lettre d'amour




 この気持ちはなんだろう。
 イギリスはここ数週間頭を離れない自問をまた、繰り返した。
 この気持ちはなんだろう。
 これが「恋」ってやつなのか? だとしたらなんてあっけない。
 ただ、ほんの少し好感を抱いて、「そう」なってもいいかな、程度の想像ならしたことはある。
 これは「恋」だと決めつけてしまった時点で、それは本当に「恋」になってしまう気がする。「恋」なんてのはそんなもんだ。イギリスは長い人生経験からそう悟っていた。
 名前をつけた時点で勝手に気持ちが盛り上がり、どんどん落ちていく。はじめは些細な好感だったり、一時的な気の迷いだったりしたものが、だ。
 だから認めない。まだ認めない。
 まだ、「何でもない」と思うことはできる気がする。もう少しよく考えろ、冷静になれ。
 議場に入ってきたアメリカを思わず目で追ってしまいながら、イギリスは敢えてそこから目線を外すべく、既に着席している面々を順々に眺めていった。だが最終的には、やはりアメリカを見てしまう。
 こんなのも、「アメリカが気になる」と一度自覚したがゆえの刷り込みに過ぎないのだろう。「やはり気にならないかもしれない」と言い聞かせてみる。それだけで、このウダウダとしたループから抜け出せる気がするのに、もう少しだけこの浮かれた気持ちに身を委ねてみたい気もする。
 ああ、恋をしたら毎日こんな風にきっと楽しいのだろうな、と思う。そういう刺激を、求めているのかも。
 見つめているうちに目が合った。敢えて何も意識していない自分をアピールするように、軽く手を挙げて挨拶してみた。
 そんなイギリスに対してアメリカは一瞬眉をひそめ、それからため息を吐いて、再び毅然と前を向いて歩き出す。
 ――ほら。
 期待するだけ無駄だって。今回も痛い目を見るだけだ。
 イギリスはもう一度、自分に言い聞かせた。
 ――季節柄、ちょっと人の真似をしてみたいだけだ。もともとアメリカは弟として可愛がっていたし、その恩が少しは報われたらいいと、かねがね思っていた。そう、裏切られた分だけ、彼を想って泣いた分だけ、何かが届いて、報われればいいと。
 そこがうまく合致しただけだ。
 初夏。街で目にする雑誌にはやたら「恋」の文字が踊っているものだから。目にするたびにまるで有害物質のようにそれは体内に蓄積されて、ついにはこんなどうしようもない気分になった。
 どうしようもないな、と頬杖を突きながら、着席したアメリカを懲りずに眺めていた。目が合うことはなかった。
 そういえば恋というやつをもう何年もしていない。どんな感じだったろう。
 こんなものだったろうか。
 けれどアメリカ相手に「恋」だなんて。どう考えても不毛だ。
 ――やめやめ。
 まだ引き返せる。簡単だ。そう、恋ってやつはこんなもんじゃない。恋ってやつはもっと、一旦落ち込んだら二度と抜け出せないような、深くてどうしようもない感情のはずだ。
 首を振っていたら、隣のフランスに不審そうな目線を投げかけられた。
 なんとなく上の空のまま会議が終わって――しまった、もっとバリバリ仕事ができる男をアピールしておいた方が、アメリカにも好印象だったかもしれない――隣のフランスが話しかけてくるのにおざなりに返しつつ、アメリカの方をちらりと見やった。何やら日本と談笑している。
 あそこに絡んでいけば、いつものようにアメリカと口喧嘩じみた会話を交わすことができるだろう。けれど敢えて今日はそれを回避したい気分だった。
 そうまでしてアメリカと関わりを持ちたいだなんて、まるで本当に恋する乙女のようじゃないか。それをまだ意志の力でコントロールできる自分を確かめることで、これは恋などではないと確信を得たい、――これはそういう感情のような気がした。
 しかし、そうやって無理に抗っている姿こそが滑稽である気もする。
 そうだ。イギリスはもはや大人だ。大人たるもの、パートナーは戦略的かつ打算的に選ばなければならない。
 真に結ばれるべき相手など存在しない。すべては相対的な評価でしかない。ならば少しでも認めうる人物を確実に手元に留め置くべきだ。
 イギリス自身も男であるからこそわかるのだが、男というのは単純なもので、少しでも「あ、こいつ俺に気があるな」と意識したが最後、もはや相手の手中に落ちているものなのである。まずは「そういう対象」として意識させることからすべてが始まるのだ。
 好きだということを、さりげなくアピールしておけば、それでキープしたことになっていたりする。積極的なアプローチも告白も、すべてはそこからだ。いきなり突撃するのはただのバカである。
 ――よし、少しくらいアピールしてこよう。
 イギリスのちょっとした好意が本気か否かに関わらず、アメリカに好感を抱かれて悪いことはないはずである。
 敢えて「打算的でクールな」結論を弾き出し、イギリスは一人頷いた。
 顔を上げれば、既にそこにアメリカの姿はない。
「お前、アメリカに話しかけたかったみたいだけど、もういないぞ」
 隣でフランスが教えてくれた。
「べ、べつに話かけたかった訳じゃ……」
「あ、そ?」
 少し寂しく感じる自分がいることは確かだったけれど。
 今日は会議だけがアメリカと接触する唯一の機会であったのに。
 ――けれど別にいい。アメリカとなんぞ一日二日話せなかったくらいで死にはしない。
 別に構わない、全然平気だ。
 胸の中でひとりごちて、頷いてみる。
 うん、大丈夫。やっぱりこれは、恋なんかじゃないんじゃないか?
 相当頭が参っている。それもこれも最近平和すぎるからに違いない。他に考えることがないから、こうして世間の流行に乗せられてボケたことを考えたりする。「ひょっとしたらアメリカが、すきかもしれない」なんて。
「俺、図書館に行ってくるわ」
 とりあえず決意が挫けないうちに宣言してみた。
「NY図書館? なんだってそんな」
「難しい本を読みたい気分なんだよ」
 そして頭の中を長ったらしい単語で埋め尽くしてしまおう。love、なんて四文字が入り込めないくらいに。


