そして星の陰で語る Halloween――十月三十一日の夜を指す英単語であるが、その名はそもそも、All Hallows' Eve、すなわち「万聖節の前夜」という意味にすぎない。「万聖節」とは、カトリック教会の定める祝祭日である。ゆえに東方正教やプロテスタントにとっては日取りが異なっていたり、聖人ではなく死者に祈りを捧げる、と意味が異なっていたりする。 名前の上ではこの万聖節の前夜にすぎないはずのハロウィンがなぜ、「Trick or Treat」なるフレーズであるとか、おぞましい化け物の仮装であるとか、鮮やかなオレンジのかぼちゃランタンであるとかいうイメージとともに、当の万聖節よりも広く認知されるようになったのかといえば、その歴史はまた複雑である。 ともかくも、そもそも限られた文化圏における祝祭日であり行事であった「ハロウィン」なるものが、十九世紀、アイルランド移民によってアメリカに伝来し、その後アメリカンカルチャーとしてさらに多くの国々へ伝播することになったのは、ここ数十年の話だ。アメリカンカルチャーとして語られる際、既にカトリックの宗教的色彩は薄まり――ゆえにより広まりやすい――、現在では、プロテスタント諸国をはじめ、果ては遥か遠方、オリエントの最果てアジアにまでその存在と風習は広く知れ渡っている。民草に浸透とはいかなくとも、少なくとも市場の一角に、黒と橙のハロウィンモチーフが顔を出すという光景が、しばしば見られるようになった。といっても、あくまでここ数年の話にすぎないが。 要は、アメリカは強い、という話である。 「違うだろ!」 ここで顔色を変えたのはグレートブリテン及び北部アイルランド連合王国を名乗る若者であった。いや、若者というのはいささかおかしい。「若者」の姿を借りた、人ならざるものである。 「もとはといえばハロウィンは俺ん家の……」 彼の指す「家」の概念は通常の定義に比してだいぶ大きい。六千万あまりの人口を抱え、その面積は約二十四万平方キロメートル。 「そういうこと言うと君のお兄さんが怒るんじゃないかい」 クスリ、と笑った彼もまた、見目は多感なハイティーン。ところがなかなかどうして、そんじょそこらのご老人より人生経験は豊富というからわからない。もとよりこの「人生」なる表現も、比喩に過ぎないが。 どのみち瑞々しい外見を裏切らず、多感であることには違いない。三億を超える人口を誇り、面積は九百万平方キロメートルにも達する。 「ちっ、ちげぇよ俺は連合王国として、兄貴たちの起源をも代表して主張する責任があってだなぁ……」 急に慌て出した連合王国は、まるで周囲から矢でも飛んでくるというように、落ち着きなく視線を巡らせた。 実に的確に相手をやり込めたものの、やはり「兄」だの「弟」だのいう話は興が乗らなかったらしい、さっさと連合王国の注意を呼び戻した少年こそが、件のハロウィン文化の伝道者、アメリカ合衆国である。 「とにかく引き分けは引き分けだよ」 「ああ、まったく不本意ながらその通りだな」 重苦しい沈黙が降りる。床には散乱した黒い衣装。 ハロウィンといえば仮装、trick or treat、お菓子――少なくともアメリカのこどもたちの多くにとっては。 それが、まったく「こども」に見えない彼らに一体何の関係があるのかといえば、これまた他愛無い大人のお遊びだった。お遊びがいつの間にか本気になってしまったという、ありがちな話である。そして後に引けなくなった、というのも。 驚かし合いなんて、勝敗をつけようにも判定は微妙の一言に尽きる。けれども本人たちばかりはいつか来たるべき圧倒的な勝利を夢見て、今年も趣向を凝らすのである。 「来年こそはお前を驚かせてやるからな」 「こっちのセリフだよ、首洗って待ってなよ」 もう何年、こんなやりとりを続けているかなんて、実はどちらにも正確にはわからない。どちらかが「もう何年だ」と言い出して――これも実はかなり曖昧な記憶のみに頼っているのだが――、もう片方が「ああそんなに」とちょっぴりノスタルジックな気分に浸る。それが何十年か周期で発生して、誤差は誤差を重ね大きくなる。