見よ、羊は帰る


 ミナレットの先端に、細い三日月がかかっていた。天を刺す細長い塔。
 日は完全に沈み切ってはいない。限りなく灰色に近い紫の空に、一筋、真っ白な引っ掻き傷。
 あれは自分だ、ギリシャは思う。
 世界を覆う大帝国。そこにぽつり、浮かんでは沈み、もがき漂う異端。
 マグリブのアザーンが聞こえる。
 いざ礼拝へ来たれ――いざ救済のために来たれ――
 のびやかな男の声。
 目を閉じて、海峡より流れ来る夜風を頬に感じながら、ギリシャはそれを聞き流した。
 救済。
 彼らのように熱心に祈りを捧げることのない自分には、救済は訪れないのだろうか。
 礼拝の時間、ギリシャはこうして海を眺める。言うまでもなく、支配者は礼拝に身を投じているのであるし、その他の官も同様である。だからこの時間だけは、ギリシャは誰にも邪魔をされずに、胸に秘めた想いを見つめ直すことができた。――それは憎しみのようであり、絶望のようであり、罪悪感のようであり、また救いのようであり、歓びのようであり、希望のような、そんな感情だった。
 トプカプ宮殿の最奥、第四の中庭。ボスフォラス海峡を挟んで、対岸のウスクダルを臨む、景勝の地だった。だがもはや日はすっかり沈み切り、信徒たちが日没後の礼拝を捧げる時間だ。見えるのは黒く横たわった水の塊と、ところどころ灯るわずかな光、そして。
「雲が……出てきた……」
 湿気を含んだ、少しひやりとした風が体に纏わりつく。
 雨が降るのだ。
「こんなところにいたのか」
 ざくりと無遠慮な足音、振り向かずとも主は知れている。
「……早いな」
 手順のきちんと決まっている礼拝は、平均で三十分はかかる。単に自分がぼーっとしていただけかもしれなかった。考え事に浸って時間を忘れることは、よくある。
「あんまりお前を一人にしたら悪ィと思ってな」
「余計なお世話だ」
 ようやくギリシャは振り返った。そこには予想通り、不敵な仮面の笑い顔が待っていた。
 軽くそれから目線を逸らす。でなければ、あまりに不公平だと思った。
 こちらばかりが、表情をさらけ出している、なんて。
「何考えてたんでぇ? また小難しいことか?」
「そうだな……雨と無気力と、ピタの関係について」
「ハラ減ったのか?」
「……そうかもしれない」
 会話を打ち切って、ギリシャは手摺の傍を離れた。手摺を掴むためにむき出しになっていた手を、ゆったりとした袖の中にしまう。
「待ちねぇ」
 その腕を取られた。なんとなく、今日はトルコがしつこいと感じたが、抗う気にはならなかった。
 そんな気概など、自分はとうの昔にどこかに置いてきてしまったから。案外、支配され庇護され、道を示されただ従っている怠惰は、心地いいものだと知った。それはきっと、一度知ったら抜け出せない、薬のようなものだ。
 いや、置いてきたのではないのかもしれない。心の奥底に閉じ込めて、かたく鍵をかけてしまいこんでいる。――来るべき日のために。
 いつか北の国から、金の髪を持つ神の使者が、ギリシャを再び救い出すその日のために。
 それまでは、せいぜい大人しい飼い羊でいてやろう。
 内心笑ったのを気取られたのか、トルコは面白くなさそうに鼻を鳴らして、乱暴にギリシャの腕を払った。
「お前は変わらねぇな」
「……そうか?」
「そうさ、昔から、反抗的な目つきしやがって」
 かく言うトルコの目は仮面に覆われていて、見ることができない。ひどい矛盾だ、とギリシャは嘲笑に口元を歪めた。
「自分は絶対お前なんかの言う通りになりません、って顔して、その実、どっぷり浸って甘えてる」
 だが次に嘲笑ったのはトルコの方で、ギリシャは唐突に、核心を突かれたような、心臓をナイフで一突きにされたような、息苦しさと衝撃を味わった。
「おお、怖ぇ怖ぇ、睨むなよ」
 本当は、トルコの言う通りなのかもしれない。
 だってこの生活は楽だった。
 外敵の心配もせず、既成の秩序の上を滑って、ただ毎日を義務的にやり過ごしていける。金とコネさえあれば、支配者もその駒も寛容だった。かつての西の教会のように、頭ごなしに異教を押しつけたりはしない。
