真っ暗な闇の中に、青白いテレビの明かりと、それに映し出された合衆国の白い顔が浮かび上がる。目が慣れずにおぼつかない足取りで、イングランド改め連合王国は、一歩一歩、北米植民地改め合衆国の方へと近づいていった。 合衆国の右隣に腰かけながら、ああ毛布を忘れた、と連合王国はようやくにして気づいたが、既に物語は始まっており、どことなく薄ら寒いものを感じながら、仕方なしに背中をソファに預けた。 嵐の夜だ、一人の男が馬を駆っている。 ふと思い立って、眩しいほどのディスプレイから視線をずらせば、広がるのはただただ深い闇。まるで見知った自分の家ではなく、暗い山奥のうらびれた小屋にでもいるかのようだ。 人一倍怖がりな合衆国が震えて泣きついてくるまでは、正気を保っていたいというのが連合王国の常なる願いである。そうはいっても、連合王国も人並みの心臓しか持ち合わせていないので、こんなおあつらえ向きの状況で平然と構えていろ、と言う方にこそ無理がある。すぐに、毛布を用意しなかったことを後悔した。 お互いに意地があるものだから、どんなに心もとなかろうと、隣にいる男にだけは頼るまいとひたすら物語の展開を見つめている。だが大抵は合衆国の方があっさりそのプライドを捨てて、連合王国に泣きついてくるのだった。そうなってしまえば連合王国も意地を張る必要はない。 「うわぁああああ……」 ただ暗い森を男が一人で歩くだけのシーンで、何をそんなに怖がる必要があるのかさっぱりわからないが、叫びたい気持ちはほんの少しわかる。 男はただ静かに茂みを掻き分けていく。 やがて森が開け、黒々とした湖が静かに横たわる。 揺れる漆黒の水面に薄気味悪さを感じて、男が背を向けようとしたその瞬間、湖の中ほどに、突如ぽっと浮かんだ淡い緑の灯火。 「うぎゃああああああああッ!」 「わあああっ! ああああ!」 ゆらゆら揺れて、まるで男をいざなうかのような。そう、あの世へと。 ブツン、とその瞬間、部屋は真っ暗闇に包まれた。 「うぉおおおお! ゴォオオオッド!」 合衆国の悲鳴は必要以上に悲観に満ちている。いつものことではあるが。 かろうじて雄叫びを呑み込んだ連合王国は、逸る鼓動を押さえながら次の展開を待つが、いつまでもテレビは静まり返ったまま。 ぽっと寂しげに揺れる緑色の光が、暗闇の中をちらついている。おそらくは先程まで見ていた映像の残像だろう。一向に目が慣れないことにイライラしながら、連合王国は目を擦り擦り、合衆国を振りほどいて立ち上がった。 「うぎゃあああ、イギリス! イギリス、どこだい!」 「ここにいるよ! お前リモコン押してないよな、停電か……?」 ガタガタと盛大な音がする。どうやら合衆国が情けなくもソファから転げ落ちた音らしかった。 「あいた! どこだいイギリス……」 「おい、目が慣れるまでヘタに動くなよ……」 停電なんて一体いつぶりだろうか。このタイミングでとは、若干気味悪くはあるが、自分以上に慌てている合衆国の存在に、少しは救われた。このタイミングになったのも、そもそも合衆国のせいではあるが。 ようやくぼんやりと、見知ったリビングの家具が輪郭を現し始めた。 「懐中電灯探してくるわ」 目が慣れてきたのは合衆国も同様らしい、歩き出したところに、裾を掴まれてつんのめりそうになる。 「行かないでくれよぉおお……!」 「お前も来たらいいだろ! めんどくせぇな……」 なんとか探り当てた懐中電灯は、もともとそこまで強い電球を使ってもいないため、なんとも頼りない光を放つだけであった。電池を変えてみても、光量には大差ない。 「ここら一帯停電みたいだな……」 カーテンを開け放てば、いつの間にか日は暮れていたらしい。薄紫の空。いつもなら自宅前の防犯灯が点灯する時刻だが、向かいの家の防犯灯までシンと静まり返ったままだった。明かりのついた家は見えない。 「ひょっとしてハロウィンのサービスかい? 趣味悪いな君ん家は……」 「俺んちじゃ送電所がそんなことして許されるほど市民権得ちゃいねぇんだよこんな行事は……。