※エジプトさんの性格や喋り方がすべて捏造。なんか、不思議系なんだと思う。
※お使いの環境によってアラビア語が左右逆に表示されることがあります。申し訳ありません。
外資系の小売店が軒を連ねる華やかなイスタンブルの街の一角は、日が暮れてアザーンが響いてから久しいというのに、活気に満ち溢れていた。別段こんなものはカイロにだってイスカンダリーヤにだっていくらでもある、と思うのだが、だからこそかえって、外国人たる自分がこうして暢気に歩いていても、なんだか安心できるのかもしれない。
一昔前には、あるいは、欧米化された都会の大通り、オフィス街を離れれば、ガラベイヤの長い裾をなびかせ、タキーヤを被ってクフィーヤを巻くこともある。やはり一番楽だし気候にも合っている。
しかしいかんせん、他国でおいそれと出自を明かすのはよろしくない。何せ自分は長いことイギリスのやり方も見ていたのだし、普段は観光客プライスで物を売りさばく自分だからこそ、ビジネスなどのシーンで国外へ出る際には、見た目にも気を使った。
今も短く切り揃えた頭を晒して、綿のシャツに黒のスラックスという出で立ちで、夜遊びに繰り出した若者たちの間に混ざる。自国にいる時だって、きっと9割はそういう、まるで個性のないありきたりな格好をしている。もちろん外国人を相手に、ここぞというときなりの演出というものだって持ち合わせているけれど、しばらくそういった来客の予定もない。それに、結局はやはり女性がスカーフでも巻いて出て行った方がよほど喜ばれる。こればかりはどうにもならない、それがこの世の定めだ。
話は逸れたが、自分は見た目的にももちろんそうだが、心だって大分若い、と思う。普段は外国人相手に母の遺した偉業を見せて回ったりしているから誤解されがちだが、大変にナウなヤングなのだ、そうだ、石油だの何だの舞い上がっている湾岸の奴らには決して負けない。
観光だろうかビジネスだろうか、いかにもコテコテの「アラブ人です」という装束を引きずって歩く金持ちそうな五六人の男性とすれ違って、思わずため息が漏れる。
「おぅ、エジプトじゃねぇか、何ボーッとしてんだ」
聞き慣れた声が背後からかかって、まぁ顔なぞ見なくとも相手は知れていたが、振り返るとやはり相手はこの国そのものだった。
基本的に「国」として公式の仕事をこなす際には白い仮面を着用していることの多い彼だが、まぁ一体何のためにそんな奇妙奇天烈なことをしているのかは、今日まで何百年と見てきたが、依然として知れない。そのうち不思議にも思わなくなった。
だがしかし善良な市民の皆様は当然そうではないだろう。彼もそこまでバカではない、今日も至って普通の、まぁぶっちゃけてしまえば自分と同じような格好をしていた。唯一違うのは、青いネクタイがピンで止められることもなく揺れていたことだろうか。暑いのか、スーツの上着を肩にかけている。こうしていると、まるっきり普通のビジネスマンだ。
剥き出しの顔は、始めこそなんだか緊張するが、三分も一緒にいれば違和感なく眺め回せるようになる。
「珍しいな、こんなとこでよ。仕事か?」
「いや、特には。ああ、ちょうどよかった、せっかくこんなところまで足を延ばしたから、トルコでも捕まえてお茶にしようと思ってたところで……」
「悪かったなこんなところでよ、まぁ、そういうことなら家でも来るか?」
なんだかんだいってこの男も来客好きだ。一人身のくせに、まるで後ろから奥さんが出てくるのではないかと思わせるような、隅々まで気の行き届いた家に住み、突然押しかけても食べ切れないほどの料理でもてなしてくれる。彼曰く、しっかりしないと近所のおばさん連中がうるさい、のだそうだ。
我々「国」という存在は、こういうとき少し、やはり他の人々とは異なっているのだろう、と思い知らされる。国の民は家族を愛し、大所帯でわいわいと暮らしているし、それが当たり前で、それ以外は有り得ないのに、自分たちにだけは「家族」はいない。
結婚をするなら、相手の親族が納得するよう、もちろん彼女を一生愛し、幸せに暮らせるようにしていかなければならない。けれど事実上、人と同じスピードで年をとっていけない自分たちには無理な話だ。結婚せずにパートナーを作るだなんてことは、異教徒相手なら可能かもしれなかったが、ムスリマ相手には言語道断。
