――アメリカが、俺を、好き?
 それは何度口に出しても、まるでアレルギー反応のように違和感を置いていくばかりでちっとも馴染まない。
 その昔、命を賭けて夢を求めに繰り出した大海原の果てで、天使のような笑顔を振りまいていたあの子の「イギリス大好きだぞ!」という言葉なら、まるで運命の女神の寿ぎのごとくこの上ない栄誉とわきまえながらも、恭しく拝領することができたのに。
 翌日会議で見かけたアメリカはやはり忙しそうで、それでも昨夜はよく眠れたのか、昨日よりはいくらかすっきりした顔をしていた。けれども自分たちは言葉を交わす時間もなく、それぞれ帰途に就くことと相成った。時折目が合うと、アメリカはまるで機嫌のよいときのように軽く手を上げて笑ったので、イギリスも普段のようにそれに応えた。
 イヴ、イヴまでに――ああ一体何が変わるというのだ?
 アメリカは一体何を求めている? イギリスは一体何をしてやれる?
 遠路はるばるやってきた合衆国一団と違い、ヨーロッパ組はいささか時間にも余裕がある。
「どーよ、その後進展あったの?」
 いつの間にやら寄ってきていたフランスのセリフにはトピックがない。けれども言いたいことならわかっていた。イギリスの体は認めることを相変わらず拒絶していたけれど、理論の上でなら、その可能性も認めることにしたので。
「なんも」
「イヴまでって言われたんだろ? どうすんのか決めたのか?」
「俺は一体なんでこんな短期間に崖っぷちに立たされてるのか、さっぱり分からねぇよ」
 アメリカの要求内容すらにわかには信じがたいというのに、間違いなく自分たちの将来に重大な影響を及ぼすであろう決定を、たった一週間弱で出せというのは、あまりに。
「あいつがせっかちなお子様だからだろ? ――いや、違うか、あいつはもう十分待ったな」
 意味がわからない。どうしてどいつもこいつも、このイギリスよりもアメリカのことをわかっているかのような口ぶりをするのだろう。さては皆、関心のないフリをして、実は虎視眈々とアメリカの保護者の座を狙っていたというのか? まさかそんな。確かにアメリカは今や名実ともに世界一の超大国。あれを意のままに操れたら――って違う違う。あいつんとこのB級映画みたいになってるぞ。
 顔を向けると、フランスの微笑には珍しくからかう色がなかった。どこか昔を懐かしむような目をしている。
 ああそうだ、昔あの青年が自分に背を向けた後、彼を認められなかった自分とアメリカはしばらく疎遠になった。その間、新興国アメリカをせっせと世話したのは別の――たとえばコイツのような。
「正直なとこどーなのよ? 嬉しいの? 嬉しくないの?」
「……嬉しい?」
 これは嬉しいとか嬉しくないとかそういう問題だったのか、とどこか他人事のように考えた。けれど自分の心の中を見渡してみても、あるのは戸惑いと困惑と――そして焦り。決定的に変わってしまうであろう何かに対する不安、恐れ。
「嬉しいって顔じゃないね。考えたこともなかったってか?」
 てっきりアメリカの味方ばかりするのだろうと思っていたフランスはあっさりイギリスの心情にも理解を示した。こういう時、年の差を見せつけられたような気がして内心穏やかでない。
 それでもいつだって、フランスの言う事の方に一も二も道理があるのだと、経験から知っていた。
「でもこれだけはわかってやれよ。お前にとっちゃ青天の霹靂でも、あいつにとっちゃ、気の遠くなるような長い間、ずっと考えてたことだ」
 ぽんぽん、と軽く背を叩いて、フランスはやはり、何もかも見通したかのような訓示を残して、背を向けた。
「お前の自虐的な性格もわかっちゃいるんだけどさ。だからこそお前は気高くて、ちょっぴり独特で……うん、まぁ、なんだ。それでも、『ありえない』とか言ってやるなよ。日本にも言われたんだろうが。あいつのこれまでの一生を縛ってた気持ちだ、それに見合う重さで向き合ってやらなきゃあ」
 やはりアメリカの味方だった。感心して損をした。
「初恋は苦いっていうが、お前の態度はあまりに……可哀想だ」
 去っていく背中は憎いほどに決まっていた。白黒映画に出てくる色男のようだ。
 自分は言いたいことを言ってスッキリしたのだろうが、どうせ誰も、イギリスの気持ちなどわかっていない。
「どうして、このままじゃいけねぇんだよ……」
 口の中で呟いたそれは、思った以上に苦かった。



