紳士たるアメリカに相応しい品を、ああでもないこうでもないと、ばかみたいに寝ても覚めても考えて。 文句を言いながらも受け取ってくれるのではないかと、根拠もなく信じていた自分が本当に愚かしい。 アメリカが自分に反発したのは、自分に一人前として認められたかったからなのではないかと思っていた。いつまでも子供扱いをして庇護下に置いておきたい可愛い可愛い弟だったのは間違いないが、彼がそれを望まないのならもう、こちらが折れてもいいかと思っていたのだ。それでアメリカが喜ぶのなら、対等な国同士として親交も深められよう。自分さえ現実を受け止めれば、自分たちの関係は第二のステップに移るだけのことなのだと。 けれど、違ったのだ。 あの軽蔑しきった眼差し。 アメリカは決定的に、イギリスのことを嫌悪している。 イギリスに認めてほしかった? イギリスの隣に立ちたかった? そんなのは全部、イギリスの自己陶酔で、勘違いでしかなかったのだ。 彼はイギリスと決別したかった、イギリスの大切にしてきたものをすべてぶち壊したかった。それだけだった。 太陽の光を受けて輝く金髪。彼には眩しい笑顔がよく似合った。晴れ渡った日に太平洋を眺めて、何でもできる、どこにでも行ける、と豪語するような、希望に満ち溢れた姿。 気高く凛としてありながら、停滞しきった街に淀む濃霧を打ち払うような、希望に満ちた無邪気な独創性を秘める。時代を経るにつれ、どす黒く変色してゆく円環など、はるか高みから見下ろして、どこまでも真っ直ぐに、青い青い空を目指している。そんな姿には白蝶貝の清楚な輝きがよく似合うと思った。いつも手元に置いて、彼が立派なひとつの「国」として政務をこなす様を見守るようにと、願いを込めた。 まったくのひとりよがり。 アメリカが目指していたのはイギリスの立つ場所などではなかった。正反対の、それでいてもっともっと高く美しい場所。彼はイギリスの在り方を目指すどころかありったけの侮蔑を込めて唾棄し、過去の汚点として葬り去ろうとしている――。 彼の保護者として君臨し続けることを拒まれ、銃口を向けられた。その痛みの何倍も痛い、この感覚は。 ぽろりぽろりと、とっくに涸れたはずの涙が頬をとめどなく伝う。熱い熱い熱い、悲しい、つらい。 生きている価値などない、なんて自分だけは思ってはいけないのだとそう信じて生きてきた。それなりに意味はあった。もがき苦しんだ結果を、今なら少しは誇れる。 それでも決して、自分のことを無条件に好きになれたわけではない。どんなことにも手を染めて、波乱の時代を生き抜いてきたことにそれなりに意味を見出せるようになったのは、ほかでもない、愛しい存在ができたからだった。 その一番愛しいものから、イギリスの存在そのものを否定される日がくるなんて、まったく神はなんと残酷で無慈悲なのだろう。 ああ、だがそれでいい。アメリカは「イギリス」という汚いものをすべて捨てて、まっさらに綺麗なまま、あの空のように輝いて笑っていれば。 【それから数十年後のお話】 しゅ、と使い古した羽根ペンの先が、鋭いナイフに削り取られ、机に落ちる。アメリカは、その整えられたペン先に満足して、ホルダーに戻した。からん、と軽く音がする。右手のペンナイフを折りたたみ、その柄にしまった。 使い込んでゆうに三十年は経とうかという柄の白蝶貝の光沢は、贈られた当時の輝きこそ失ってしまったけれど、変わらず虹色に輝く様は身震いするほどの高貴さをたたえている。自分のような幼い身にはまだまだもったいない品だ、と思う。本物の貴人こそが、これを持つにふさわしいのだと思う。こんな駆け出しの若造などでは決してなく。 世の中には、決して越えられない壁というものがある。必死でそれを否定したくて、顔を背けて走り続けてきたけれど、無意識に湧き上がる憧れや劣等感は消しようがない。天性の品位。それは生まれたときから既に決定していて、どんなにあがいても覆すことなど不可能なのだ。 だが、これはほかでもない自分がもらったものなのだから、もう返す気はない。贈った本人だって、このペンナイフの存在など忘れてしまっただろう。