青葉のころ 「ジョーンズ!」 親しげな挨拶や雑談ばかりが飛び交う朝のキャンパスで、わずかばかり硬い響きを持った抑えがちなその声は、静かに一学生の耳に届いた。まったく発話者の意図通りに、というわけである。 「……キャンパスで話しかけるなって言ったのはどこのどいつだよ」 眠いのか朝食を抜いてだるいのか、よくある朝の学生の顔で、彼は振り向いた。ぱらぱら額に落ちる金髪が、鈍く太陽の光を反射する。 「俺のことはみんなアルって呼ぶからさ、誰のことかと思っちゃったぞ」 快活な顔と体つきに似合わぬ眼鏡が特徴の、どこにでもいる平凡な学生。名をアルフレッド・ジョーンズと言った。 「俺からは話しかけるのはいいんだよ」 若干周囲の目を気にするように目を配りながら、近づいてきた男の顔立ちは、フットボール片手に明るい顔をした学生たちと同様に若いが、身にまとう落ち着いた雰囲気が、彼らとは一線を画していた。 それもそのはず、彼はとうの昔に学生身分を脱し、修士課程、博士課程を順調に終え、現在は薄給の研究員として大学に籍を置いている、いわば学者の卵なのである。大部分が将来を企業や官舎といった外界で過ごすことになる学生たちとは、自ずと見据えるものも異なろう。 かく言うアルフレッドも、その世界を目指す者の一人であった。 「なんだいそれ」 「おまえ、ウカツだろ?」 アルフレッド自身にとっては思い出したくない過去となりつつあるが、実はこの研究員とアルフレッドは単なる知り合い以上の関係なのである。八割方家庭の事情とはいえ、そうした状況を嫌って学生寮に飛び込んだアルフレッドとしては、今更蒸し返してほしくない話題ではある。そもそもこの研究員、アーサー・カークランドと同じ大学に籍を置くことになったのもまったくの事故なのである。 「バカ、この世界はな、いつどこで誰が何言ってくるかわかったもんじゃねーんだぞ。お前が研究者になっても、俺のコネで上に上がったなんて思われてみろ、実力があっても……」 「ああもううるさいなぁ、君とは別の道に行くからいいって言ってるだろ。まどろっこしい。君のそういう考え方が、そういう空気を生み出してるんじゃないのかい? これだから古臭い人間は嫌だよ」 軽く手に持っていた教科書を振って別れを告げれば、アーサーはここへ来て初めて、その取り澄ました表情を崩した。 「んなっ……」 そこから先は、まったくいつも通りであった。 スタスタと、芝生の間に設けられた小路など無視をして渡っていってしまうアルフレッドに、アーサーは子供のように「バーカバーカ!」と繰り返す。 他人には無関心な各々の朝だが、ちらちらと好奇の目が向けられるのもやむを得ないというものだろう。 ため息一つで絡みつく視線や幼稚な罵声を振り切って、アルフレッドはよく整備された緑の中を抜けた。 * 「なんや自分、朝からえらいブッサイクやなぁ」 パソコンのキーボードを叩くでもなく、机の脇に積まれた本の塔を眺めていたアーサーに、2時間遅刻でやってきた同じ身分の研究員がからから笑う。どこまでも陽気で影のない人柄だが、その分、考えなしにあけすけに物を言う。 「うるせぇよ、アントーニョ」 「なんやー、また面倒な仕事でも言いつけられたん? 参るよなぁ、どんどん予算減ってるのに、こんなんで会誌作られへんわー」 ひらひらと見積表らしき紙を振っているところを見ると、どうやらただの遅刻でもないらしかった。普段が普段だけにどこまで正当な理由があるかは大変怪しいところだが、それを咎める人間は、もはやこの研究室には存在しない。 「締切もあってないようなもんやしなぁ、忙しいー言われたらハイそうですかー、言うしかない身分が恨めしいわ」 依然むすっとしたままのアーサーを気にも留めず、アントーニョはカタカタとキーボードを叩き始める。どうせただのメールチェックだろうと決めつけて、アーサーは背もたれに体重を預けた。 「……なぁ、その会誌って、学生にも論文募集してたやつだよな?」 「ああ、でもなぁ……一応主任命令で公募はかけてみたものの、学部生でそんなん出してくる猛者おらへんよ。だいたい皆、公募は院生やなぁ。主任と副主任の選考入るしな。副主任はまた好き嫌い激しいやん。研究者志望でも、まずは卒論やろ」 「ふぅーん……」 何気ない相槌を返したつもりが、隣の席の住人はマウスをいじる手を止めて、急に身を乗り出してきた。 「お、なんかよからぬコト考えとる? 自分」 「な、なんだよ急に……」 「その顔は昔から見慣れとんねん、おもろいこと?」 