イギリスとのハグは嫌いだ。
 心の奥がざわざわして、落ち着かない。胸をきゅうっと搾られるように切ない。急に自分がちっぽけで無力な存在になったかのように感じる。背を抱くごとに彼と自分の体格差は広がっていくばかりだというのに。
 幼い俺は、それを自立のサインと受け取った。そうして今日でも、イギリスとのハグは苦手だ。



 アメリカはハグが下手だ。
 ハグというのは例えばこうだ。フレンドリーな笑顔を浮かべて、スムーズに近づき、軽く抱き合って背中を叩く。場合によっては頬を合わせてキスをし、さらに体を離した後は相手の目をまっすぐ見つめて握手。
「こら、そこで下を向くな。交渉はここから始まってるんだ、胸を張れ」
「すいません、つい癖でお辞儀をしてしまいますね」
 いつになってもぎこちない日本の挨拶を指導して、俺はふと、アメリカのことを思い出した。
「あいつも、目ぇ合わせないんだよなー」
 いつも――たとえば握手だけをするときはそんなことはない。たとえばそれは何か交渉がまとまったあとだったりするのだが、アメリカはいつだってビジネスパートナーとして頼りがいのある力強い目で、まっすぐにイギリスを射抜く。自信に満ちあふれたその挙動はただひたすら「アメリカ」らしい。
 だがどうしたわけか、そんなアメリカもハグだけは苦手なのだった。足が竦んだかのように途中で立ち尽くすせいで、イギリスが余分に歩み寄らねばならないし、背中に触れてくる手も遠慮がちで緩慢だ。触れられないことすらある。キスはもっと形式的で、頬を合わすことすらなく、アメリカはただ軽く腰を屈めるだけなのだ。そしてその後、決して目を合わせない。
 挨拶もきちんとできないような男は立派な紳士とはいえない、舐められるぞお前、と何度注意しても「また説教かい?」といやな顔をされたのでは続かない。しかもその後、嫌味のように、目の前でフランスと完璧なハグを交わしてみせた。できるなら最初からやれ。
 ここまでくると嫌われているとしか思えない。ただの形式上のあいさつで、そこまで露骨にやられると、なんだかどころでなく相当惨めになるのだが、その後は普通に笑顔を向けられたり「お腹が空いたぞ」と甘えられたりするのだからよくわからない。


Hug and Kiss!!


 東京。
 残暑の影も薄れ、しばらくは冷たい雨雲が空を灰色に染め上げていただけに、久々の秋晴れは心地が良かった。
 スーツ姿で多少走ってもべたつかない。いいですねぇ、と日本はもう一度、さえ渡る青空を見上げ、ホテルのエントランスをくぐった。
 すぐ中で、会議机を運ぶ顔見知りの官僚たちに出会った。
 会場である部屋に入れば、これまた黒い集団がせっせと、花を飾ったり水を用意したり席を数えたりと忙しなく働いている。
 会議の開始まであと十分ほど。準備は遅れ気味だと言うべきだが、時間通りに来ない国の方が多いくらいだから、まぁ構わないだろう。
 そう考えているうちにドイツが現れて、二人はいつものように握手を交わした。
 彼が「ドイツ」と書かれたプレートの前に座ると、官僚たちは慌てたように撤収の準備に入る。床にぽつんと残されていた養生テープを、そっと放って渡してやると、見事キャッチした若い女性は軽く会釈して去っていった。それで準備班の姿はすっかり見当たらなくなる。
 日本は手の中の資料を確認し直し、「日本」と書かれた議長席に座るべく歩を進めた。手元の資料に気を取られ、会場準備の状況をきちんと確認しなかったことが、事の始まりだった。しかしその程度のこと、果たして日本が責められるべきだろうか。
「あれっ、僕の席、ここですか?」
 ふと素っ頓狂な声を上げたアメリカを、日本のみならず隣の席にすでに着いていたイギリスも不思議そうに見上げる。
「ええ、そこですよ」
 またアホなことを言い出した、と大して取り合わなかったのが今思えばまずかった。そもそも英語には「俺の席ここかい?」と「僕の席ここですか?」に明確な差異がないことが問題だと思う。あったとしても日本にわかるはずもない。
 隣のイギリスでさえ、座席のプレートを確認してみようともせず「アメリカはいつも俺の隣だから」で流したのだから、日本が責められるいわれはないのだ。
 事件はその、十分後に起こった。