その手を乱暴に振り払って、小さくそしてとてつもなく重い贈り物を、まるで紙屑のように窓の外に投げ捨てた時の、彼の泣き出しそうな顔を今でも覚えている。 あの顔を思い出すたびに、ちくりと胸の片隅が痛むけれど、それ以上に、まだ愛されている自分を自覚して、縋ってしまう。そんなアメリカを責めるように、ちゅ、と軽く唇をつけた柄はひやりと冷たかった。 栓抜きだのサバイバルナイフだのが両端についた多機能なペンナイフも多く登場していたが、彼が自分にと選んだのは、白蝶貝の上品な柄の片側に、小さなペンナイフのみがついているシンプルな作り。刃は磨き抜かれて顔を映し、柄は幻想的に甘く白く、とろりと光った。 絹のケースには金糸で鷹が刺繍されている。一目で、彼が自分のために特注させた品とわかる。初めてそれをまじまじと見つめた時分に、アメリカはみっともなくそれを抱えて泣いた。こんな高価なものを、彼は決して子供の自分には贈ってくれたことなどなかった。大切だ愛しているとはいっても、きっと彼は自分をまだまだ子供だと侮っていたのだろう。それが、こんな。 文字を書かない下級層には必要のない、羽根ペンを微調整するための繊細なナイフだ。たとえイギリスが、元植民地の外交文書のみっともない体裁に気を悪くしただけなのだとしても、文具を贈られたという事実がそのまま、まるで大人として認められた証のような気がして嬉しかった。ああ、これを勝ち取るために、そんなことのためだけに、自分はあの人を傷つけたのだ。 胸に抱えた小さな文具があまりに重く、真夜中の霧と涙がしっとりと髪と肌を濡らした。外交用にとあつらえたばかりのスーツの膝は、早くも泥まみれだった。 月明かりも朧気な湿っぽい夜更けに、不安定なランプの明かり一つを頼りに草むらをかき分けて、いくつもの傷を負った。どろどろになって部屋に帰ると、偶然はち合わせてしまったフランスには「いい歳こいて泥遊びか?」と揶揄られ。その時ほど、自分の幼稚さを呪ったことはなかった。カッとなって感情のままに放り投げた彼の人の贈り物。そこにどれほどの想いが込められていたのか、瞬時にはわからなかったのだ。せめてもう少し狡猾に、場所を選んで投げればよかったものを。 彼の傷ついた顔が忘れられず、関係ない関係ないと何度も言い聞かせて寝返りを打ったが眠れない。ついには、物には罪はなかったのではないかと我ながらお寒いこじつけに到達して、ようやっと外套を掴む口実を得た。その頃にはとっぷりと闇は落ち、既に「紳士」が外出する時間でも、庭を散策する時間でもなくなっていた。だが衝動は抑えきれなかった。明日にはもう見つからないかもしれない。あれだけ高価そうな品だ、先に庭師や小間使いに見つかってしまったら、二度と戻らないだろう。 ランプをひっつかみ客間を飛び出したあの幼さの二面性を、アメリカは結果的に捨てられないでいるのだ。彼の人の目の前で投げ捨てて見せたナイフを、なりふり構わず奪還し、今もこの手で慈しんでいるように。 【その数十年前の夜のお話】 その夜、イギリスは正体をなくして酒を煽った。道連れになったフランスには今更申し訳ないの一言も浮かんでこない。 「たかが気まぐれの贈り物一つだろう、受け取るも受け取らねぇもあいつの自由じゃねぇのか。それにお前、どうせまた挑発的な物言いをしたんだろ」 「じゃあ一体どうやって渡せばよかったんだ! 『お前を一人前の大人として認める、だからまた俺に笑いかけてくれ』と、正直に言えばよかったのか! 元植民地にさんざん食わされて笑い物になった、この大英帝国が!」 「……難儀な関係だねぇ……」 ああ難儀さ、難儀だとも。喉を滑るウイスキーも、腹の底に溜まって悲しみを溶かし込んでゆくよう。 「それを言うならあいつだって、『君からこんないい品をもらえるなんて嬉しいよ、ありがとう』とでも微笑んで受け取ればよかったっていうのか? すべてを懸けて元宗主国に反旗を翻した、あの時代の寵児が」 確かに自分にもプライドがあるように、あちらにもあるのだろう。そんなことはイギリスにだってわかっていた。どう口実をつけて心を込めた品を握り込ませようかと、そればかり考えていた。 