仕事で出会う仲間も、仲良くなった友人も、自分に「婚約者」がいないと知れれば、ならばうちの妹を、娘を、などと明るく提案してくれることは多かったが、そういうわけにはいかないのだった。聖典に記されていない、国の「具現」という摩訶不思議な範疇外の生物である我々は、普通に人々と交流しようと思うだけでも、壁を感じることが、結構多い。ああ神よ、どうしてこのように我らをお作りになったのか。せめて母がまだ生きていれば。父がいて兄弟がいて、「家族」の体裁が整っていれば、もっとすんなりと彼らの中に溶け込んでいけた。時代時代に、私の置かれた状況を理解して、親代わりを演じようと申し出てくれた人々もいた。それは大抵、仕事場で出会い、私の立場を正しく理解している政府高官であったりしたのだが、そういう理解者がいるときには、毎日の生活はとても幸せだった。友人に、彼らが私の家族だと紹介し、彼らの家で共に友人をもてなし――たとえ私の見た目が相対的に遅々とした変化しか遂げなかったとしても、それはまるで「普通」の人々のような、当たり前の交流だった。自分が素性を明かさぬ時に名乗る「グプタ・ムハンマド・ハッサン」の、「ムハンマド」も「ハッサン」も、元はといえばそうした居場所を与えてくれた彼らの名だった。
そうした「理解者」「協力者」がいない――たとえば今のような――時には、親は病気だなんだと嘘をついて、人間関係も自然薄弱にならざるを得ない。だって私が「国」という、少し変わった存在で、彼らのようにいつも家で温かく帰りを迎えてくれる存在などいないのだなどと、気軽に解説するわけにはいかなかったし、したところで理解もされなかった。
だからそういう時分には、自然と「同類」同士の行き来も多くなる。用もないのに国外へ出て、招かれてもいないのに客人然として、それなりに歓迎を受ける。逆もまた然りだ。まるで普通の「友人」のように。
近すぎる国も落ち着くけれど、ウンザリする時だってある。そういう時は少しだけ足を延ばして、海を越え、ヨーロッパの空気に浸ることにしていた。自分がここにいる理由なんてきっと、それだけで十分だ。
きっとトルコだってわかっているし、同じように感じている。
人々が家族睦まじく、わいわいとやっているのを見るのは、本能的に至上の喜びとして我が目に映る。だからといって、ほんの少しのささくれのような、じわりと胸に広がる寂寞感は、ひとたび自分と彼らは「違う」のだ、ということを意識してしまえば、簡単には消えなかった。
だからトルコは顔を隠すのかもしれない、なんて唐突に思った。どこにいたって浮くに決まっている異様なファッションは、自分が「国」という「違う」ものである証。わざとそれを際立たせることによって、ひとたび仮面を外したら、一人の「人」として違和感なく、あの温かい場所へ溶け込んでいけるのだ――そんな錯覚に酔い痴れるための。
じろじろ見ていたのが気になったのか、トルコは不思議そうに片眉を上げ、それでもやはり「ちょっと見てぇ雑誌あっから本屋寄ってくわ」とどこまでも気安かった。政治も経済も文化的衝突も抜きにしたこういう態度を、時に自分たちは求めている。こういう時はどんな国だって必ず空気を読んだ。いや、そういう言い方は適切でないのかもしれない。いわばどこかに、切り替えスイッチがある。
国として、多くの人々の幸福と利益の責任を負っている。同時に、彼らの生き様がそのまま自分に跳ね返ってくる。すべて運命だ。思い通りにならないことなど数えるのもばかばかしいほど、自分がどうしたいのかすら、わからないときもある。戦うこともあるし、騙すこともある、搾取することも、利用することも、無視をすることも、辛くあたることも。それでも畢竟、彼ら以外に「同じ」存在はないのだ。
人型で生まれたことの意味が、当たり前の「人」のような安らぎを求める、この感情なら。
恐らく普通の人間には理解できないであろうその切り替えスイッチが確かに存在して、我々にはすんなりと受け入れられるという事実も、何ら不思議ではないのかもしれない。
そうだ、「国」は「人」が作るものだから。そして「国」も「人」を作る。だから国は人より小さく、人と等しく、人より大きい。
「おいおい、聞いてんのか? 考え込むのはあのガキだけにしてくんな」
かつて帝国の支配層にあったこの男と、何かと意識し合うことの多い地中海の向かい側の「国」のことを言っているのだとはすぐにわかって、大仰につかれたため息に、思わず笑みを零した。恐らく本人が聞いたら、あの美しい眉を思い切り子供のように顰めるに違いない。
何でもないから思う存分本屋に行って来い、と言おうとした矢先、トルコの背後に見知った影が見えた。噂をすれば、というやつである。
私と目が合った途端、挙動不審に辺りを見回している。恐らく隠れる場所を探しているのだろうと思うが、生憎と今日の私は同類同士のふれあいというやつに飢えていた。何の用もないのにたびたびトルコのもとを訪う仲間として、彼とはまぁそれなりの高確率で遭遇する。今更何を隠れようというのか、私にはさっぱり理解ができなかったし、考えようとも思わなかった。思うより先に、声を上げて彼を呼んでいた。
このような街中で、たとえ誰も他人に関心などないとはいえ、大声でこの国の隣国の名を叫ぶのは憚られたので――都会のど真ん中で珍しくもないとはいっても、やはり外国人はそれ相応の注目を集めるものである――「ヘラクレス」と呼んだ。