 ――恋人になってくれないかい、とあの子は言った。
 くだらない通販番組を瞳に移しながら、イギリスはリモコンをいじる。
『――のお陰で私の胸はAカップからDカップに――私を捨てた彼は後悔して――』
 ああ、確かにいい乳だ。
「……くそっ」
 リモコンを放っても、追い立てられるような不安感は消えない。
 恋人、その単語が彼の中で一体どんな概念を指すものなのかは知らない。けれどイギリスはその名を与えられた関係が信じられなかった。恋とは短い間にこそ燃え上がり輝くものだ。花火のように。
『子供を産んでから、主人がある日突然こう言ったんです、どうしてお前は、日に日に女らしくなくなっていくんだって――』
 どうしてアメリカが、「今更」こんなことを言い出すのか、イギリスにはさっぱりわからない。
 恋人なら別れることができるし、夫婦なら離婚することができる。少なくとも「別れる」だの「離婚する」だの、そんな動詞は、小学校を出さえすれば誰でも知っている。それだけ日常の中で頻発する出来事であり、極めて普通のことなのだ。
『あの人に嫌われてしまう、どうしよう、どうしようって……そんな時、――を知人から紹介されたんです』
 あと4日――いやもう3日になった。
「……どうして壊そうとするんだよ……」
 何も知らないティーンの子供でもあるまいに、どうしてわからないのか。恋人だの付き合うだの、そんな言葉は一種のボタンに過ぎない――不自然なほど一瞬で、関係を切り替える魔法の言葉、けれどその中に永久の愛など存在しない。
『娘はもう二十三なのに彼氏の一人も家に連れて来たことがなくて――私は焦っていました。そこで――を試してみたんです』
 長い長い生の中で、たくさんの無常なものを見てきた。人の命しかり、感情しかり、運命しかり。いともたやすく移ろう。美しい言葉で表面だけを着飾って、概念の上でだけ光り輝く幻の宝石たち。
 ああ、お前は今も、夢に満ちたあの、美しい幻の大陸の上にいるのか。天使のように、光だけを受けて笑っている。



 いつの間に寝てしまったらしい。けたたましい目覚ましの音で起こされたものの、いざ出勤してみれば「ひどい顔だ、帰れ」と口々に窘められる始末。
 どうやら我が国はホリデー前のこのクソ忙しい時期に、雑用係の一人や二人失ったところで問題ないくらいには平和らしいと複雑な心境に陥りながら、曇り空の街を行く。街はすっかりクリスマス一色だった。
 独立前、実はあの子供と一緒に過ごしてやったクリスマスなんてほとんどなかった。そんなことに今更気づく。あの頃海は広すぎて、自分たちの仕事といえば海を渡り戦うことばかりで、そして共に過ごせた時間はあまりに短かった。
 あの子はその寂しさを埋めるように、バカみたいにただ楽しいものを好んだ。たくさんのお金をかけて、浮かれ騒いで。
 真っ赤な服を着たファーザークリスマス、真夜中にこっそり、子供たちにプレゼントを届けてくれる――。そんなお伽噺を誰よりも好んだのは、他ならぬあの子だった。
 お前のクリスマスは派手すぎんだよ、と呟いたら、じゃあ今年のパーティに君は呼ばないぞ、だなんて言い出して、ケンカをした年もあった。何年前のことだったか、あるいは何十年前のことだったか、もう忘れてしまったけれど。
 ――そうしたら、今年のホリデーはまるごと俺と過ごそう。
 ああ、そんなことは今更伺いを立てることでも何でもない。あの子が望むなら、あの子が許すなら、イギリスはいつだって隣にいてやろう。
 他のことは何もかも関係がない。その気持ちだけは真実だ。
「そうだよ、何もあいつの言葉が法律ってわけじゃなし、何をこんなに思い悩んでんだ? 俺は」
 あんな自分勝手にのびのび育ってしまった子供の言うことなど、自分はいつだって聞き流してきたではないか。それでも、イギリスにはイギリスなりの愛し方があった。
 おもちゃ屋の前に掲げられたファーザークリスマスの人形。大きなクリスマスツリー。
 イギリスがあの子にしてやりたいことなど、それこそ気の遠くなるような昔から、とっくに決まっていた。
 幸か不幸か、猫の手も借りたいこの忙しい日に、自分は自由を得た。
 これは運命の女神の啓示に違いない。
 数日ぶりにスッキリした気持ちで、イギリスは顔を上げた。よくよく見れば、曇り空の我が国は特別に味わいがある。深い歴史と文化と含蓄を湛えた悠久の古都に、眩しすぎるスポットライトは必要ないのだ。内側から輝く美を秘めている。そう、心躍るこのアドベントの雰囲気のような。
 そうと決まれば、この時期の親が心を砕き、時間を費やすことなど決まり切っている。イギリスはハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。


















(2009/12/24)



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