「あいつは感涙してお前の下賜品なんか受け取れる立場にはないんだ。俺にわかるのはそれだけさ。あいつが内心で何を思ったのかは、俺にも、お前にも、誰にもわからんがな」 「じゃあどうすればいい」 「せめて自分に都合のいい夢を見ていろ。本当は嬉しくて嬉しくて仕方なかったとな」 「……そんな都合のいい話があるもんか」 グビリ、と無理矢理流し込んだウイスキーが喉を焼く。先程から体は火照り、視界は揺れて、ふわふわと心地よい眠気が襲ってきていた。今ならこのまま死んでも構わない。この幸福な酔いが醒め、身を切り刻まれた絶望の感覚が再び戻ってくるその前に。このまま。 フランスはわかっていない。もしも問題がプライドだ体面だと、形式の上での話のみであったなら、アメリカの態度にも少しはほのめかすものがあってよかったはずではないか。ああフランスはわかっていない。これは真にアメリカと対峙し、その瞳に宿った鋭利な侮蔑を直にこの身に受けた者でなければわからないのだ。 あの視線を受けた後で、「本当はアメリカだってなんとか理由をつけてイギリスの歩み寄りを受け入れたいと考えていたのだ」なんて、あまりにご都合主義的な期待にしがみついていられるはずがない。 あの冷たい目。 容赦なく振り払われた手。 まるで病原菌か何かのように投げ捨てられたナイフ。 「アメリカ、アメリカ、あめりか……」 名を呼んで目に浮かぶは天使のような幼子。 まっすぐに自分を目指して駆けてくる、疑いを知らぬ目。混じりけのない尊敬と愛情の眼差し。 自立した子を持つ親にだって、あれこれと一方的に心配したり愛情を寄せたりする権利は残されているというのに、イギリスにはもうそれすらないのだ。もはやアメリカの側から頼ってこないだけでなく、イギリスの関与そのものを、関心そのものを、もしかしたら存在そのものを、全身全霊で拒絶されている。 「おい坊ちゃん、それ以上はやめとけ」 強引に腕を押さえつけられて、ばちゃりとグラスの中の酒が零れる。 「あにすんだよ……」 舌を噛みそうだ、と思ったところで意識が途切れた。最後に聞いたのは、ガタンという盛大な破壊音と、フランスが自分を呼ぶ大声。 その合間に「イギリス」と自分を呼ぶ幼い声が聞こえた気がしたのは、酒精が見せてくれた夢だろうか。 【夢の中のお話】 「イギリス、こんなにいいものを、俺に……?」 ああ夢だな、とイギリスは瞬時に悟った。 果てしなく続く地平線。その表面は柔らかな緑に覆われて、蝶が舞い鳥が歌う。 蝶の鱗粉のようなきらきらした柄のペンナイフをてのひらに乗せて、しげしげと眺めているアメリカは、なぜかイギリスと同じくらいの背丈しかなく、そして宝石のようなブルーを覆い隠す眼鏡もない。 思わぬ贈り物に頬は紅潮し、幸せそうに微笑んでいる。その生意気そうな、けれども愛すべき顔を見て、ああ夢だな、とイギリスは知ったわけなのだった。 「何驚いてんだよ、お前だって、もう立派な大人なんだから、これくらい持ってないとな」 「だってイギリス、今までこんなもの、くれたことなかったじゃないか。いっつもおもちゃだのお菓子だの……」 「それだけお前が、大きくなったってことだよ。しっかりやれよ」 現実のアメリカには、決して言ってやることができないであろう言葉を、大切に大切に紡いだ。 子はいつか大人になる。それが親の悲しみであり、楽しみでもある。そわそわする気持ちを抑えながら、子供から大人への橋渡しを、まだまだ一段上に立っているつもりで、偉ぶった口上に乗せて、寿ぐように、戒めるように。 ああ、それこそが成長を見守るということの、唯一無二の到達点であり通過点であるはずなのに。 「うん! 俺、ちゃんと、一人前の国として頑張るよ! それでいつか、イギリスみたいな大国になるんだ! 誰も飢えることのない、豊かな国にさ」 イギリスにはもう、訪れないこと、赦されないこと。 思わず、大粒の涙が溢れ出て、目の前にいるアメリカの姿もはっきり見えない。 「どうしたの、イギリス」 熱い、熱い。 「大丈夫かい、どうして泣いてるの。