聖者になんてなれないよ




「日本の家は本当に治安がいいんだな……」
 がたんごとんと、今日も多くの企業戦士を乗せて、鉄の固まりは首都圏を貫いて往復を続ける。
「……なぜです?」
 誉められたのは嬉しいけれど、唐突すぎる振りに若干戸惑いつつ、私は問うた。その時また電車が大きく揺れて、バランスを崩したイギリスさんは、一人だけ扉に寄りかかって呑気にゲームに興じていたアメリカさんに軽く衝突する。
「痛っ! 君のせいでゲームオーバーだぞ」
「不可抗力なんだからしょうがねぇだろ! いい歳して移動中までピコピコやってんじゃねえよ!」
 些細なきっかけで始まってしまった口喧嘩は、二人にとっては日常茶飯事でも、ここは私の家である。平日の昼間で、電車はそれほど混んではいないとはいえ、国民の皆様にも申し訳なかったので、私は話を本題に戻すことにした。
「近頃は我が国の安全神話も崩壊したと言われますが……」
「そうなのか? そういうふうには見えねぇけど」
「なぜです?」
 私は繰り返した。
「あれ」
 イギリスさんが軽く目線だけで示した先には、気持ち良さそうに眠りこける女子高生の姿。
 ああ、と瞬時に私は理解した。日本ではなんてことない日常の風景だが、海外ではなんて無防備なんだと驚かれ顔をしかめられると、聞いたことがあったからだ。
「確かにまだまだ民間の皆さんの防犯意識は低いかもしれません」
 言った瞬間、アメリカさんが寄りかかっていたのとは反対側のドアが開いて、スムーズに人の流れが入れ替わる。比較的大きな駅で、乗り換えポイントでもあるから、それで車内はずいぶん、がらんとしてしまった。
「座りましょうか」
 三人分あいた席を指して言えば、ゲームに熱中して口を開こうとしなかったくせに、真っ先に動いたのはアメリカさんで、私はいささか呆れながらその後に続いた。
 なぜかうっかりアメリカさんを真ん中に座ってしまったせいで、私とイギリスさんはやや身を乗り出して会話を続ける格好になる。
「そもそも電車って適度な暖かさですし、座席もふかふかでしょう? また適度で単調な騒音に、適度な揺れ。これで同乗者もいなくて、することもないとなれば眠くなりますよ」
「あー、確かに。すごく快適だな……」
「移動時間を有効に使った気がして気分がいいですしね」
「ふぅん」
 それでイギリスさんは納得したらしく話を切ったが、しばらくは向かいの席でまだこっくりこっくりと舟を漕いでいる女子高生を眺めていた。
「あの二人は知り合いかな」
 小さな声で問うてくる。視線の先を見れば、彼女は先程から、隣の老女に寄りかかったり身を起こしたりを繰り返しているのだった。
「違うと思いますよ。ああいうことも、よくあることですし――」
 あまり電車内で居眠りをしないというなら、確かに他人同士でああして、文句一つ言うこともないのは奇異に映るかもしれないな、と思った。
 何より私の国民の皆さんは、諍いを厭う。
 事なかれ主義で場が収まるのならそれが一番いいのだ、と言ったらまた怒られるだろうか。
 昼下がりの電車には、けだるい空気が流れている。せめて子連れのお母さん方や、学校帰りの小学生たちでも乗ってこればよかったのだろうけど、そんなこともなく、約一名は無言でピコピコやっているし、間に一人はさんでの会話もエネルギーを使うわ迷惑だわで、私たちはだんだん言葉少なになっていった。
 そうこうしているうちに、ついうとうとしてしまう。気づけばふらりとアメリカさんの肩に頭を預けていて、私は慌てて体を引き戻した。
「すみません」
 まだぼんやりと頭に霞がかかったようで、うまく口が回らない。
「眠いなら寄りかかっていいぞ」
 アメリカさんは画面から目を離さずに、そっけなく言った。
 いえいえ大丈夫ですと返そうとしたところで、アメリカさんの横顔越しに、こちらを見ていたイギリスさんと目が合った。が、すぐにぱっと逸らされてしまう。