「まぁ、おもしろいっつー低俗な言い方はどうかと思うが、この業界的にも、意義あることだと思うぜ」 アーサーは後ろのラックに並べられた会誌のバックナンバーを手に取って、ぱらぱらとめくってみせる。 「お前も、こんな予定調和の会誌作ってたって面白くないだろ? 歴史に名を残したくないのか? なんのために研究の道を選んだ!」 ここまで話したからには死なばもろともだ、と声を荒げたアーサーに、アントーニョはきょとんとしている。ここで興味を引けなければ今にもいつもの造花の内職に走りそうなてのひらを押さえて、開けっ放しの研究室の戸を注意深く見守りながら、アーサーはトーンを落とした。 「俺の知り合いってわけじゃないんだが、ちょっと知ってる奴に、すげぇ才能の持ち主がいる。まだ学部生なんだが、間違いなくこの業界に風穴をあけるぜ。どんなに才能があっても、やっぱ最初は後ろ盾って必要だろ? そいつを、俺たちの手で、世界の頂点に押し上げるんだ。おもしろそうだろ? 幸いにして俺は副主任には顔が利くし――」 えー、どんな奴なん、と瞳を輝かせるはずだった同僚はしかし、二三度瞬きをした後、うっとおしそうにアーサーの手を払った。 「それって、時々自分がその辺で話しとる子?」 「……え?」 「メガネの――」 「え、え、そんな、いつ……」 アルフレッドと自分の、親族とも家族ともいうべき特殊な関係については法律上なんら記録に残ってはいない。文字通り特殊なのだ、要するに。よってそれほど親密な関係であることは、アーサーさえ注意していれば――そしてアルフレッドにもきつく言い渡してある――大学関係者には漏れないはずだった。 予想だにしなかった切り返しに、思わず不自然に声が裏返る。 「えー、ちょっと話してるの見かけただけやって。割といつも仲良さそうやなーって。自分、年下相手やと、子分みたいのはいても、ああいう風に、なんていうか、友達とか、家族みたいに話してるんは珍しいから」 「あ……え……か、家族なんて、まさか……ハハハ……」 いきなり核心を突かれて声も出ない。まさか。細心の注意を払っていたはずなのに。 「ああ! その子を自分のコネ使ってうまいこと副主任に気に入らせて、あの若さで花々しくデビューさせよって肚やな! 自分らしいなぁ。ま、そんな個人的な話、俺はウマイ汁でも吸わせてもらわな乗らんけどな!」 「え、ちょ、違、コネとかじゃ、なくて……」 ズバズバと心に痛いセリフを的確に発射されて、もはや弁明するほどの力は残っていなかった。頭を抱えると、足下に数冊積んであった本が崩れた。 「そういう話は俺より副主任としてやー。俺は万一上手くいった後に、論文見て実力判断させてもらうわ」 「万一ってなんだ万一って!」 「いやー、この世界確かに後ろ盾は重要やで! その子はよかったなぁ、お前で! なんてなー、ハハハハハハ!」 思い切り不愉快な大爆笑を残して、メールチェックもそこそこに、アントーニョは研究室を出て行ってしまった。後に残されたのはアーサーと、言わなきゃよかったという後悔だけである。 時計を見上げれば、あと十五分で昼休みだ。 「くそ、ちっともやることやってねぇ!」 * 「ジョーンズ!」 混雑したカフェテリアを避けて、中庭の売店でベーグルを買った。登校中に買ったコーラのボトルと、それだけではもちろん足りないので、後でドーナツでも買いに走ろうと思う。少し遠出をして、チキンでもいい。午後の授業は確か出席を取らないから、多少遅刻したって構わないだろう。 「ジョーンズ! おい」 取り留めもない考え事に身を浸して腹を満たす作業を続けていると、隣に座っていた年齢不詳の東洋人が、何やら気持ちの悪い黒い物体を頬張ったままの状態で、アルフレッドの脇腹をつついてきた。 「あなたのことじゃないんですか、さっきから」 「あー、いいのいいの」 「あんな物陰から……何か大事なお話があるんじゃないんですか」 黒い物体の裂け目からはライスが覗いている。そんな彼が左手でぽり、とつまんだ黄色の欠片も、ポテトチップスのようでありながら、まったく違う独特の匂いを放っている。 「ったくなんだよ……自分が一番話しかけてくるんじゃないか。言っとくけどあんな人、他人なんだからな」 「なんですその意味深な言い草は」 MOE、と呟き出した友人を放置して、仕方なしにアルフレッドは立ち上がる。 件の人は友人の言う通り、柱の陰から必死にアルフレッドを呼び出そうとしていたようだった。あくまで秘密裏に。 