誰が泣かしたの」 背に触れた手はいつの間にか大きく節くれだって、すっかり大人の男のそれ。さっきまで高く囀るようだった声は、柔らかく低く。 「俺がいるよ」 いつの間にかうずくまったイギリスを心配そうに見下ろすのは、背の高い、無邪気な瞳を隠す眼鏡の――。 「俺が君を守るよ」 【ほんの少し昔のお話】 「アメリカー、本当にこれ、捨てちゃっていいのかい?」 段ボールいっぱいに詰めた小物の数々を、がちゃがちゃ言わせながらカナダが階段を降りてくる。 「うん、古いものばっかりでちっとも家が片づかないからね……」 答えたアメリカの腕にも、同様の段ボール。 「うーん、確かに今時インク壷は使わないかもね……」 笑ったカナダが差したのは、クリスタル製のペンホルダーだった。まだ万年筆やらボールペンやらがなかったころは、羽根ペンを立てたりインク壺を置いておくホルダーも大活躍していたものだ。 なんだか懐かしい。 「あ、でも一応、後で俺が見てみるから、玄関に置いておいてくれるかい?」 「そうだね。意外とこういうところに、大事なものが紛れ込んでるんだよね」 ここに置くよ、とカナダが振り返ったので、すかさず自身の持っていた段ボールを託す。もう、と呆れた顔をしながら、カナダは受け取ったもう一つも玄関先に置いた。 「その前におやつにしよう」 朝から埃にまみれてなんだか疲れてしまった。意気揚々と踵を返すアメリカに、不服そうな顔をしながらも、ちゃっかりついてくるカナダがおかしい。 「君、さっきから休憩してばっかりじゃないか……」 お茶請けにクッキーでもあればいいな、とキッチンの戸棚を覗くが、あいにく切らしているようだった。 コーヒーにメイプル入れるかい、あーうん、といういつもの問答が始まったところで、玄関の呼び鈴が鳴った。 掃除のために玄関は開け放しており、涼しげな風がそこから吹き込んで気持がいい。 ドアが全開の家の呼び鈴を鳴らすなんて律儀な客人だと思いながら玄関へ向かう。そこに見つけた人物の姿に、アメリカは思わずため息をついた。 「なんだよ、人の顔見るなりため息つくんじゃねぇよ。暇なわけでもお前に会いに来たわけでもなくてだな、スコーン焼きすぎたから」 ずい、と押しつけられた紙袋から覗くのは、少し崩れぎみの例の兵器だ。 「ああそうかいありがたくいただくよ。じゃ」 汚物でもつまむように紙袋を受け取って、にこやかにドアに手をかけると、イギリスは往生際悪くその腕にすがってきた。 「ちょっ、『じゃ』じゃねぇだろ!」 「暇じゃないんだろう? 俺もちょうど忙しかったんだ! 今日中に片づけちゃいたくてね、ああ忙しい忙しい!」 「だ、だからってなぁ、客人をいきなり追い返すなんてどういう教育受けてるんだお前は……!」 「あ、イギリスさん! ちょうどお茶にするところだったんです。どうぞ」 玄関先での格闘に、間抜けな声で水が差される。カナダの一言に、ほら見ろと得意げな顔が憎らしい。ついでに久々に見た太い眉毛も憎らしい。 まあいい、ここで追い返すと後がうるさいだろうから。 「余計なこと言うなよカナダ」 「イギリスさん、すいません散らかってて。アメリカは掃除してるとこを見られたくないんですよ」 「今更だろ」 ふん、とバカにするように言われると若干心外である。まるでいつも散らかしているみたいだ。アメリカはこう見えても、そこそこきれい好きなのである。 「かっこつけたがりなんですよ」 「カナダ!」 余計なことをべらべら暴露して楽しんでいるカナダの脛を蹴って、適当な皿にスコーンを並べる。 どうせだから責任を持って製作者に処分してもらおう。マグカップたっぷりの薄いコーヒーを入れてやると、イギリスは眉をひそめた。 「あ、俺その前にトイレ借りるわ」 何が「その前に」なのか、今まさに食べ始めようという空気をぶち壊して去っていく背中に呟く。 「……逃げたな」 自分でも不味いと感じるのなら、人に食わそうなどと思わないでほしいものである。 「せっかくだからこの間に紅茶淹れてあげたら?」 