「なんだいコレ、なんで俺がこの席なんだい?」
 開始時刻五分後に入ってきたアメリカが、半分ほど埋まった座席を見渡して、むすっとした不機嫌な声を上げた。叩きつけるように「アメリカ」のプレートをこちら側にひっくり返して。
 まったく遅れてきてうるさいことこの上ない、待て、アメリカはさっき――。
 思考が追いつかない日本を置いて、アメリカは、さっとイギリスの隣に座る人物に視線を走らせた。
「なんでカナダがそこにいるんだよ! イギリスの隣はいつも俺の席だろう?」
「え、え、だってここだって、書いてあるし……日本さんだってここだ、って」
 ああ、席票の置き間違いだ、と日本は即座に状況を悟った。席順にも慣例やらなんやらややこしいことがつきまとう。座席表はそうした不文律に通じたベテラン官僚たちの手によって作られ確認していたはずだが、現場でのミスというのはよくあること、たいていは不問に付すべき些細なことだ。せめて間違えたのが他国なら、十分前に穏やかに修正がきいたのだけれど、アメリカとカナダの取り違えでは気づくのが遅くなる。
 大国アメリカがこれほど大声で不快感を露わにしてしまったのでは、「穏便に」取りはからうのはもはや難しいだろう。
「こちらの手違いです。直しますから」
 それでも食い下がるべく、「穏便にお願いしますね」という空気を全身から漂わせてみるも、フリーダムの申し子に通じるはずがなかった。
「だってさ。ほら、どいたどいた!」
 立ち上がりかけていたカナダをどん、と突き飛ばす。
 その傍若無人ぶりに、はけ口を求めていた日頃の鬱憤がついに爆発してしまったのも、実にタイミングが悪かった。
「おい」
 隣のイギリスがその行動を軽くたしなめるが、日本に言わせれば甘すぎてお話にならない。
「まったく、二度と間違えないようにしてくれよ」
 どすんと腕組みをして着席した姿にふつふつと殺意すら沸いた。今この公衆の面前で、もっとも彼が言及されたくない公然の秘密を暴いてやろうか。
 いったん思いついてしまうと、その報復は実に甘美だった。温厚な日本といえど激怒することはある。とにかくこの若造にぎゃふんと言わせてやりたい気分でいっぱいで、頭に血が上っていた。
「いい加減にしてくださいよ! いつもいつも! いくら好きだからって、別に付き合ってもいないのに、他人に迷惑かけないでください!」
 思わず、イギリスを挟んで隣のフランスが噴いた。
 アメリカはしばらく、言葉の意味を咀嚼するようにぽかーんとした顔をしていたが、やがて理解に達したのか、カッ、と顔色を変えた。
「好きって、何言ってるんだい! 俺はいつもここに座ってるから落ち着かないだけで」
 その、動揺しきり、憤懣やるかたないといった顔にいくらか溜飲を下げて日本はすとんと腰をおろした。
「どうだか」
 うん、いくらかすっきりした。ざまあみろ。
「ほんとに、そんなんじゃないだろう……意味が分からない……」
 しかし、アメリカは想像したのとは違って、照れたり必死に気持ちを隠したり、ではなく、困惑しきっているように見えた。まるで世界中の秩序がすべてあべこべになってしまったかのような、純粋な戸惑い。
 ああ、これはひょっとしてひょっとすると――。
「自覚なし、ですか」
 ガキ大将の幼くも根深くやっかいな恋は、思っていた以上にタチが悪かったようだ。
 深いため息を吐く数カ国の中で、ただ当人のイギリスだけが、「何の話だ?」とフランスに耳打ちしては、周囲を冷や冷やさせている。
「あの、いつもそうなんだよ」
 いつの間にやら席を追いやられて途方に暮れたカナダが背後に立っていて、二人の「元家族」を愛おしげに眺めていた。
 ああ、こんな立場にだけはなりたくない、と日本は思った。



