英雄不在



 新大陸、十三植民地独立――衝撃の歴史的節目から早十数年、太陽の沈まぬ国スペイン、オランダに次いで、気高き女王のもと、その地位を不動のものにしてきた海の覇者、大英帝国の精神的打撃は、すでに過去のものと成り果てようとしていた。
 1805年、因縁の睨み合いを続けた隣国同士、いつも通りの小競り合いも、片方が大勝すれば、いい酒の肴になる。
 そんなわけで、大英帝国様の機嫌はすこぶるよかった。
「見たか? フランスのあのマヌケ面!」
 ハハハハハ……と野卑た雄猛びで闇を揺らしながら、温い安酒をストレートで煽る。杯を下げればテンポよく液体が注がれ、その繰り返しはしばらくやみそうになかった。
 大勝で気分のよい部下たちも、それ以上にタチ悪く酔う上司を、さっさと潰してしまうことにしたらしい。
「あんななよなよしたお貴族様気取りが、俺様に勝とうなんて百万年早いんだよ! 何がナポレオンだ! 何がラファイエットだ!」
 一際大きく叫んで、栄華の象徴、我らが祖国はそのままふらりと仰向けに倒れた。倒れたというよりも、その場で寝るつもりらしい。
「ざまぁみろ……」
 口の中で転がした呪咀は、アセトアルデヒド特有の甘さを帯びている。
「テメェなんかに、もう何も渡すもんか……」
 もう何も。
 胸を押し潰しそうになる喪失の記憶。
 温かい笑顔。全幅の信頼、愛情。
 もう何も失わない。信じた秩序も、勝ち得た覇権も。
 そうしていれば、少なくともこれ以上惨めになることはないだろう。
 鬱々と胸に渦巻く呪怨を、どこにぶつければいいかわからないでいる。けれど考える間もなく世界は回るのであり、休んでいる暇などない。その瞬間に、食われる。
 いつからこんなに、時代のスピードは速くなったのだろう。
 ついていけない、考える暇がない。落ち込んでいる暇も、修正を試みる暇も。



「お前のママンは相変わらず、鮫のように凶暴だ」
 満身創痍で現れた貿易相手を、アメリカは、顔色一つ変えず、口角を上げるだけで迎えた。
「よかったじゃないか」
「よくない、全然よくない」
 次々と運び込まれる銃器や火薬、鉄材を横目に見ながら、フランスは激しく首を振る。どれも彼にとっては喜ばしい品々のはずなのに、ちっとも嬉しそうでないこの大人が、アメリカにはつくづくわからない。
「わざわざ、イギリスにいたぶられたかったんだろ?」
 ああ、イギリス。
 あの忌々しくも懐かしく愛しい元宗主国、あてつけのように、独立後のアメリカとは、あっさりした貿易を続けるのみ。
「お前の中で俺、どういうキャラなの?」
「変態」
「あっさり切るな……。だいたい、あいつがあそこまで凶暴なのも、お前に逃げられたせいだろ、少しは責任取れよ」
 割引しろ、と軽々しくフランスはそのネタを口にしたけれど、アメリカにはそれに返事をしてやる余裕はなかった。
 ざくり、と心臓を抉られたかのような痛みに、ただただ顔をしかめて耐える。
 彼を、傷つけるつもりはなかった――伝えたい言葉は届かないまま、口に出す資格もないのだろう。
「酔狂だよ。――世界を手に入れるの? イギリスも?」
「……そのつもりだったけど、返り討ちに遭っちまったからなぁ、進路変更」
 やれやれ、とフランスは頭に巻かれた包帯の境目を掻いた。
「どうして?」
「憧れるだろ? あの辺の奴ら、目ざわりだと思ってたしな。それに、上司が気に入ってる自然国境説っていうのもなかなか斬新で合理的だと――」
 虚勢を張るように、普段の調子そのままで言う様子が、まるで独立直前の自分のようだと、アメリカは思う。
「……君が言ったことがね、今になってよくわかるよフランス」
「あ?」
「俺を止めたろう、独立前に。自由を、広い世界を夢見て殻を破っても、そこには何も、ありはしないと――」
 何もなかった、とは言わない。
「俺たちは、幾重にも息苦しい殻に覆われているんだって。決して楽園はそこにないんだって」
 確かにアメリカは大きなものを手に入れた。独立国として、彼と対等に対峙できるという喜び。自らの裁量と責任で未来を選び取れる立場。
「……言ったかな」
 フランスは急に口を噤むと、ぽりぽりと髭を掻く。大人はいつもそうだ。正しいことをきちんとわかっていて、人にばかり説教するくせに、いざ自分のこととなると、知らないふりをする。
 嗤いそうに、なった。
「君の目指す先にも、何もないと思うよ」
 何もなくはないだろう。けれど、ぽっかりと胸の中に空いた穴は、一生埋まらないのだろう、と思う。
 ひょっとしたらフランスには、アメリカに言われるまでもなく、そんな穴がすでに二も三もあいているのかもしれない。ああ、そしてイギリスにも?
 自分の開けた穴が一番大きければいい、どこかでそう思う自分が嫌いだ。
「後悔してるのか?」
 大人びた、同情の笑み。
「……してないさ。してるわけがないだろう?」
 笑った、つもりだったが、口元が歪んだだけだった。
「今が一番辛い時期だな、……お前にも、あの坊ちゃんにも」
 ぎりりと拳を握り締めて、アメリカは踵を返した。
 ――今が?
 この痛みが、薄らぐことなどあるものか。たとえあったとしても、アメリカはそんな自分を許すことはできないだろう。
「もう行くよ。毎度あり。また注文待ってるから」
 薄らぐな。
 イギリス、君は永遠に、その痛みを覚えていて。そして苦しんで、あがいて、精一杯に。
 ――どうせ俺が、忘れられないのなら、せめて君も。
 この心の奥の穴と、君の穴が、つながっていればいいと、そんな暗く儚い妄想を、した。