「やなこった、君が淹れなよ」 「アメリカが淹れた方が喜ぶよ」 「じゃあ俺が淹れたことにするよ」 「そういう問題じゃないだろ」 テーブルの下でつま先をぶつけ合う激戦を制したのはアメリカで、しぶしぶ立ち上がったカナダが食器棚の奥底からティーポットを発掘する間、アメリカは暇を持て余して、スコーンを一口押し込んだ。 彼の料理の腕は相変わらずのようだった。 「ジャムかメイプルを……」 「今僕お茶淹れてるの!」 すげなく断られたが、カナダの言ももっともなので、仕方なく立ち上がったついでに、先程の段ボールの中身を少し覗くことにした。古いもの好きなイギリスが喜ぶ品でも紛れているかもしれない。 そこまで考えて、誰もいない廊下でアメリカは人知れずため息をついた。 イギリスは、アメリカの物など伝統も権威もないと一笑に付すだろう。あの人はいまだに、アメリカのことなど認めちゃいないのだ。 もぐもぐと口にスコーンらしき物体を銜えたまま、ポケットに手を突っ込んで、掃除のどさくさで少し埃っぽくなってしまった廊下を行く。目的の段ボールの前には、既に先客がいた。 何してるのトイレは、と声をかけようとして初めて、微動だにしないイギリスを不審に思った。目を皿のように見開いて、いったい何を見ているのか。 そ、と震えるようにイギリスが、段ボールの中に手を伸ばした。しばらくして、その手が取り出したものは。 なんだっけ、あれ――記憶を探って、はっと目の前が真っ白になった。 まるであの日、彼の腕を振り払ったその瞬間のように。 「俺のだぞ、返してよ!」 握り込んだ右手に、ひやりとした感触。 ぽとりと、口から落ちたスコーンが床を転がる。 「お前、それ……」 これは必然なのか偶然なのか、ああとにかくあまりに無慈悲じゃあるまいか。 「捨てた、はず、じゃ……」 そうだ、この手で捨ててやった。一度は捨てたものを、惨めに這いつくばって追い縋って必死に取り戻した。彼は知る由もないだろう。 強くあらねば気高くあらねばと、心にかたく鍵をして、寄る辺と頼ってきたものすべてに火をつけて。 けれどもたった一つの証くらいは。たった一つの思い出くらいは。 どんどん膨張していく「例外」に、自らの心に偽ることなど決してできないのだと、思い知らされた。 「なんの、話だい、これは、……俺のだよ」 やっとそれだけを言って、踵を返した。もはや言い訳を捻り出す余裕もない。 廊下の端まで転がったスコーンを回収しに行かねばならないのだろうけれど、今は、彼の目を見ることができなかった。 あの日、この上ないほど傷つけて、涙に曇らせた緑の瞳を今、アメリカが再び濡らしている。 あの日救い上げられなかった心を、やっと今。 「……アメリカ? 食べカスついてるよ」 人を傷つけるのが大人じゃない。大人になるということは――ああ、今やっとわかった気がする。 「あぐっ! なんで殴るんだよ!」 大人になったな、と、大きく見開かれた緑の目が雄弁に語っていた気がするけれど、アメリカにはわかってしまった。 自分は、まだまだ、大人には程遠いんだと。 明るいノリ、ですか…?(訊かれても…) 大変お待たせしたあげくに訳のわからないスイッチが入って変な感じの話になりましたが、申し訳ございませんでした! もはや土下座の世界的権威になりつつあります、ごめんなさい。 いつも思いますが彼らのプレゼント事情には本当に頭を悩ませます。時計は前やったし、アクセサリーって感じでもないし、万年筆っていいんじゃないかと思ったら開発したのはアメリカだったりしてもう…! って感じです。陶磁器じゃ投げたとき壊れちゃうし(笑) ツンデレこそ米英の真骨頂ですよね。一見、英がツンデレなんだけど、実は米の方がものすごいツンデレというのが萌える。これはツンツンツンデレくらいを目指しました。 いつもフランス兄ちゃんばっかり巻き込まれてかわいそうなので今回はカナダも道連れです。米と英が揃うと他の人にとっては死亡フラグですネ★ シャケ男さま、大変お待たせして申し訳ありませんでした! こんなズレまくった感じの話でよろしければどうぞもらってやってください…! (2009/4/9)
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