私の視線の先を振り返って、トルコの口元も嬉しそうに歪む。
国の「寂しい周期」というのは被るのかもしれない。世の中うまくできている。
ところがギリシャの方は、普段のんびりした表情が一転して、如実に「見つかった」という心情を表していたので、おや、と思いながらも特に気には留めない。彼がトルコに好意的な態度を示すこと自体が珍しいのだから、ネガティブな態度はむしろ普通なのである。
「なんでぇお前ぇ、偶然だなぁ! 今からエジプトと茶ぁすんだ、お前ぇも来いや」
いつまでも遠巻きにこちらを眺め、近寄って来ようとしないギリシャを、トルコの方から強引に引き入れる。トルコも大概、ギリシャの扱いに慣れている。
「俺は……暇じゃないんだ、離せ、バカトルコ……」
「ハァ? 暇じゃないだぁ? どの口が言うんでぇ? エェ?」
しかしいつもは社交辞令とばかりに決まったトーンで憎まれ口を叩きながらも結局最後はついてくるギリシャが、この日ばかりは本当に及び腰で、今すぐにでもこの場を立ち去りたい、とでもいうふうにオリーブ色の目が泳いでいたので、私は、ひょっとしたらギリシャは具合でも悪いのかもしれないと口を開いた。が、それもトルコの陽気な声にかき消されてしまう。
「俺ぁほんのちぃっとばかし用があっからよ、ここでエジプトと待ってな!」
ばんばん、と景気よく丸まり気味の筋肉質な背を叩いて、トルコは颯爽と書店に入って行った。人の話を聞かない。いや、これも対ギリシャ用に彼が身に付けた能力の一つなのかもしれない。
雑誌ばかりを並べてあるスーク内の小さな店と違って、広々とした店内の奥の方に、トルコの目当てのものはあるようだった。すぐにその背中は見えなくなる。
目が合うと気まずげに視線を逸らしてしまうギリシャに、私はにこりと笑みを作った。
「……具合でも悪いのか?」
「いや……」
どうもハッキリしない。トルコの前では言いにくい話か、と思ったがトルコがおらずとも言いにくいらしい。
ちらちらと足下と私と、それからたまに書店のドアを見比べる。実に普段の彼らしくない態度である。
「最近……考えてたことがあって……」
彼の喋り方はいつだってこんな風に一言一言、まるで宇宙と交信でもしているかのようにマイペースだ。だからといって私も別に急いでいるわけではないから、大人しく続きを待つ。
「今日ようやく……結論にたどり着いたような気がした……」
「へぇ?」
彼のテンションは変わらない。宇宙と交信を続けたまま、聞き捨てならないことを議題にし始めた。
「エジプトとトルコは……その……そういった関係、なんだろうか……」
「ん?」
思わず目が点になるが、いつまで待ってもギリシャは自分から補足を入れる気はないらしい、仕方なく自分から要求した。
「申し訳ないんだけど、もう一回言ってくれ、そういったとは、どういった……」
「いつも……二人は、一緒に……いる……から……。俺は、邪魔、なのかと……思って……」
表情こそ淡々として動かなかったものの、真剣に申し訳ないとか、気まずいとか、そう思っていることがありあり感じられる態度だったので、私は眩暈を覚える。
ああ、そうだ。ギリシャ人は嫉妬深い、とどこぞの誰かさんが楽しそうにゴシップを語るのを聞いたことがある気がする。それは海の向こうの自称愛の国などという奔放極まりない不届きな誰かだった気がするが、国民の素質はいざ知らず、目の前の彼に限っては、その嫉妬とやらに関わるべき相手を一人しか知らなかったし、その「相手」も昔ならいざ知らず、今となってはそういう浮いた話とは程遠い憐れな生活を送っているようだったので――現に先程見た通りだ、何という閑人ライフであることか――これまでそのゴシップの有効性についてじっくりと考えたこともなかった。
だがまさか、私なぞがその対象になる日が来ようとは。
私は込み上げる笑いを必死で抑えながら――いや、いっそ笑ってしまった方が彼の精神衛生上はよかったのかもしれないが、それではあまりに面白くない――わざと意味ありげに微笑んだ。
「私もトルコも暇なだけだろう、それにいつも居合わせるギリシャもね」
嘘は言っていない、嘘は。
ただ三人の「寂しい周期」が妙にシンクロしているだけだ、というのが私なりの分析の結果であるが、ギリシャはそんな私の心中など知る由もない。毎回毎回、私たち二人の密会に出くわしてしまう気分ででもいるのかもしれなかった。
「約束して会ってるわけでもないし、あ、そうだ、私も最近考えてることがあって、今日ようやく結論が出た気がしたんだよ」
そのあと「エジプトなんか嫌いだ。トルコは始めから嫌いだ、死ね」と拗ね始めた彼を二人がかりで慰めるために、我々のシャーイとシーシャはしばしお預けになったのだった。
私が冗談が好きなことくらい、彼だってわかっているだろうに。
ギリシャの「嫉妬」を、結局最後に派手に笑い飛ばしたのがいけなかったのかもしれない。