その日ギリシャは怒っていた。傍から見てわかるほどに怒っていた。頭から噴き出た湯気が、活火山よろしく、ぽこぽこ音を立てている。普段温厚な、というかのんびりやのギリシャがこうまでわかりやすく怒りを露わにするのには、いつもある人物が一枚噛んでいる。それを皆知っていたから、彼本人が口を開こうとしないうちは、敢えて原因を尋ねて更に機嫌を損ねるようなことをしようとする者はいないのだった。
 気づけば猫に埋もれている、と言っても過言ではないギリシャが、今ばかりは敏感な彼らに遠巻きにされている。その光景に、オフィスの面々は仕事もそっちのけに、こそっとため息をついた。




翼はあの日に--ててきた




 事の起こりはこうである――いや、起こりというよりむしろ全貌を一言で語れてしまうところがなんとも遺憾ではあるが――その日もお気に入りの猫たちに囲まれ、お気に入りの木陰でのんびり哲学していたギリシャは、その最も至福な時間を、最も憎むべき男に邪魔されたのであった。
 浅黒い肌と黒い短髪を、白い仮面とカーキ色のフードの中に隠した、相も変わらず不審者丸出しな男を、毎度毎度ここまで無事辿り着かせてしまう自国の警察をほんの少し恨みつつ、ギリシャは敢えて黙殺を決め込んだ。が、この前だってその前だって、別にギリシャの方からつっかかっていこうとした日は一度だってないのである。いつもいつも、始めは黙殺に徹することにしているのだ。それが突き崩されてしまうのは、やはり自分の修行不足なのだろうと、ギリシャは今日こそ悟りの境地に達すべく、手元の猫の肌触りに全神経を注いだ。
「テメェは、まーたこんなとこにいやがったのかい。昼前に行くっつってあったろ、仕事しろぃ、仕事」
 完全無視を決め込めればそれに越したことはないが、この男の妙に勢いのある声は、いつもギリシャの体内の奥深い部分をざらざらと引っ掻いていく。耐えようと思って耐えられる種類の不快さではないのだ。その日もギリシャは煮え繰り返る腸を持て余しながら、せめて最低限大人の対応ができるよう、つとめて深く息を吸った。
「……お前が……来るから、わざわざ隠れたんだ……」
 言い終わらないうちに、頭の上でバシンと大仰な音が響いた。聴覚にやや遅れて、触覚が刺激を伝達する。
「ややこしいことしてんじゃねぇ! いくつだ、お前は!」
 風を切った紙束は、音こそ派手だったものの、そう痛いものでもない。トルコも年を取ったのかなぁ、なんて、一度はほとんど死の縁を彷徨うようにして、紆余曲折の末にようやく生まれ変わったこの男が聞いたならますます面倒な事態になることは確実であろう感想を抱く。
「ほらさっさと立ちねぇ! それとも、ここで仕事すっか?」
 先程までの絵に描いたような平穏は見事にぶち壊され、今や無粋で騒々しい怒鳴り声が響くばかりだというのに、ギリシャの膝にまとわりついた猫たちときたら、そんなことは既に慣れっこであると言わんばかりに狸寝入り――猫だが――を決め込んでいる。そんなふてぶてしい友を膝から下ろし、のそり立ち上がると、お望み通りだというのに、トルコは不服そうに、あるいは品定めするようにじろじろとギリシャに不躾な視線を注いでいた。
「……何」
「お前さんはよォ、子供の頃からちっとも直っちゃいねぇな!」
 何の話だと思う間もなく、ばしんと大きな手が背を叩く。それで彼の言わんとするところを悟ったギリシャは、今すぐ歯軋りして地団駄踏んでやりたいくらいには屈辱を覚えた。
 昔からだ。この男は、ギリシャがこうして何気なく座っていたり立っていたりする時の姿勢が悪いと、人より丸まり気味の背を唐突に叩いては、デリカシーの欠片もなく口うるさく喚き立てたものだった。言われれば言われるほどギリシャも意固地になるし、かといって誰かに意識させられなければ自分では気づかない。自分で気をつけて普段から注意するのでなければ、自然に直るものでもないから、ギリシャとトルコのこのやりとりはほとんど不毛なそれと言ってもよかった。
 だがトルコの方では、自分が言い続けていれば、いつかは直す気になると信じているものらしい。逆効果だ、誰か教えてやってくれ。