 そして、ギリシャ自らは何一つ責任を負わず、頭を使わず、リスクを冒さず、細かな不満はどんなことでもすべて、支配者にぶつければ欝憤が晴れた。
 そうして余った時間をすべて、何の意味もない思索と、ほんの少しは意味のある、商売に費やした。
 ひどくゆるやかで、ぼんやりとした人生だった。
 自分は、こんな生き方がしたかったのだろうか。
 いつの間に甘んじている。いつの間に、変わることを恐れている。
 いつの間に、盾なく向かい風に晒される勇気を、失ってしまった。
「……お前は変わった」
 自身への呆れと絶望をごまかすように、ギリシャは敢えて辛辣な口調で言った。本当は、こんなふうに厳しく責め立てられるべきは自分の方なのだろう。
 こんな怠惰な生に、なんの意味がある。
「昔は、あんなに強かった」
 憂いがあるのはトルコも同じらしい。何気なく口にした戯言に、こちらが驚くほど反応した。
「……時代が、変わる」
「……時代」
「そうさ。お前の母が滅びたように、抗えねぇ歴史の節目ってやつぁ、必ずやってくるもんさ。どんな大国にも、穏やかな朝靄が散り、灼熱の陽が降り注ぐ時が」
「お前も滅びるのか?」
 それはまったく唐突に、ギリシャの心を打った概念だった。今までトルコを「殺してやる」と憎んだことは多々あったけれど、それは実現されえないことなのだと、なんとなく本能的に悟っていた。諦めていた、受け容れていた、――願っていた。
 それを、何かとてつもなく大きな、絶対的なものが――それこそ「神」だとか「歴史の節目」だとかが――まるごともぎ取って消し去ってしまうなんて、そんなことが有り得ていいものだろうか。
 現実味が湧かないのに、ぞくりと、足場の一切を消失するかのように恐ろしい。
「……さあな、それこそ神のみぞ知る、でェ」
 怖い、と思った。
 こんな日々が永遠に続くのだろうと思っていた。毎日起きて、日課のように朝食を取って、仕事をして、たまに帝国の官と小競り合って、街角ではこっそり不平不満を漏らし、夜にはまた眠りにつく。この大帝国は飽きることなくギリシャを包み続けるのだろうと思っていた。時に憎み合い、時に利用し合い、時にお互い無関心に。それでいて、ずっと。
 どうしてそんな風に思っていたのだろう。
 それこそが紛れもない怠惰の証であった。ギリシャは身震いする。
「そういうことを考えんのが好きなのはお前さんの方だろィ、俺はせいぜい、滅びねぇように仕事してくらぁ。あとで、結論が出たら教えてくんな」
 ――俺は結局滅びるのか、そうでないのか。
 笑いながら――なぜそこで笑うのかが、ギリシャには理解できなかった。王者には王者の、覇者には覇者の、論理があるのだろう。それはギリシャには決して知りえないものだ、残念ながら。ああ、国として生まれ、そのような諦念が身に染みついていることは果たして是か非か。恐らく非だと言うだろう、野心に満ちた冷酷な獣の目をしたあの西の連中は――、トルコは去っていった。宰相のところへ行くのだと思う。最近彼らはずっとああして、深刻な顔で何かを話し込んでいた。
 そんなことさえ、数百年前には見られなかった光景なのに、どうして甘んじて、ただずっとこの生活が続くと思い込んでいたのだろう。
 ギリシャは唐突に、ひどい虚脱感を覚えた。
 この世はいくらでも変わりうるのだ。それこそそう、賽の目一つで。
 なぜ忘れていたのだろう、――いや、始めから知らなかったのか。
 時代が、変わる。
 ぐらりと足もとが揺れた気がした。
(2008/7/9)
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(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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