予告もなしに、パソコンのデータでも落ちたら訴訟問題だろうが」 「それもそうだね」 「風があるわけでもねぇし……何なんだ? 電話してみるか」 奇妙なほどに静まり返った夜である。夜といっても、時計を見れば普段は夜更かしすることが多い彼らにとっては「夜」のうちにも入らないような。こんな言い方は本来おかしいのだろうが、太陽だけが勝手に沈んでいる、そんな頃合い。 連合王国が受話器を耳に宛がうと、方向を間違えたかと思うほどにこれまた反応がない 「あれ」 「ばかだなイギリス、停電してるんだぞ」 「電話線から電気がきてるって話じゃなかったっけか、おかしいな……」 「あーもう最悪だよ! 真っ暗だしイギリスは陰気くさいし!」 「関係ねぇだろ!」 「いつになったら復旧するんだい……」 当然ムービーの続きを見ることもできなければ、こう暗くては夕飯の支度もする気になれない。つまりすることがない。 現代人がいかに電気に頼っているかが実感される。実感してみたところですることが増えるわけでもないのが至極残念である。 「すぐ復旧すると思うけどな」 目が慣れてくれば、まったく光源がないというわけでもない。沈み切った太陽の光は徐々に弱まっているが、開け放ったカーテンからは、白々した月の光が降り注いでいる。 「あーあ、せっかく今日はホラームービー見放題だと思ったのに」 先程の怯えぶりはどこへやら、合衆国はいっぱしにソファの上に丸くなって不平をこぼし始めた。 「なら怪談でもするか。おあつらえ向きだろ」 せっかくハロウィンだしな、と窓際にいた連合王国が再びカーテンを閉めれば、ソファの上の塊がびくりと震える気配。 「暗いよ! そこ開けとこうよ!」 気を良くした連合王国はその嘆願を無視して、ソファへと歩み寄った。 「ウィルの話を知ってるか」 片膝を乗り上げれば、マットがぎしりと傾く。だがソファいっぱいを占領している合衆国が場所を明け渡す気配はない。 「ジャック-オ-ランタンだろ、カボチャの」 「ウィル-オ-ウィスプとも言うな。それからカボチャじゃねぇ、カブだ!」 仕方なしに、ふてぶてしく丸まる巨体をそのまま膝で押しのけてスペースを確保した。 いまやハロウィンのシンボルともいえる、野菜に顔をくり抜いて作るランタン。元来はその中の火にこそ意味があり、そして材料もカブであったが、アメリカでは大きくカラフルなカボチャが好まれた。ゆえに他国で有名なのもそちらの方である。 「この状況でそういうオカルトな話はマジでやめてくれよ!」 ウィル-オ-ウィスプもジャック-オ-ランタンも、本来はランタンを指すのではない。ひとけのない場所に突如現れる、不可思議な鬼火の総称なのである。 たとえば墓場や水辺に、ぽっと灯り、空中をゆらゆら浮遊する。 「あ? いいじゃねぇか、お前んとこの派手なホラームービーよりずっと、リアリスティックでスリリングだろ?」 「死者の魂なんて、俺は信じないぞ!」 そう言ってソファの背もたれに頭をぐりぐり押しつけている。おそらくどこか狭いところに潜り込みたいが叶わない、といった状況なのだろう。やはり毛布を用意しておいてやればよかった、と連合王国は合衆国のそのいささか不格好な様を眺めながら思った。 「本来は死者の魂じゃねぇよ。天国にも地獄にも行けなくなった極悪人ウィルへの、悪魔からの憐れみの灯火さ」 「やめようよ、別の話しよう!」 「お前も悪さしてると、灯火ひとつで永遠に現世を彷徨うことに……」 「うわああああ!」 どうやらからかいすぎたらしい。何を言っても合衆国は悲鳴を上げて首を振るばかりで、連合王国の話を聞こうとしない。仕方なしにその背中をさすってやった連合王国を襲ったのは、ほんの少し懐かしい気持ちだった。てのひらにじんわりと伝わる、背中のぬくもり。 「ああもう、まだ電気は復旧しないのかい……?」 「そういや遅ぇな……。近所にも訊いてみるか。