 ギリシャは半ばあてこすりのように内心唇を尖らせながら、意に介した風もなく先を進んでいくカーキ色の背に、渋々続く。きっと応接間では、おせっかいな職員が用意したコーヒーが、濃厚な滓を重ねて自分たちを待っている。
 トルコだって、ギリシャが子供の頃からちっとも直っちゃいない。おせっかいで口うるさくて、お前の話なんか聞いてやるもんかというこちらの決意をてんでわかっていない。いや、端から目を向けようともしないのだ。独りよがりで、言いたいことだけ言って。
 見ろ、お前の話なんか聞かないぞ。
 ギリシャの心中など知ったこっちゃないと言わんばかりの背中に唾を吐きかけるでもなく、ふいと視線を反らした先には、くるんと丸まった猫の背。目を細めて、嗤うようにこちらを見ている。
 こうやって意識しているのも、かえって子供の反抗のようで気分が悪い。いっそのこと、裏の裏を掻いて、完璧に直してやろうか。
 ぐ、と力を入れて背を反らせば、自分では出来のほどはわからなかったが、なんだか立派な人物になったようで気分がよかった。
 だが、慣れない体勢はすぐに疲労をもたらした。やはりまた今度、トルコのいない時にこっそり練習しようと心に決めて、それきりまた、何百年前から続けているかわからない、考えなしの注意と意味のない反抗は振り出しに戻ったのだった。
「いーい天気だなぁ」
 返事をする気になれなかったので、敢えて足下ばかりを見つめて歩いた。そうしていても、目映いばかりの青空と、それを受けて輝く宝石のような海の色が、白く干乾びた土の上にも咲き誇っているかのような陽気だったけれど。
 ああ、まったくいい天気だ。これは決してトルコに同意するわけではない。客観的真理だ。



 下仕えの奴隷が忙しなく動き回るだけで、他に何も面白いこともない食卓にぽつり一人。繊細な装飾を施された膳の前に敷かれた織物に、気楽な様子で脚を畳み収まる。スークの末座に糧を求める物乞いには文字通り喉から手が出るほどだろう、世界中から集められた珍味を贅沢に調理した、らしい、しかしながら何の味も感じられない食事を規則的に口に運びながら、ギリシャはため息をついた。黙々と食物を咀嚼する音は、自身が発生源でありながら、いつもどこか耳障りだ。
 この宮殿では、何もかもが忌々しい。故郷の空の青さを、ただ懐古しているだけの無為な毎日。
 活気に溢れ、色とりどりの人々で賑わう帝国の趨勢など、自身には知ったことではないというのに。
 いつまでも小さなままのギリシャの手にはすこし余る、重い杯に満たされた水に口をつけた瞬間、突然背後からぐい、と肩を掴む手があって、思わず縮み上がった。どうということはない、油断し切っていたところに直接的な身体的接触があったものだから、単なる反射のようなものである。何せこの宮殿の中にギリシャに危害を加える者がいないことは、既に気の遠くなるような単位でもって実証済みであった。その代わりに、取るに足らないこんな小物に気を留める者など誰もいないということではあったけれど。
 どうということはなくとも、びしゃりと跳ねた水は膝元を濡らした。
 恨めしく背後を振り返るまでもなく、予期していた耳障りな笑い声が、からからと狭隘な部屋に木霊する。
「背筋ぁしゃんと伸ばせぃ! 景気悪ぃな!」
 食事を中断してまで首を巡らせ、嫌になるほど大きな体躯を見上げる必要もない。どうせ表情など、今日もぴっちり不気味なマスクの下に覆い隠されているだろうから。
 そこでギリシャはしきりに濡れた布を伸ばしたり引っ張ったりして具合を確かめるのに専念することにして、敢えて声の主を振り返らなかった。
「……食べてる時くらい……」
「テメェはいつもだろうがよ! 第一、マズそうな顔しやがって、いつまで食ってんだ!」
 食事にかける時間はかえって、この帝国の象徴たる後ろの男の方が長いくらいなのに、彼が自身は何一つ口にせずにこうしてギリシャをからかいに来るのには無論訳がある。詳しく問うたことはないが、彼ら異教の者には、日中に物を口にしない時期があるらしいので。
