1827年6月4日 ロンドン がつん。 固い金属音が庭から聞こえ、俺は思わずティーカップを取り落としそうになった。 何か大きな質量のあるものが、空から降ってきたみたいな音だった。 穏やかな昼下がり、庭への闖入者の正体はすぐに知れた。しかしあまり、歓迎できる類のものではない。 それは庭に置いてあった金属製の細かな細工の施されたテーブルに爪をかけ、俺の姿を認めると、嘴からぱさりと、一片の白を落下させた。そのままバサバサと羽を動かす。その風圧でテーブルから落ちた封筒に俺は「あーあ」と眉をしかめ、主人と同じく教育のなっていない――まあ主人の方の教育をしたのは残念ながら俺だが――茶色い羽と、白い頭を持つ獰猛な生物に、今日の夕食にでもしようと買ったばかりの魚を与えてやる羽目になった。 対峙するのに少しばかり緊張を要する大きな肢体は、まったく主人と変わらない。大空に珍客を見送ってようやく一息ついた俺は、かわいそうに庭の端まで飛ばされ土にまみれた白い封筒を取り上げた。大海原を越え風雨に晒されたそれは、すでに惨憺たる有様だった。というかこれをずっと咥えたまま大西洋横断という暴挙に出ておきながら、あんなチャチな魚一つで満足するあの鳥は、どれだけすごいんだ。まぁ、アメリカだからな。俺は強引に自身を納得させた。 INVITATION――招待状――真っ先に目に入った、銀の飾り文字にぎくりとする。 そのタチの悪い冗談は、実に今年で四度目であった。 「……ハッ」 一気に脱力して、部屋に戻るなり、ソファにずるずると寝転がる。 そのまま封筒を放り投げてしまおうかとも思ったが、観念して、やや乱暴にびりびりとそれを開封した。 昨年のものより、便箋が一枚多い。一番外側は、儀礼として白紙のそれ。 何気なく目を通して苦笑する。季節の挨拶から始まって、何気ない世間話、近況報告、そしてこちらの幸運を祈る内容。なんだかあいつが小さい頃のようで、懐かしくなった俺は、つい油断したまま、ぱらりと二枚目に移動した。二枚目から先は、まったく去年と同じであった。どうやら一枚目は奴の小賢しいダミーであったらしい。 ぎりぎりと痛む胃に溜め息をついて、俺はぱさりと手紙を床に取り落とした。もはや続きを読む元気はなかった。 今日はせっかくの休日なので、これから部屋の掃除でもしようかと思っていたのだが、その気分も萎えてしまった。できるならこれから向こう一ヶ月は、奥の寝室に閉じこもって不貞寝をしていたい気分だ。 だがそんなことが叶うはずもない。 人生は斯くも無情なるものかな。 気だるげに、ゆっくりと身を起こした。頭が重い。ふるふる首を振ると、なんだか眩暈がした。 頭に靄がかかったかのようにぼーっとして、何も考えられそうにない。そろそろティータイムにしようかと思って準備しているところだったのが、もう何を口に入れる気分でもなかった。 あいつが何を考えているのか知らない。七月初頭の北米大陸は、俺が人生で最も忌み嫌う場所の一つだった。あんなところに足を踏み入れろと言われるならば、地獄にでも落とされた方がまだマシというものだ。 誰もが独立万歳と叫び、夜空には花火が輝く。 お祭り騒ぎの、浮かれた人々。 その様子を伝える新聞記事を見ただけで、吐いたこともある。 あいつが俺から離れ、独立していってしまったことは紛れもない事実であり、今更どうこう言うこともできないものだ。それは分かっている、もう足掻くのはやめた、認めている。 けれどそれを毎年毎年しつこく思い起こさせ、独立を煽った連中を英雄と崇め、勝利と解放を祝うあてつけがましい祭典を、勝手に催して気分よくなっているだけならともかく、俺に参加しろと言うのは明らかに残虐な意図であった。 俺にその光景を、始終晴れやかな顔で見守り、賛辞と祝賀を述べよというのか。 そんなことができるはずがない。一秒だって、そんな場で笑顔を取り繕えそうもない。 浮かれ明るい顔の誰もが、イギリスを否定し、イギリスとアメリカの思い出を、燃やし尽くしてしまおうとしているようで。 ――俺には始めから君なんていらなかったんだぞ、なあそうだろう? あるべき形に戻れてよかったな、おめでとうって言ってくれよ。そうして君の罪を認めて、過去をなかったことにしてくれるなら、君のことを許してあげるよ。永遠の他人として。 どこからともなく、残酷なアメリカの声が聞こえる。幻聴だ。分かっていても、涙が零れ、意味もなく嗚咽が漏れた。 「ぅぁあああ……」 胃が焼けそうなくらいに痛い。 ぐっ、と喉にせり上がってきたものを感じて、慌てて再び庭に飛び出した。胃の中のものをすべて吐き出す。 「うぇ……っ」 涙が零れるのは、嘔吐の苦しさからか、それとも。 (2008/6/30)
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