 どさどさと、リーディングルームの木製の机に何冊もの貴重書を積み上げて、イギリスは一息ついた。
 いつ来てもこのアカデミックな雰囲気は落ち着く。平日だろうがお構いなしにリーディングルームは人でいっぱいだし、パソコンのキーボードがうるさかったりするので、やはり故郷ほどには落ち着けないが、それでも高層ビルの林立するニューヨークにあって、この図書館はイギリスの数少ない憩いの場であった。ニューヨークで会議の際は、会期中一度は訪れる。
 古めかしい英語を脳内変換する作業に没頭すると、雑念から遠ざかっていられる。それだけで脳のメモリをいっぱいに使ってしまって、他に考え事をする余地などないからだ。けれど飽きてくると、脳の疲れと人口密度の高さのせいで落ち着かない。結局はかどらなくて、気づけばぼーっと天井画を眺めていた。
 少し気を抜くと、むくむくとアメリカの顔が脳裏に湧き上がってくる。
 本人がいないときにまでアメリカのことを考えるだなんて、「重症だな」と呟きたくなるくらい恋する乙女然としている。むしろ自分は「重症だな」と呟いて苦笑したいのかもしれない。だってそんな日常って楽しそうじゃないか?
 いっそ一時の気の迷いなら、思い切り「ごっこ」に浸って楽しむのもアリかもしれない。どうせ今すぐアメリカに「好きだ」と突撃しようという訳でもないし。
 イギリスは開き直ってくるくるとペンを回し、なんとなく「カッコイイ」という理由から抜き取ってきたフランス語の本――カッコイイといえば外国語をスラスラと読んでいる様だが、生憎とイギリスがスラスラと読める外国語はそう選択肢が多くない――を下敷きに、午前中会議で使った資料を裏返しにして乗せた。
 愛を語るポエムが、イギリスの若い頃なぞは流行ったものだった。恋文の秀逸さが女を射止める。代筆職人まで横行する始末で――今思えば笑える。
 誰にでも一見して理解できてしまうようでは気恥ずかしいから、わざと古めかしい文語や外国語で書く、というのは誰にでも覚えのあることかもしれない。そうすると本当に、思春期の少女の日記のようだ。
「États-Unis」
 エタズュニは、フランス語で「アメリカ」だ。
 好きな人の名前を書いただけで気恥ずかしくて嬉しい――そんな自分がひどく若返った気がしてイギリスの心は弾んだ。
 恋ってこんなもんか? こんなもんだよな?
「Je t'aime」
 ジュテーム。さすがにコレは誰にでもわかる。
 慌ててぐちゃぐちゃと黒い線で覆い潰した。
 きょろきょろと周囲を確認して、忍び笑いが漏れる。いったい誰が、いい歳した男がこんなところでこんなバカな言葉遊びに興じていると思うだろうか。
 ああ、いよいよ「恋」っぽくなってきたんじゃないか?
「Ses cheveux blonds fascinent...」
 アメリカの、いつもはきちんと整えられた明るい色の金髪が、触ると実は意外に柔らかくさらさらと指通りがいいのを知っている。
 太陽の光を集めて、眩しい笑顔とともに輝く、彼に相応しい色だ。
 彼が笑えば怖いものなど何もない。誰もが勇気と、正義と、愛をそこに見る。
 ――お前のそんなところが、とても好きだよ。
 文法も何も、あやふやなところは全部無視をして、思いつくがままにつらつらと、読み上げるのも恥ずかしい文章を書き連ねていった。
 てのひらで隠し隠し作業をしていると、人には見られたくないがゆえに自然前屈みになっていく。そんな折、空席だった左隣の椅子がガタンと音を立てた。
 慌てて資料を裏返し本を乗せ、顔を上げれば。
 目が合った彼は、やはり溜め息をついただけで、つまらなそうに隣の席につくと、頬杖を突きながらペーパーバックに目を落とした。タイトルは卑近なSFのそれである。