 水どころか、夫婦の営みすら断つという。だからといってこうしてギリシャが食事を取るのを妨げるでもない。こうしてひっそり誰にも見えない小部屋でいつも通り食器を動かしている分には、何ら問題ないようなのだ。
 わざわざこちらが一人きりで退屈な食事を甘受しているというのに、好き好んで見に来る神経がギリシャにはわからない。いざ他人が飲食している場面に出くわしては、いくらか気分も悪かろうに。
 口には出さないが、考えていることは伝わったのだろう。夜にはたらふく食ってやるからいいのだというような趣旨のことを彼はのたまって、呵々と笑った。こんなやりとりも毎年のことなので、ギリシャはやたらちょっかいをかけてくる閑人を無視して、食事を続けることにした。
「ほらよ、こうしてりゃあ、ちったぁ見栄えもいいっつぅのに」
 子供の肩などすっぽり包み込んでしまえる、ごつごつした大きなてのひらが前傾にすぼみがちな筋肉を無理に引っ張ったから、バランスを崩したからだは大きく後ろへ傾く。
「やめろ、触るな」
 ぐっと伸ばされた胸は大きく前に張り出されて、代わりにぎゅうと背中じゅうの筋肉が無理に寄せ集められたような感覚がある。襲撃者の目から見れば理想的らしいその姿勢は、自力ではちっとも保っていられそうにない、大分重力に逆らったものだった。本当に普通の人間は普段からこういう体勢で立ったり座ったり歩いたり走ったりしているというのだろうか。主観的にはにわかに信じがたい。どうせトルコの奴の誇張にきまっているのだ、背を走る疲労に口を尖らせ、ギリシャは強引な両腕を逃れるべく身を捩った。
 先程よりもかえって背を丸め、ようやく振り返ったギリシャは、相手の目にはどう映っているだろうか。反抗的に? それとも怯え身を守るように?
 いずれにせよ相手は何ひとつ気にした風なくまた大きな笑い声を上げた。笑われる度に頭に血が上ると、自然と白い皮膚が赤くなるのを知っていたから、余計にギリシャの恥辱を煽った。
「あっち行け! 邪魔だ!」
 ついにいつもの、子供の癇癪そのままの、無謀で幼稚なやり方で侵入者を追い出すと、ギリシャは急に興味を感じられなくなった食卓を前にため息をつき、まだぽっぽと熱を発しているかのような額に手をやった。その手だって似たような温度を持っていたから、それはちっとも役に立たず、うっすら浮かんだ汗を確かめるだけの結果に終わる。
 自分とはまったく違う、大きなてのひらの感触が、まだ肩に、背に残っている。
 今よりずっとずっと幼い時分には、異教の支配者の、仮面に閉ざされた顔はただただ恐ろしく、あのまま後ろから抱え込まれて、別の世界へ連れていかれてしまうのではないかと思ったこともある。けれど今は、そんなことは決して起こり得ないのだと知ってしまった。そのくらいには大人になったこの頭と体が、嫌に熱を発するのは、今度は一体どういう了見なのだろう。
 他ならぬあの男の、皮膚を隔てて感じる温もりに、もぞりと嫌なものが体を這う。必死で見ないふりを続けて深呼吸して、その場をやり過ごすことだけにはとっくに慣れてしまった。
 先程まで忙しなく視界の端をちらついていた奴隷はいつの間にか別の仕事に移ったらしく、誰もいないがらんとした部屋は大分広く感じられた。ぐい、と胸やら背やらに力を込めて、理想的な姿勢とやらを保ってみようと試行錯誤するも、背にわだかまるような違和感で、すぐに苦しくなってやめてしまった。寄せ集められた筋肉が、盛り上がるような箇所に体をねじって手を伸ばせば、微かに、奥に埋め込まれた骨の感触がした。



「おや、トルコさんもおいででしたか」
 子供の隠れんぼのような逃亡は見事失敗し、しぶしぶ連れ立ってオフィスへ戻ると、そこには予期せぬ客人がいた。
 堅苦しい黒のスーツに袖を通した、黄色い肌の小柄な男は、一瞬驚いたように眉を上げたが、すぐに好意的な笑みを形作ってゆっくり頭を下げる。
「お邪魔でしたら出直します」
 ギリシャに窺いを立てるように微笑んだ日本に答えたのは図々しくも先に部屋に踏み込んだトルコで、そのことにオフィス中の誰も異論を唱えようとしないところにギリシャは内心で腹を立てたが、日本の手前、みっともなく声を荒げることもしたくなかった。