ちっとも実行できていないけれど、それを指摘すると怒るから黙っておく。 「今度はなんだい。ジーンズに穴が空いてるっていう苦情なら聞かないぞ、これはわざとで……」 「ちっげーよバカ」 相手はアルフレッドの言を一蹴すると、ゴホンとわざとらしい咳払いをして、ことさら柱の陰にアルフレッドを呼び寄せたがった。 そうして自らの話の重要さを演出するのは、そろそろいい歳なのでやめてほしいと思う。 「お前さ、論文書いてみる気はないか?」 「書いてるよ」 「違う、そうじゃなくて。今度会誌に載せる用のさ」 「はぁ? 院生でもないのに」 「実力があれば、んなことは関係ねぇよ」 また訳のわからないことを言い出した。こんなことで貴重なランチタイムを削られたのではたまらない。 「バックナンバーは見たことあるだろ? な、出してみろって、お前なら絶対通るから」 いつまで子供だと思われているのやら。こういう時、アルフレッドは無性に、腹立たしいやらやるせないやら、複雑な感情に襲われる。 「……どうせまた裏で汚い手使うつもりだろ。やめてくれるかい? 恥ずかしいから」 軽い調子で肩を竦めてみせる。思った以上に声が震えたのに、きっとアーサーは気づかない。 「ん、んなわけねぇだろ!」 「君がその歳で相当権力あるのは知ってるよ、でもさ。いい加減、もういいよ、こういうおせっかいさ」 アーサーは気づかない。 「お前には実力がある実力があるって言いながら、君が一番、俺のこと信じてないんだよね」 その生来の振る舞いなのだろう、まるで実の弟に注ぐような愛が、アルフレッドを傷つけ続けているのだとは。 アーサーは気づかない。 本当は、アーサーなどとはまったく違う研究分野に進めるのならそれが一番よかった。でも他ではだめなのだ。生涯を捧げて研究する意味がない。 ちょっとした寝物語、背伸びして覗き見たアーサーの書棚、時々漏れ聞こえてくる電話の会話――きっとアルフレッドのすべては、そんなアーサーの背中に規定されている。認めたくはない。けれど頑迷に事実を否定するほど子供でもない――もう。 「俺はいつか君を超える研究者になるよ」 こんな風に言うつもりなどなかった。 言えばきっと、それだけで満足してしまう気がしたから。 ここからだ。言うのは簡単でも、実現するにはきっと辛く長い道のりが待ち受けている。簡単に言ってしまったことを、やはり少し後悔した。 「だから、俺の心配なんてしてないで、さっさと研究に戻って自分の心配したらどうだい?」 翠の瞳に映った当惑の色には、少し溜飲が下がったけれど。 ああ、昔から、彼の瞳は深い慈愛をたたえて美しい。 ――きっと、君がわかってくれることはないんだろうな。 「すっきりした顔なさってますね」 友の元へ戻ると、彼はアルフレッドを待ってくれていたのか、表面が黒いライスボールを手に持ったまま、器用に携帯をいじっていた。 「んーそうかい? 言いたいこと言ってすっきりしたかもな、確かに」 「おやおや、アルフレッドさんが言いたいことを我慢することなんてあるんですか?」 ずいぶん失礼な言い草だ。けれど確かに、自分らしくないとは思う。それが悔しくもあり。 「あるさ、そりゃあ」 * 「あー、アーサー。その顔、やっぱフラれたんやな! あの子の方が大人やんなぁ!」 昔からの友人と、かねて約束していたランチを終えて、ひどく高揚した気分のままキャンパスへ戻ったアントーニョは、そこで真逆の空気をまとった同僚に再会した。 しかしながら、軽い気持ちで発した事実確認は、想像以上に低い、ドスのきいた声に迎えられる。 「うるせぇテメェ、中庭の池に沈めんぞ」 この声には聞き覚えがある。そして実際に中庭の池の底を見たことのあるアントーニョとしては、震え上がらずにはいられない内容。どういう経緯でそんな経験を持つことになったかは訊かないでほしい。 「やめてぇえええ! それだけはぁああ!」 思わず恥も外聞もなく叫んでしまい、研究室にはまた一つ、不穏な噂が増えることとなった。 あの、西兄ちゃんの喋り方はあくまで西語であって広域的な関西弁というか…w …ツッコまないでください! ただ英に「ジョーンズ」と言わせたかっただけの続かないパラレルです。 最初、副主任がプーで主任がフリッツ親父とかいう謎の展開に持ち込まれるところでしたが、そんな風に血迷ったことも、今となってはいい思い出です…(遠い目)。 (2009/9/9)
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