雨が降り出した。深夜のアザーンが雨音に掻き消されながら聞こえてきたところで、トルコは宰相の元を辞去する。続きは明朝。
ぎしりぎしりと、大帝国は軋みを上げて歪み始めていた。
元より人の集団などもろいものだ。それを嘆くほどロマンチストでもない。
今あるものを支えるための改革か、今あるものをぶち壊すための改革か、そのどちらとも判然としないまま、決断の時は迫ってくる。
どちらでも構わないのだと思う。
ただ、長くぬるま湯に浸かりすぎた人々にはそれが見えないだけ。
――さて、あのガキはどう出るか。
見た目はもう立派な成人男子だった。人間でいえば、もはや結婚して子供を設けていてもおかしくない。
それなのに、彼はいつまでも手足を縛られた子供のフリで、色々なものから目を背けていた。彼は立ち上がらねばならない。心に滾る闘志を、現実のものとしなければ。
概念と概念のはざまでばかり遊んでいるような酔狂なガキだ。現実のことは何も分からない、興味のないフリで。
それでこそ、この帝国に居場所を与えられ、生かされる立場たりえた。
だがそれでいいはずはない。もう気づいているのだろう。気づかなければ、ならない。
それがお互いにとってどんな結果をもたらそうとも。
あの子供が時折瞳の奥に見せる強い憎悪の光を、トルコは常々恐ろしいと思っていた。あれほどの情熱を内に秘めながら、彼は毎日毎日、昼寝をしては御託を並べて恨み事を吐いて、その実、支配者の機嫌を徹底的に損ねることだけはせずに、何のエネルギーも使わずに暮らしていた。いつの間にか、それが一番楽だと悟ったのだろう。
だが、彼の心の底には確実に、眠れる憎悪が潜んでいるのだ。怖いのは、それが危うい均衡を保ちつつ、今まさに変わらんとしている世界情勢のバランスに、一石を投じること。
あざとい西洋の狗どもが動き出した。
もう、このままではいられないだろう。お互い嫌い合う形だけは取りながら、怠惰に日々会話し戯れ、庇護し甘える関係は、間違いなく終わりを告げる。
何気なく目をやった庭には、ぼんやりと白い影が浮かんでいた。それがギリシャなのだと悟るのが遅れたのは、厚い雨のカーテンが、トルコの視界を遮っていたからだった。
得意の考え事なら、庭に設けられた休息所に入ってすればいいものを、彼は屋根もない庭先で、いまだ海を、見つめていた。
「おい!」
怒鳴り声を上げて庭に踏み出せば、じゃぷんと水たまりが跳ねた。それくらいの豪雨だった。
夏も終わり、肌に触れる雨も冷たい。
聞こえているだろうに、振り返りもしないギリシャの腕を乱暴に掴む。
「中入れ、風邪ひくぞ」
あっという間に、衣服が水を吸って重くなる。引き摺るように引いたギリシャの腕は冷たかった。
「……トルコ」
「あ?」
「お前は、ひどい支配者だった」
「あぁ? お前、ぶっ飛ばされてぇのかぃ」
ギリシャの柔らかな髪を伝った雨は、後から後から彼の頬を流れていく。眦を滑った雫は、まるで涙のように見えた。
おそらくは、見間違いだ。
弱々しく笑う顔を、久々に見た。幼い頃はよく、自ら深い思索の奥底に嵌り込んでは、よくこうして、情けない泣きそうな顔をしていたものだったが。
「現文明の源であり始祖である、誇り高き母の血を汚し、自由を奪った、お前は卑劣なやつだ。なぁ、そうだろう……?」
震える指が、トルコの仮面をそっと剥ぎ取った。瞬くトルコの目を見て、大粒の雫が、揺れる瞳から零れ落ちる。
「だから俺は、俺は……お前を……」
ああ、これは彼の決意表明なのだ、と思った。
「そうかい、頑張んな」
打倒される側であり、裏切られる側であるトルコがこんなことを言うのもおかしな話だと思ったが、胸の底から溢れ来る父性愛にも似た感情を抑えることができずに、ぽんぽん、と後頭部ごと抱き込んだ。ギリシャはなお、震えていた。
彼もついに旅立つのだ。それがいい。彼はこんなぬるま湯で、すべてを忘れたフリをして、怠惰な享楽に耽っているだけではもったいない、力強い輝きを、奥底に秘めている。
きっととっくの昔に、いつかこんな日が来るのだという気がしていた。
「お前なんか嫌いだ……」
「ああ、俺もでぇ」
お互い、何度繰り返したかわからないセリフで関係を確認し合った後、どちらからともなく口づけた。
舌を絡ませるたび、雨が口の中に入ってくるのが、とても煩わしかった。
続き2.5話は裏にあります。
18歳未満の方、エロシーンが苦手な方はそのまま3へお願いします。
そんなえろくないんですが……orz
(2008/7/11)
(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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