ダメなら携帯で電話してみりゃいいしな」 連合王国が立ち上がると、一人にするなとばかりに合衆国もその顔を上げた。長らくソファに押しつけていた前髪はぐしゃりと乱れている。眼鏡も曲がっていた。 テーマパークのホーンテッドハウスよろしく、シャツを引きながらこそこそついてくる合衆国に、シャツが皺になるとも言えない連合王国は「俺を盾にするなよ」と的外れな不平をこぼした。 「うぎゃ! なんか光ったぞ!」 「鏡だよ」 玄関先に置かれた、身だしなみをチェックするための姿見が、懐中電灯の光を反射していささか目に痛い。連合王国の背後には、大きな体を一生懸命その背に収めようと身をかがめる滑稽な合衆国の姿。そこまでは微笑ましい像以外の何物でもないが、合衆国のさらに後ろには深い闇が広がっており、連合王国は敢えてそこから目を逸らした。人が闇を恐れるのは、それが理解を超えたものだからだ。闇の中のものを、人はその目で見ることができない。はっきり把握できない、だから恐ろしい。 姿見から強引に視線を剥がして、ただ目的地たるドアのみを見つめた。意識するからいけない。今では闇の中に怖いものなど何一つ潜んではいないと、よく理解しているはずではないか。ただ暗いだけ、そう、ただ暗いだけだ。 「うぅ……無理だよもっとゆっくり歩いてくれよ……」 「お前な、一人でいるときに停電したらどうする気なんだ?」 「その時はその時だよ」 ようやく玄関まで辿りつき、ドアノブに手をかけたところで、にわかに外がざわつく気配がした。 浮かれたこども同士の囁き合いのような。一人や二人ではない。 「なんだ、こどもたちの方がよっぽど度胸あるな」 ほっとしたのは合衆国も同様らしい。人の背中でふてぶてしくも冷静な声を出したりして。 「……みたいだね。考えてみればまだ五時じゃないか」 「どうする? もう菓子ねぇぞ」 「君のところにお菓子をもらいに来るのは自殺行為だって親御さんたちに教えた方がいいと思うぞ。庭の花じゃだめなのかい?」 「なんだと!」 すっかり気を取り直した大人二人はいつもの調子でケンカ腰の相談を終えると、始まったばかりの夜を楽しむこどもたちを迎えるべく、にこやかに戸を開けた。 しかしながら、そこに広がっていた光景は。 お菓子を求めて小さな手のひらを伸ばすこどもたちは一人もいない。代わりに目に飛び込んできたのは、暗闇の中、無数に浮かぶ儚い光。ふわふわ揺れて、まるでこどもたちと同じように、家々を回っているかのような。 「ふ……ふぎゃあああああ!」 あんぐり口を開ける間もなく、合衆国に首を絞められた。今すぐにあの中に混ざってこいということか。 「ホタル? じゃないよな……こんな都会で……」 「誰の悪戯だい! 怖すぎるよ!」 目を凝らせど人の姿はまったく見えないのに、くすくす、と楽しそうに重なり合う無数のざわめき。 まるでこちらの方が、異界に紛れ込んでしまった異分子のようだ。 なんだか、怖がっているのもばかばかしいような。 「……こうやって死者が帰ってくるのかもな」 ぽつり言えば、合衆国は妙な顔をした。 「……みんな、ここの街の人たちに会いに来たのかい? ハロウィンだから?」 「かもなぁ」 「どれくらい古くからの人がいるんだと思う?」 「さあ」 気づけば合衆国も、連合王国の背中を抜け出して、隣に立っていた。彼らが決して害を為すわけではないと、なんとなくわかったのだろう。 「こんなにいっぱい……」 「これが、俺たちの歴史を作り、実際に生き、支えた人々なんだろうな……、俺たちの血と肉、そのもの……」 「……そう思うと死霊も怖くないな」 「よく言うぜ、さっきまで人の後ろで震えてたくせによ」 「あ……」 ちかちかと、防犯灯が点滅した。やがて不思議な静寂を破って、テレビや冷蔵庫のファンや――電化製品の微かな雑音が一気に舞い戻ると同時に、街には明かりと日常が戻ってきた。 ウィル-オ-ウィスプはもう見えない。何事もなかったかのように、息吹き始める現代の日常。 「何だったんだ……」 時間にして、ほんの数十秒。 