とにかくひたすらに、一人の人間が感じるにしてはあまりあるほど、長い時間が経った。それだけは間違いない。 「……と、とりあえずパンプキンパイ焼いたんだが食ってくか?」 「ひどいよイギリス! さっそく来年のネタ披露かい? 情報操作で撹乱作戦はやめてくれよ!」 「なんでパイ作って仮装したお前に驚かれなきゃなんねぇんだよ……!」 連合王国の料理に関する腕前といえば、世界に響き渡るほど特殊なものであり、それを誰よりもよく知っているはずの合衆国であるから、「なぜ」などという問いかけは愚問である。 後悔するとはわかっていても、オーブンから漂う芳ばしい香りには、いつも騙されてしまう。それこそ「こども」の頃からの、条件反射みたいなものだ。合衆国は、いそいそと立ち上がる連合王国を止めることもせずに、ぼんやり座っていた。 やがてみるみるうちに目の前に揃えられていくティーセット一式。 さくり、と切り分けられたパイ。ここまでは本当に美味しそうだ。ここまでは。 ――Trick or Treat! 近所に住むこどもたちのものだろう、明るい笑い声が響く。 「……お菓子を用意するってことは、悪戯されたくないってことだよな」 案の定、口中に広がる苦みに耐えるべく、フォークを咥えて天井を見上げる合衆国の、眼鏡からフレームアウトした視界は、ぼんやりやわらかかった。 「あ? 何言ってんだお前」 コポコポと、熱いお湯が注がれる。立ち上がる湯気。眼鏡の下半分を犯して満足げな。 「Happy Halloween!」 眼鏡が真っ白になる事態を避けるべく慌てて身を引いた合衆国が視線を戻すと、連合王国はあたたかなカップを差し出して、なぜかこどものように笑っていた。 「……って、言うんだろ?」 Happy、ハッピー。ああまったくハッピーだ。こんな風に、珍しく天気のいいロンドンで、のんびりパイを頬張ってティータイム。パイは美味しくないけれど、この恵まれた状況ではすべて相殺だ。 秋の空は涼やかに晴れ渡り、死人が現世に帰ってくるのを待ち望んでいるかのように見える。 「悪戯の中身なんて考えてねぇくせに。お菓子用意したり、準備に奔走させられるのはいつだって大人なんだ」 「まるで俺がこどもみたいな言い方だね」 そういう話なら聞きたくない、と合衆国がつっぱねるのはいつものことであったので、連合王国は慌ててそれを遮った。 「別にお前のことじゃねぇよ、最後まで聞けよ」 向けられる恨みがましい視線。連合王国には、合衆国がなぜそこまで過剰に「こども」だの「大人」だのいう話を厭うのか未だに理解できない。頭ではわかっても、それにしてもそこまで気に病むことだろうかと。 そんな状態だから、うっかり下手なことも言えない。だいたいにして連合王国が常日頃から考えていることの大半は、合衆国には我慢のならない「古臭い」考え方らしいので。 「お前んとこのハロウィンはさ、こどものためのお祭りなんだよな、そう思うよ。仮装をする日が待ち遠しくて、袋いっぱいの菓子が欲しくて、慣れない道をこどもだけで、どきどき歩いてきたんだ。想像するだけで可愛いじゃねぇか。大人には、断る選択肢なんて最初からねぇんだよ」 まるで目の前に、ちいさな手をいっぱいに広げてお菓子をねだるこどもが実際にいるかのような、やわらかい笑顔。 この人は本当にこどもが好きだ、と合衆国は思う。いや、こどもが、ではない。自らを頼ってくるこどもが好きなのだ。自分だけに向けられる絶対的な信頼。彼の庇護欲は、いつだって対象を求めて飢えている。 いっそのこと保父にでもなればいい。向いているとは思えないが。 「……悪戯の中身なら、考えてあったぞ」 「人がいい感じにまとめようとしてんのに話を身近なところに戻すな。っつか、マジで菓子を要求する気だったのか、お前は。こどもか」 この言い回しはわざとだ。わかっていたから、合衆国もあっさり黙殺する。ちょうど、程良く香る紅茶をすんなり嚥下するように。あまり食いつくと、それこそ「こども」だと心から思われかねない。いや、合衆国についての連合王国の評価にいかなる心がけももはや無駄なのかもしれないが、これは合衆国の気分の問題だ。 「君が俺のためにお菓子を用意しない日なんてあったかい? 