 イギリスは広い室内を見渡した。そうするまでもなく、彼はイギリスを見つけたからわざわざ隣に来てくれたという訳ではなく、他に空席がなかったから仕方なくそこにいるのだという事情が、彼の態度から嫌でもよくわかった。
 いくら図書館が私語厳禁とはいえ、挨拶の一言もないのはひどい。
 ――ああ、やっぱり望みなんてねぇよ。バカな期待で突っ走らなくてよかった。
 イギリスは今すぐ、重たい本の下敷きになっている密かな恋文を握り潰したい気分になった。浮上していた分、落ち込み方も激しい。
 それでも、かなりの至近距離にアメリカが座っていることを意識し出すと、その「バカな期待」とやらがぐるぐるイギリスの頭を支配し出す。この大きな肩に当然のように寄りかかれたらどんなに気分がいいだろうとか、そうしたらアメリカがあの逞しい腕で、イギリスの腰や肩を引き寄せてはくれないだろうかとか。
 頭を巡るそれらの妄想は――妄想、本当に妄想だった――コントロールしようと強く念じてもなかなか消えてくれず、むしろエスカレートしていく始末。イギリスはどきどきとムダに逸る胸の鼓動を、もてあまさなければならなかった。
 アメリカはこちらに視線一つ寄越そうとしないのに、まったく虚しすぎて涙が出てくる。
 ちらり、と目線だけ動かして横顔を窺った。深く澄んだブルーの目を軽く伏せて活字を追う様は、予想以上にイギリスの鼓動を跳ね上げた。その顔がこちらを見て微笑んでくれないことが、余計に切ない。
 そのままイギリスを無視し続けるのだろうと思われたアメリカはしかし、やがて読んでいたペーパーバックを机に伏せると、ポケットから何やらくしゃくしゃの紙片を取り出した。胸ポケットに刺さっていたボールペンで、そこにさらさらと何か文字を書きつけると、くしゃりと丸めてイギリスの方へ放って寄越した。
 突然のコンタクトに、しなくてもいい期待が湧き上がる。
 たとえば「Shall we go out and chat?――ちょっと出て話さないかい?」とか?
 広げてみると、それはレシートだったらしい。昼食に彼がサンドウィッチを食べたことがわかった。
 しかし本題は裏である。何気なく裏返して、心臓が止まりそうになった。


 Pourquoi souriais-tu?


“何ニヤニヤしてたんだい?”
 カーッと顔に全身の血が集まった気がした。今、自分はすごく情けない顔をしているに違いない。
 慌てて机上の本を積み上げて、逃げるように閲覧席を離れる。
 焦り過ぎたために、本の間に挟まった資料がはらりと落ちた。
「あ――」
 拾い上げたのは当然のごとく隣の男で。
「États-Unis――俺のこと?」
 ひったくるようにして奪い返した。
「ばかっ!」
 静まり返ったリーディングルームに、自身の罵声は思った以上に響き渡って、衆目の的となってしまったイギリスは、顔から火が出そうになりながら退散した。
 ああ、ああああもう!
 どうしてフランス語ならわからないだろうだなんて、一瞬でも思ったのだろう。
 アメリカがもはや子供ではないことなど知っていた。めきめきと力を、知識をつけていることも。
 けれどいつの間にか彼は、イギリスが知っていた以上に、成長していたらしい。
 ばかばかばかばかばか!
 心の中で悪態をつきながら歩く。
 ばかばかばかばかばか――すきだ。
 ああどうしようもなく、抜け出せなくなっている。これが――
 これが近頃流行の。


















(2008/5/29)



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