「……ハハッ、今度こそ、観念しやがれ」
 ぜえはあと、自身に馬乗りになって、首筋に刃を押しつけてくる見知った顔を、フランスは笑いながら見上げた。
 1815年、フランス、ワーテルロー。
 脱獄したナポレオン1世が復位し、落ち着きを取り戻したかに見えたヨーロッパ諸国に再び震撼が走った年である。
「らしくないね。そんなに消耗するほどお前がマジになるなんて」
「るせーよ、負けたくせに余裕ぶっこいた発言してんじゃねぇ。マジでこのまま首ぶった切るぞ」
「やめてやめて! お兄さんもう本当に満身創痍だから」
「自業自得だばーぁああか。ヨーロッパはもう、お前のせいでめちゃくちゃだよ……」
 みんな、疲れてんだ、一回で倒されとけよ。往生際悪ぃな。
 むちゃくちゃなことを言って、イギリスはようやくフランスの上からどいた。がちゃん、と重たい甲冑が悲鳴を上げる。
「アメリカと……完全に別離した?」
 書類上は独立しても、まだまだその生活をイギリスに大部分依存していたアメリカ。また、目の上のたんこぶとしての北米植民地カナダにも、アメリカが神経を尖らせていた頃である。この段階までは、復縁の余地は、十分にあったと言っていい。
 しかしながら今回のヨーロッパを騒がせたフランスの英雄ナポレオンの登場で、フランスの貿易封鎖を狙ったイギリスとアメリカは衝突。二度目の戦争に突入した。
「誰のせいだ。誰の……っ」
 草に頬をなすりつけるようにして、イギリスはため息を吐いた。たぶん、泣いているのだろうと思う。
 こいつは本当にフランスと同じ生命体なのだろうか、と思わせるような獰猛ぶりで人の命を狩りに来たくせに、もろいもろい穴を抱えたままなのだ。
 昔から。
「お前のせいでしょ?」
 彼は昔から、弱い。
 世界を揺るがせるくらいには強くなった今も、それは変わらない。信じては裏切られ、ひとりで、たったひとりで、いつも。
「ああ、星条旗が見える」
 夜空に手を伸ばしてイギリスは言った。
 よくよく見れば彼は額から肩から血を流しており、流れた血が髪にからまって固まっている。金色の髪はくすみ、ぜえはあと荒い呼吸は収まりそうにない。
 声をかけようと思ったフランスの体を、戦勝の報に駆け付けた諸国が取り押さえた。
「歌が、歌が聞こえる」
 無理やり引き起こされて、後ろ手に縄がかけられる。
 ああ、フランスの挑戦もまた、終わった。
 抗えなかった、フランスも、そしてイギリスも。運命という楔には。
「イギリス」
 イギリスはまだ地面に寝転んだまま、フランスを見ようともしない。
 ああ、彼が戦っていたのは誰だったのか。
 きっとフランスではない。
「まだ風に翻って、あそこに」
 抗えない運命そのもの。出会いがあり、別れがある、理解があり、相克がある、拘束があり、自由がある、限界があり、夢がある世界。
「――旗が」
 Oh say, does that star-spangled banner yet wave.
















 せっかく私の歴史モノが好きだとおっしゃってくださったのに、また意味不明なモノローグ雰囲気小説になってしまいました…orz
 あれこれ調べたのが全部ムダですよ!
 ナポレオン戦争は、個人的に米英戦争につながったってとこがポイントだと思ってます。
 米英戦争といえば国歌誕生のエピソード…何度考えてもきゅんきゅんします。アメリカは本当に魂かけて独立したんだなぁ、って思うと涙が止まらない、です!! アメリカ大好きだ!!(どさくさで告白)
 白梅さま、リクエストありがとうございました!!


(2008/8/30)



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