after the count of 99


 安っぽいロックのリリックは女王陛下を罵るものでも拝金主義を呪うものでも絶望的な現実に唾を吐きかけるものでもない。
 ただ生物的に本能的に、快楽の熱を必死に叫ぶそれ。何をそんなに生き急ぐのか、声を大にして誘わなくとも、体が共に拍動する肉を欲するのは普遍的な反応だ。明日になればそんなありふれた浅はかな旧人類が滅亡しているなどということもない。
 それでも彼らが、歌っているつもりでああも声を嗄らし叫ぶのは、やはり何か、時代性の裏返しというやつなのかもしれなかった。
 ガンガンと耳をつんざく大音量にぴくりと眉を動かすでもなく、彼はじっと、安物のソファに身を落ち着けていた。時折激しく踊りまわる女の柔らかな尻や、マニキュアに彩られた爪が頬を掠ったが、それも気にした風でない。
 ぴちりとした黒いジーンズのポケットから引っ張り出した黒い携帯電話はもはや手の中のパソコンといっても過言ではないほどの機能を備えた、全世界で流行中の最新式のモデルで、申し訳程度の、いや、もはや皆無といっていいボタンと、その代わりに、指の動きを繊細に伝える大きな画面が特徴的だった。
 どこを見渡してみてもどっこいどっこいのデザインに出くわす昨今、もはやかの国の経済的侵略を拒める国などひとつもないのだと、そんな、確かに絶望であり虚しさであり、しかしながらどこか安堵のような、快感のようなため息さえ漏れる。
「アーティ、ピアス空けたらイカしてるって、何度言ってもチキンなチェリーのままだな」
 白々しく光る携帯電話の画面に気を取られていると、突然人の膝の上に土足で乗り上げてきた女は、臍を囲むように開けた銀のピアスを男の眼前に突き出し、時折曲に合わせて叫びながら、そういった趣旨のことを古き良きロンドンの下町英語で吐き出してみせた。
 彼女のすぐ背後にぬらり現れた、緑の髪をした男が、アーサーに一瞥くれて、膝の上に腰かけたままだった彼女の唇を奪う。
 そんなに対抗心をむき出しにしなくとも、取りゃあしない。肩を竦めたアーサーに、返ってきたのはファック、のサインだった。目の縁を黒く彩った彼は、カラーコンタクトでも入れているのか、虹彩も赤かったが、その分白目も充血して赤くなっていた。
 目の前で男が彼女の胸元に手を入れ始めたのを横目でちゃっかり享受しながら、携帯電話に意識を戻したアーサーが実はもう結構にいい歳で、人とは違う奇抜なファッションで自己実現を図るには少々お堅すぎる職場にも顔を出さねばならぬ、既に川べりを転がれもしない巌となってしまってから久しい身分なのだということを、未だにこの瑞々しいほど若々しい彼ら遊び仲間は理解してくれない。
 ピアスなど空けた日には、上司が卒倒するだろう。どうしようもないバカ揃いの仕事仲間たちは、口笛の一つでも吹いてからかいに来るかもしれなかったが。
「次のバンド、サイコーにヤバイぜ!」
 ようやくキスを終えた彼女が、濡れたままの唇で瞳を輝かせながらフゥ、と人の耳元で叫んでくれた。
 それで、アーサーはさりげなく彼女の太腿に這わせていた手を、薄い酒の注がれたグラスに戻した。
 タッチ式の操作パネルは確かに一見近未来的だったが、視線を向けずに手探りでいじるという行為にはまったくといっていいほど向いていなかった。そこで、アーサーはその「ヤバイ」バンドの面々も見ることができずに、特定のフォルダのメッセージを一通ずつ読んでは消し、読んでは消すという作業に従事していた。
 スピーカーの爆音にも負けぬ大歓声に迎えられ現れたアマチュアバンドが、しびれるほどの徹底的なスラングを吐いた直後、にわかに狭いクラブ内の空気が変わった。
 ちょっとごめん、マイク貸してよ。
 わずかにマイクが拾った闖入者の第一声は、紛れもなく崩れまくりのアメリカ英語で、一拍遅れて、その場は罵声の渦に包まれた。
「引っ込め、ヤンキー!」
『ちょっと人を探してるだけなんだってば、すぐ出てくから……アーサー・カークランドっていう、これくらいの……』
 ステージの上で揉み合いがあったのだろう、以後マイクはキィーン、とハウリングばかりを響かせるという具合で、騒ぎ出す若者たちと一緒にやいのやいのと前へ身を乗り出した彼女の重みが消えた隙に、アーサーはそっと腰を上げた。
 この愛すべき情熱に満ち満ちた若者たちにとっては、アーティだけですべては事足りて、元より今日までサーネームを問われたことなどないのだ。
「残念だったな、ヤンキー」
 唇だけでくすりと呟いて、アーサーは携帯電話をホールドしポケットに戻した。フォルダ内のメールはもともと百通あったものが、今ではたったの一通になっていた。それでも、百通全部消し終わる前に現れたのだから、許してやらなくもないと、アーサーはまったく大人げない――それこそロンドンの夜に狂喜乱舞する、時代への社会への反逆者たるロックでファッショナブルな彼らとまったく同じ種類の――笑みを刷き、静かにその場を後にした。
 適度な静寂と、清々しい外気が戻ってきた瞬間、ポケットの中の携帯電話がわざと事務的に設定したメロディを奏でたので、アーサーは相手も確認せずに耳に宛がう。やはり相手は上司だった。
「ええ、ええ、すみません。たぶん地下にいたので電波が入らなかったんでしょう」
 地下は地下でも、アーサーが先程まで身を浸していたのがどんなところだか知ったら、この上司は顔を真っ赤にして言葉を失するだろうか、それとも懐かしき過去に思いを馳せて、紳士じみたやり方でにやりと笑ってみせるだろうか。
「アメリカですか? 知りません」
 知らない、わからない、あいつの考えていることなど。
 まったく、いつまで経っても浅はかで大雑把で一途で必死で幼くて、なんと愛らしいこと!
「大方、地下にでもいるんでしょう」
 早く来いよアルフレッド、いい子に謝れたら、眩暈がするほどの熱い夜の爆音にも負けない、濃厚な大人のキスをたっぷりくれてやる。
 きっと年下の恋人にはそんな映画のような粋な振る舞いはもう千年ほど早いのだと、アーサーことイギリスはとっくに知っていたので、喉の奥でくつりと笑った。そろそろ就業時間を迎えるバスに飛び乗り、家に帰ってゆっくりシャワーを浴びて、香水やらタバコやらアルコールやら、髪を立てたワックスやらの俗っぽいニオイを全部削ぎ落し、いつもの、伝統の薫りも高きほんの少し野暮ったい部屋着に身を包み、バターたっぷりのスコーンを焼いて、何食わぬ顔で小うるさい保護者の目をして、もみくちゃのへとへとになって辿り着いたアメリカを、少しだけ拗ねた様子で迎えたなら、きっと今夜もいい夜になると、それだけを確信していた。

















(2010/5/1)



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