 会議はいつも通り、何事もなく、とは言い難い状況で休憩を迎えた。主張の強い各国で揉めるのが常の姿なのだから、紛糾しているこれが「いつも通り」なのである。
 今日は珍しく日本の機嫌が悪そうだった。だがそれも最初だけで、次第にいつもの、諦めきったようなうんざりしたような顔つきになっていったので、本当に彼の思考回路はよくわからないなぁ、とイギリスは思う。言いたいことがあるのなら言えばいいだろうに。諦めるのはその後でいい。
 ふと、会議前に日本とした他愛もない会話を思い出した。
「恋人同士でしかハグとかキスとかしねぇ人生って、切ないよなぁ……」
 何気なく呟いたつもりが、あいにく隣のベンチには憎きフランスがしたり顔で座っていた。
「おまえホント……なんつーか人肌好きだな。ま、アジア圏はそういうとこが多いよな。王族の体に触れるのは禁忌みたいなな」
 フランスの失礼千万な発言は無視をして、日本ももっと、体でぶつかり合うことを覚えたらいい、と思う。
「家族同士でも、触れ合ったりハグしたり、滅多にしないんだろ? 悲しいよなぁ……」
 イギリスはそんな人生を想像してみた。かわいい子供や愛する配偶者と、おやすみのキスやハグをしない人生――ああ。
「お前、アメリカでしょ、今アメリカを想像したでしょ」
 ちょうどそこへ、当のアメリカが通りかかった。噂をすれば影、というやつだ。
「あ、アメリカ」
 しかしながら、相当憤慨した様子で早足に進んでいくアメリカは、こちらに気づいていない。さっきまで日本もそんなカリカリした様子だったから、また一戦やり合ったのかもしれない。
 ――あいつ、無駄に人がいいから、日本にそういう態度に出られるなんて思ってもなかったんだろ。かわいそうになぁ。
 まぁ八割方はアメリカが悪いのだが、それがゆえにアメリカだ、としか言えないような性質のもので。
「がーって行っちゃえよ。ハグしてもらえ」
 隣のフランスが、ニヤニヤと含みのある顔で囁いた。
 しかしそんなことはどうだっていい、どうせイギリスは親バカで兄バカだ。もう十分、この隣国には知られてしまっている。
「むっちゃ不自然じゃねぇか? この流れ」
「行ったもん勝ちだって、挨拶だろこんなん。ほら、腕を広げて、笑顔で、――アメリカ!」
 大声で呼ばわってくれやがった。すぐに憎き髭面にアッパーをお見舞いしつつ、イギリスは傷心のアメリカを慰めるべく笑顔を作る。しかしながらこちらを向いたアメリカは、すぐに、もっと怒ったような顔つきになった。
「すっ、好きなんかじゃないぞ!」
 叫ぶなり脱兎のごとく、イギリスたちとは反対方向へ走り去ってしまった。
「は……?」
「なんだ、アレ」
 ちょうどハグの話をしていたからか、無意識に、中途半端に開いたままになっていたイギリスの腕を、フランスはつまらなそうにはたき落とした。
「切ねぇな」
 ぽん、と調子に乗って頭に乗せられた手を、今度はイギリスが乱暴にはたき落としてやったところで、今度はいくらかスッキリした顔の日本が現れた。イギリスたちを認めるなり、軽く頭を下げる。
「何のお話を?」
 にこやかに歩み寄ってきた日本に、アメリカと一体どんな言い争いをしたのか問いただそうとしたところを、突如口元を覆った手に阻まれる。無論犯人はフランスだ。
「挨拶の話だよ、なぁイギリス!」
「もっ……もがもがっ!」
 噛みついてやろうと顎を開くも、なかなかうまくいかない。日本はそんな様子など気にも留めず、はぁ、と相づちを打っている。
 かくして、一部始終はすっかり暴かれた。
「……私には、ハグだけ許されていることの方が切ないように思えますが」
 ようやく発言権を認められたイギリスは、日本の不可思議な発言に首を傾げる。
「よくわからないんだが」
 そうですね、と日本はしばし、考えるようにした。
「たとえば好きな人がいるとして、その人とは結ばれないことがわかっているとします。こんなに近くで、触れて抱きしめることは許されるのに、その先は許されない。まったく触れることができないよりも、その心境はずっと複雑なはずです」
 ああ、確かにそうだろう。その仮説を想像して、きゅうと胸が締めつけられる心地がする。
 きっとアメリカがぎこちないハグしか返してこないことに傷ついているイギリスの心境に近いものがあるのだろうから。
「……考えたこともなかった……なんていうかアレだな、日本は感情の機微に敏感だな」
「いえ、たまたまそういう人を知っているだけですよ。ねぇ、フランスさん」
 感心したイギリスに、なぜか日本は苦笑して、フランスへ意味ありげな視線を送った。
「あ、ああ!」
 自分だけが話についていけないことがなんだか悔しい。その鬱憤は自然とフランスに向かう。
「なんだよテメェ……まーた一人で年上気取りか?」
「だってお兄さん年上だしお前みたいに鈍くないも……ってて! ネクタイ引っ張んなよ!」
 吐け、と何度首根っこを掴んで揺さぶっても、フランスは騒ぐわ日本は笑うわで、とうとう教えてもらえることはなかった。