正直迷惑だけどね」 後半の一文は黙殺された。連合王国の方も、話を先に進めたかったのだろう。 「ねぇな。用意してあることが前提なら、悪戯の中身って何なんだよ」 こうしてあっさり認めてしまう心情が、未だに合衆国にはわからない。単に自ら腕を振るった「菓子」を、軍事作戦よろしく配り歩くのが趣味だから、というだけではあるまいに。困ったことに本人には混じりけのない好意と、ほんの少しの自己顕示欲しかない。 少し仲良くなった相手には、つっかかるような言い方しかできない連合王国が、その点に関してだけはまったく照れる様子もなく、まるで自らの当然の義務ででもあるかのように。合衆国の訪いに茶菓子を用意するのは当たり前のことだと。そんな心情は、合衆国にはいつまで経っても理解できない。 この感心すぎるもてなしに、しかるべき能力が伴えば、きっと世界は変わっていただろう、今とはまったく違う形に。などと、合衆国はたまに思う。 「……秘密だよ」 複雑な感情すべてをパイと一緒に呑み込んで、合衆国はつっけんどんに言い放った。 「あ、じゃあ来年は用意しねぇぞ菓子。その悪戯とやらを、披露してもらおうじゃねぇか」 「それでいいのかい? 君がいいならいいけど」 「う……っ、なんか嫌な予感しかしねぇな……、また金かけてくだらねぇことするつもりだろ」 連合王国が何を想像しているのかはわからないが、合衆国の愛する映画の数々であるとか、それに関するテーマパークの演出に近いであろうことは容易に想像がついた。 今頃はハロウィンに合わせた企画のヤマ場といったところだろう。その喧騒や迫真に迫った幽霊の姿を思い出すと、思わず笑みも零れようというものだ。 「お祭りは楽しくなくちゃ」 「それは否定しねぇけどよ。身内で素朴に、でも充分だろ。何だって元はそういうもんなんだし」 「それはね、帰る場所がある人間の言い分なんだよ、イギリス」 カチャリ、とカップが音を立てた。その行方を見守って、連合王国はため息をついた。 「……なんだかお前の方が大人みてぇ」 派手なものが大好きで、伝統やらしがらみやらが大嫌い。けれどそれはいつだって裏返しで。 安易な決めつけと批判に、慣れ切った青い瞳。 「ようやく気付いたのかい?」 「別に本気で言ってねぇよ、バカ。いつの間にこんなに大きくなっちまって、寂しいなーっていう、な」 「君に寂しがられるいわれはまったくないんだぞ!」 「あーハイハイ」 取り上げたカップは、すでに空。 いつの間にか半分以上見えている白い皿。ポットのお茶も温くなっていた。 「お茶入れ直してくるな。んで、ついでにちょっと庭見てくる」 そう言って連合王国が立ち上がった矢先、庭先につんととんがった黒い三角帽子がゆらゆら揺れるのが見えて、二人は顔を見合わせた。 「あんまウチに来るこどもはいなかったんだけどな」 「そりゃそうだろうね」 「なんでだよ」 「それより何をあげるつもりだい? うちじゃ最近は防犯上の観点から、市販のきちんと密封されたお菓子じゃないと喜ばれないんだ。あまり訪問されない君は知らないかもしれないけど、きっと君んとこでもそうだと思うぞ」 「市販の? んなもん用意してねぇよ」 「じゃあ、これをあげるといいんだぞ。Happy Halloweenを忘れずにね」 ポケットの中から山のように取り出されたキャンディやチョコレートの山に、連合王国は呆れ果てると同時に感心した。 色とりどりのお菓子。ぽっかりあいた穴を埋め尽くして。 快楽だけを見つめて、強く強く生きていく。 そうしていつか、夢見た場所に――。 こぼれんばかりのキャンディを両手に、いそいそとリビングを後にした連合王国を見送って、合衆国はすっかり麻痺してしまった舌に、ぼろり崩れるパイを乗せる。 「……もし君が俺のためにお菓子を用意してくれなくなる、そんな日が来たら」 そんな日は来ない。そうだ永遠に。 けれどもしもそんな日が来たら。 合衆国の民の心は誰よりも自由である。何にも縛られない。だから彼らは物理的に「帰る場所」を失った後も、各々に心の故郷を持っている。自らが心を寄せれば、それだけでいい。確かな血脈も縁故も、いかなる証明をも必要としない。