「何言ってんでぇ、遠くから来たんだからよ、ゆっくりしていきねぇ。ついでに俺ん家も寄ってくんな」
「ええ、ぜひ」
 おい待て、日本は俺を訪ねてくれたんだ、勝手に話を進めるな図々しいバカトルコ。
 口の先まで出かかった文句は「賑やかなようでしたが、何のお話を?」と悪意のない笑顔に掻き消された。
「いやな、見ての通りこいつがいっつも姿勢悪ぃからよぉ、猫みてぇに。何千回言っても直りゃあしねぇ」
 容赦なくギリシャを指した親指につられるように日本が深いブラウンの瞳をこちらへ向ける。運の悪いことに、その時自分の背はお世辞にもまっすぐ伸びているとは言い難かったが、指摘されたからといってすぐにわざとらしく直してみせるのも気まずかった。
「……うるさい、バカトルコ。お前の言いなりになんかなるか」
 何も日本の前でそんなことを言わなくたっていいのに。
 後で日本が帰ったら、思い切り怒鳴りつけてやる、と堅く決意して、ギリシャは気を落ち着けるべく大きく息を吸った。
「シャキッと立ってりゃまだまだ男気もあんのによぉ、あんなのっそり立ってちゃ、まるっきり木偶の坊じゃねぇか」
 その間にも、好き勝手な会話は続いていく。
「それでもいい肉付きをされてますから、私などより大分見栄えがよくて羨ましいです」
「みっともねえったらありゃしねえんだよなぁ、日本みてぇにビシッと背筋伸ばして、キリキリ働きゃちったあ、才能もあんだし……っと、まぁ、昔っから怠けモンだからしょうがねぇっちゃしょうがねぇか……オイ! イテェなお前は!」
 大人に対応しようしようと思っていたが、ここまで好き勝手言われては、もう我慢の限界である。思わず足が出た。
 そりゃあ確かに、自分は日本に比べればのんびりした生活リズムを愛する部類と言える。だからといってそれを知った顔でこの男に垂れられるのだけは我慢ならなかった。
 保護者面するな、いつまでも。
「ここはいつも、のんびり時間が流れていて気持ちがいいですねぇ……」
 ぽつり、目が痛くなるほどに青い空を振り仰いで日本が零したため息に、怒る気も失せて、ギリシャは掴みかかったトルコの胸元を離した。くっきりその通りに皺の寄った布を見下ろすでもなく、仮面の奥の目はこちらを見返していた。
 今では、その奥に潜む表情も感情も、こうしてありありわかるのに、どうして背中に残ったぬくもりだけが、いつまでも温くわだかまってギリシャの心を掻き立てるのだろう。
 この男の手の大きさだけは、自分が見知っているあの頃から、ちっとも変わっていない。きっと自分のみっともなく収まりの悪い背も。
 こうしてこの男が今も隣にいることも、考えてみれば不思議なことだった。どれだけの血を流しても、自分はこの仮面を見続けることになるのだろうし、その内側の表情も変わりはしない。
 ふと、深い色を湛えた日本の瞳が、まるでお若くて羨ましい、とでも言いたげに細められたのが目に入って、思わずギリシャは一歩、目の前の仮面の男から距離を取った。
 ぐ、と背中に力を込めて、自分にとっては不自然な姿勢を保つ。そうしていると、前方へ突き出された胸がどくどく脈打つのが、世界中に聞こえてしまうような気がした。
「……これでいいだろう、……もう、……ベタベタ、触るな」
 見ないフリを続けている自分の心も、変わりはしない、のだと思う。
 自分の言い草があまりに幼かったためか、にやりと相好を崩した忌々しいこの男の、保護者面も。

 ギリシャはなんかあんな筋肉隆々なのに、普段はすごい猫背そうだなぁ、とかそんな勝手な偏見。

 オスマン時代にはすっごくロマンを感じるのですが、いちいち細部が間違っていそうなので悪あがきをするのに時間がかかります。詳しい方は教えてくださるととっても喜びます…!
 なんか前に裏か何かを書いたときに椅子のところで間違えた思い出があるので、今回は地べたに座らせてみたのですが、どっちが正しいんだったかな…
(2010/4/4)
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