 アメリカはもう何度目か、頭の中で「love」という言葉を繰り返していた。
 ――好きだって? この俺が? あんな人を!
 想像するだに憤懣やるかたない。この憤りをいったいどこにぶつければよいのだろう。
 確かにイギリスはアメリカのよき理解者であり協力者だ。彼なしで、自分がこの国際社会で立ち回れるのかといえば、できなくはないがとても苦しい、と答えるほかないだろう。
 幼い頃、右も左もわからなかった自分をよく守りよく助けよく育ててくれた温もりも、まだ覚えている。
 ヒーローは決して恩を忘れたりはしない。
 だからといって、まるで好きな子の隣の席を分捕るガキ大将のようですよ、とは何だ。
 元はといえばあちらのミスなのにあまりに暴言が過ぎる。
「好きだっていうなら、あの人の方だ」
 知っている。あの人がいつも、アメリカの送るぎこちないハグに傷ついた顔をしてみせること。
 それは、手塩にかけて育てた子への愛情を超えた、何か体の奥から沸き上がる、思慕のようなものに感じられるのだ。
 よし、そうだ。
 アメリカは最高の悪戯を思いついて、サッと身を翻す。
 アメリカがイギリスのことなど何とも思ってないということを、平然とイギリスをからかってやる様子を見せることで、日本にも納得してもらうのだ。
 思い立ったらすぐ行動、という良くも悪くもある癖で、早足に来た道を戻った。先ほどは目の合ったイギリスに何やら叫んで走り去ってきてしまったが――もはや何を言ったのかすら覚えていない――、今度はそんな失態は犯すまい。
「やあ、イギリス」
 にこやかに手を挙げて歩み寄ると、イギリスは何の疑いも抱いていません、という間抜けな顔で振り返った。
 運悪く、見せつけてやる予定だった日本やフランスはおろか、その場には他国が一人もいなかった。つくづく孤独な人だ、かわいそうに。
「お前、さっき日本と何があったんだよ。なんかみんな知ってるみたいなのに俺だけ知らねぇし……腹が立ってきたから出てきてやった」
「うん、あのね、イギリス」
 頼りない肩に手を置いて、逃げられないように牽制する。もっとも、イギリスはアメリカの思惑などこれっぽっちも気づいていないようだった。
 どうしてこんなに緊張するのだろう。ただのイタズラのはずなのに。
 深く息を吸い込んで、えいっと。
 細い体は想像よりもすっぽりと、腕の中に収まった。
 温かい、柔らかい。
 体中の血が逆流したみたいだ。頭がぐるぐるして、手が震える。どうしてだろう、ただのハグのはずなのに。
 ああ、ずっと前から予感はしていた。
 なぜアメリカが、イギリスとのハグを苦手とするのか――。


 けれど、予想だにしなかった感情に驚いていたのは、アメリカだけではなかったのだ。自身の感情に翻弄されて、なかなか思いやれなかった腕の中の震える体に、初めて気づく。
「……イギリス、きみ……」
「なん……っ、なん、こんな……っ」
 イギリスは泣いていた。真っ赤な顔からぽろぽろ、まるで壊れた蛇口のように止まらない。
「ただの、挨拶じゃないか……ただのハグだよ。君がいつも、ちゃんとしろっていうから……」
 説得力などない。きっとアメリカの顔は真っ赤だ。けれどそれ以上にイギリスの顔は赤かった。
「じゃあ俺っ、おれが、おかしいのか? こんな、こんな……お前に抱きしめられただけで、胸の奥がぎゅうっと熱くなって、もっと、もっと……」
「……もっと、何?」
 促す声は喉の奥から絞り出した。
 聞かせてほしい。きっとそれは二人の間に引かれた一線を越える、何か。
「言えねぇよ……バカァ……っ!」
 イギリスは心底混乱しているようだった。その混乱には覚えがある。
 それはたった数分前の。


 ああ、挨拶のたびに二人を隔てていた見えないガラスがひび割れた瞬間、二人にとって世界は、まったく未知なるものに姿を変えてしまった。
 気づいてしまえば、もう戻れない。


「お前は、大切な、弟だ」
 自分に言い聞かせるようにイギリスが呟いた。
「弟にハグされたら、こんなふうになるの?」
 卑怯な問いかけだと思った。フランスに聞かれたらきっと笑われてしまう。
「ねぇ、キスもするよ? いいだろ?」
 兄弟のキスじゃないよ、とは、言わなくても双方了解していた。



「最初はグー、じゃんけん……」


 その頃、壁の向こうで日本の提案した「公平」な勝負に見事負けたフランスは、そろそろ会議が再開されるという事実をいかに伝えるべきかと、真剣に頭を悩ませていた。
「ああ、お兄さんいい加減こんな役回りいやだなぁ……」
「おいしいポジションですよ」
「お兄さんは今、そう思うなら行ってほしいなぁーという気持ちでいっぱいです」
















 大変お待たせしてしまって申し訳ありませんでした!
 この鈍感コンビの複雑な気持ちの変遷は米英の醍醐味の基本ですよね!! 何度やっても萌える! という…!
 西欧人の挨拶の仕方は国や地域によって違いがあるそうですが…難しくてよくわかりません…勉強します…
 いと様、リクエストありがとうございました!


(2008/10/25)



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