個人の心の中は何よりも自由でなければならないからだ。 もしもそんな日が来たら、自ら帰る場所を放棄し訣別した合衆国はまた、心の故郷をも失うことになるのだろう。ただそれだけ。 その時、合衆国がする「悪戯」は。 温くなった茶を喉に流し込んでため息をつく。 「はーやーくー、熱いの入れてくれよー」 連合王国はまだ、小さな怪物たち相手におろおろしたり、太い眉毛をハの字にしたりと忙しいようだった。合衆国のわがままは、庭先までは届かない。 悪戯。どうせならもっとかわいらしい悪戯がいい。彼の好きな「こども」のような。 悪戯かもてなしか――連合王国が悪戯を選ぶ、そんな日は永遠に来ない。初めは祈りにも似た願望に過ぎなかったかもしれない。だが今では違う。もう何十年経ったろうか。幾百とめぐる暦の上を、ともに過ごしてきた。わかり合えなくても、完全には認め合えなくても。ともに過ごしてきた。 ともに。 その事実は何より確かだ。 ようやく戻ってきた連合王国は、こどもたちによほど嬉しいことでも言われたのか、微かに頬を上気させ、茶を入れ直すことも忘れて上機嫌に言い放った。 「そうだアメリカ、夕飯も食ってくだろ?」 空はうっすらと茜色。数字の上ではそう遅い時刻でもないのだが、自然の移ろいは容赦ない。 「嫌だよ」 たとえばボタンを押されたから、というような条件反射に過ぎない返答に、毎度毎度几帳面に拗ねる連合王国の心情は、実に図りかねる。 たった今、彼の手による見事な作品をやっとの思いで腹に納めたばかりだというのに、食べ物の話をする彼もいけない。 別段用事があるわけでなし、合衆国とて今すぐに帰りたいわけではないのだ。 「でも今日は君と朝までホラームービー見るって決めてるから」 カバンの中からどさりとディスクの山。合衆国自慢のそれらラインナップを、本人一人で観賞できないことは、連合王国とてとうに承知している。つまり、始めからそのつもりだった。 ――Trick or treat! 「……お前なぁ……」 先程のこどもたちの表情を思い出して、連合王国は緩む口元を抑え切れなかった。 今日という日を楽しみにして、おどろおどろしい仮装に身を包んで。「悪戯するぞ!」なんてただの口実で、本当は、お菓子が欲しくて欲しくてたまらない。 本当はこのうってつけの日に、ホラームービーが見たくて見たくてたまらないだけ。 「それって食ってくってことじゃねぇか」 いい加減、その話題から離れてほしい、とでも言いたげに合衆国の眉が寄った。 膨れたカバンから滑り出たディスクの山を崩しながら、まるで財宝を見つけた海賊のよう。 「どれがいい? 俺のオススメは……」 言われなくたって、大きな「こども」の楽しみを邪魔したりなんかしない。 本人に言えば拗ねてしまってきっと大変だ。 「じゃあそれにするか」 「早く早く! 電気は消すんだぞ!」 「それ一本見たら、夕飯の支度するからな」 「ピザでも取ればいいじゃないか!」 「しつこいなぁ、お前も」 「しつこいのは君だよ!」 合衆国の望み通りにカーテンを閉めてやりながら、そういえば庭の様子を見るのを忘れていたな、とふと思う。連合王国がちらりと振り返れば、わがままな王子様は、今から見ようという映画のパッケージを見つめながら、勇気を奮い立たせるように真剣な顔をしていた。そんなものを見てしまっては、たとえ命の次に大切な庭であっても、二の次にせざるをえない連合王国である。 「おい、準備いいか。消すぞ」 スイッチの前で問いかければ、待ってくれよと慌てた声。 平和だなぁ、とのんびり考える。 現在では彼が連合王国を代表することが多いわけだが、連合王国の一部を為す、あるいは既にその枠組みを離脱した、彼イングランドの兄にとってはその昔、今日十月三十一日がまさに年の瀬であったらしい。 こうして暦はひとめぐり。お定まりの行事に浮かれる我ら。まるで大樹の年輪のように、齢を重ねて老いていく。永遠に不変の輪に見えて、決して無為ではない。 ああ静かに日が沈む。 (2009/10/25)
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