 なんなんだろう。彼の不可解な態度もまぁ日常茶飯事なので軽く流そうとしたところで、私はようやく頭が覚醒するのを感じた。
 ――嫉妬か。嫉妬なのか。
 そわそわとこちらを窺う様子から見てまず間違いない。
 あのツンデレめ、まったく世話が焼ける。
 私は口元がにやけてくるのを日頃の訓練の賜物であるポーカーフェイスでやり過ごし、まだ眠そうな風を装った。
 失礼しますよと心の中で断って、軽く頭をアメリカさんの肩に預ける。
 真剣に体重を乗せるのも申し訳ないのである程度のところでセーブするのだが、これが結構辛い。
 だがこの日本。ヲタク文化を誇る国として、萌のためなら何にでも耐えてみせよう――。
 そっと薄目で窺ったイギリスさんは、そわそわと体を動かしたり、ちらちら私たちの方を見たりと、いかにも落ち着かない様子だった。
 しばらくその様子を堪能してふふふと幸せな気分に浸っていると、突然、かくん、と体が支えを失った。びっくりして、寝たフリを続けながらも状況を確認すると、だらりとゲーム機を持った両腕が、膝の上で伸び切っている。
 アメリカさんも眠くなってしまったらしい。
 こちら側からは私がプレッシャーをかけているからか、どうしてもアメリカさんはこっくりこっくりと、イギリスさんの方へ倒れていく。
 ふ、とたまに意識を取り戻しては定位置に直るアメリカさんに、私は聞いてしまった――「チッ」と、イギリスさんが舌打ちをするのを。
 普段、私の前では品のいい紳士然とした態度を崩さないイギリスさんが、彼の国の若者のように粗暴に振る舞うのは珍しかったが、これも彼の一つの素顔なのだと、今ではもう、くだらない幻想を捨てた私は知っている。
 イギリスさんは神経質そうに腕を組んで、まるで車内の全員が親の敵、みたいな顔をしていた。
 私は起き上がるタイミングを逸して、舟を漕ぎ続けるアメリカさんの肩に軽く頭を乗せたままだ。
 よく「集中したフリをしていると、いつの間にか本当に集中してしまっている」という話を聞くが、寝たフリをしていた私はいつの間にか寝てしまっていたらしい。目覚めてすぐに左隣を確認して、私は今度こそ、湧き上がる微笑みを隠すことができなかった。
 話相手がいなくなって睡魔が襲ってきたのだろうイギリスさんが、今度はふらふらと眠たそうにしている番だった。いつの間にゲームを片付けたのか、アメリカさんも、「寝よう」と真剣に肚を決めたらしく、堂々と座席に背を預け目を閉じていた。
 ふ、とイギリスさんのバランスが崩れ、アメリカさんの肩につきそうになる。「お」と見守っていると、そこで気がついたらしい彼はふいと体を起こす。
 ――ちっ。
 今度は私が半ば夢の国にいる彼の代わりに舌打ちしてやろうかと思った瞬間、それは起こった。
 意識があったらしい、アメリカさんは目を閉じたまま、まったく自然に彼の肩を引き寄せた。少しも淀みなく、左腕以外は微塵も動かさずに。
 あまりにもさりげない所作だったために、他の乗客はおそらく気づかなかっただろう。二人が目を閉じているのをいいことに、注視を続けていた私以外は。
 カタンコトン、カタンコトン、と小さく規則正しいリズムが、まるで母の胎内のように心地いい。
 私は真後ろに体重を預け、腕組みをして目を閉じた。電車で居眠りが日常茶飯事の私には、元より他人に迷惑をかけずに快眠を得ることなど朝飯前なのだ。
 それに何より今日は、いい夢が見られそうだった。
 目的地まで、あと三十分はある。
 それまでお二人も、どうかいい夢を。















 某さま方に遊んでいただいた折に披露していただいた、素敵な萌話。
 やっとこお話にさせていただきましたv 私、一番遅かった…!
 電車で寝るのって本当に気持ちいいです…。


(2008/6/4)



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