しばし呆然と佇む、人ならざる二「人」。 「……何って、ハロウィンだろ? これで、幽霊だの何だのって騒ぐ気は失せたか? メシにしようぜ」 幽霊に戸籍や市民権を与えるくらいには理解のある連合王国の回復は、普段から紛い物の「幽霊」ばかりを娯楽にしている合衆国よりは若干早く、颯爽と踵を返した様は、まったく普段通りだった。 「何言ってるんだい! あ、あ、あれはただの停電と、な、なんかプラズマ現象かなんかだろ! ……いや、その、違うかもしれないけど……」 現代科学の理解を超えた「本物」とやらは鼻で笑うくせに、やたらと作りものに金をかけ熱中している合衆国を、連合王国は普段からこのようにからかっていた。だがその理由は大方「本物」の存在を前提にしており、合衆国も同じような割合で、根拠薄弱な連合王国の主張を嘲笑うことができた。多くの国々も同様に合衆国の味方だったのだ。しかしながら、今しがた他でもないこの両目で見た忘れがたい光景が、合衆国の分を悪くしている。 「とにかく、あー、その、ちょっとしたスリルを味わうのは生きてる人間の娯楽として重要なんだよ! そのためにホラーというジャンルは必要なんだ! そこは譲らないぞ!」 だがしかし、文字通り目の前に突き付けられたゆるぎない事実すら、喉元過ぎた今では、夢か、あるいは連合王国の謀だったのではないかという気すらしてくるから不思議だ。習慣とはまったく恐ろしい。 あの、一種神秘的とも言える深遠な光景を、もうはっきりと思い出すことができない。 自らの血と肉たる歴史と国土を作り上げた、骨たる人民たち。――かもしれないもの。 ああ、記憶とはどうしてこうも頼りないのだろう。なくしてはいけない尊いものを、かくも容易く失わせる。 名残惜しくて見やった窓には、きっちりカーテンが引かれていた。 「はいはい、何にせよ、晩飯の後な。あ、長くなるから先シャワー浴びろよ」 時計を見れば、まだ五時を少し回ったところだ。テレビは白々と、DVDのメニュー画面を映している。 「えーっ、続きが気になるんだぞ! 先にこれ見ちゃおうよ!」 「いいだろ、見るなってご先祖様が言ってんだよ」 「怖いこと言わないでくれよ!」 「怖かねぇだろ。ひょっとしたら、お前と話したことある人だったかもしれない」 連合王国はたまに、平然とした顔で別次元に身を置いている。合衆国には、永遠にそこに辿りつける気がしない。 それで構わないのかもしれない。連合王国の隣にいれば、断片だけでも垣間見ることがあるだろう。たとえば今日の不思議な一片のように。 「……それとこれとは別だよ! 先にこれだけ見る!」 「あーはいはい、俺は付き合わねぇからな、メシの支度する」 「待ってくれよイギリス! 一人じゃ怖いじゃないか!」 「ああもう、抱きつくなうっとおしい!」 騒がしく、いつも通りに更けていく夜。その夜に名がつけられ、人々が特別な意味を見出し、幾度と繰り返されてきたひととせ。 長い長い歴史の中で、生まれ、去りゆく命。 蛍のように儚くとも、そのすべてに意味があった。そのすべてが連合王国を、合衆国を、世界を築いてきた。 今夜はきっと、この騒がしいこどもに付き添って朝まで起きている羽目になるのだろうと、連合王国は巡る運命の数奇に思いを馳せた。それからやっと眠りに就いて、目覚めたころにはアフタヌーンティの時間だろうか。 そうして、もしも気が向いたら久方ぶりに兄を訪ねようと、イングランドは柄にもないことを考える。 「イギリスってば!」 「あーもうハイハイ、これだけな。そしたらメシだからな」 こうして、昨日よりはほんの少し寒く、明日よりはほんの少し温かい、それだけの何の変哲もない夜は更け、元宗主国と元植民地の、相も変わらず停滞しきった関係は綿々と続いていく。 無数に折り重なっていく他愛もない歴史の、取るに足らない小さな折り返し。 (2009/10/28)
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