午后ノ戯レ



 今イギリスが最も気に入っているティーセットがどれか、イギリスのキッチンに一歩踏み入った瞬間にすぐわかる。
 イギリスは必ず五つ六つのティーセットを常備していて、気分によって使い分けるのだが、その中にも偏りがある。まずそのティーセットは、食器棚の上から四段目の手前、一番手に届きやすい場所に収められている。
 これだけではいまいち確信が持てなくても大丈夫。一番手前のカップを一つ取って、中を覗き込んでみれば一目瞭然。イギリスがどんなに綺麗に洗おうと、イギリスが手ずから淹れた上等の茶葉は、うっすらと褐色の痕跡を、その滑らかな陶器の肌に刻み付けている。
 さらに気に入っている、普段使いのものになると、もはやアフタヌーンティーの時間など無視して常時イギリスの手元に置かれるわけだから、一層その痕跡は色濃い。
 口をつける部分には、くっきりと唇のあとがついていたりして。
「何してんだぁ、お前」
 ぼんやり手に取ったカップを眺めているときに、そんな無遠慮な声をかけられたものだから、アメリカは思わずカップを取り落としそうになってしまった。
「落とすなよ、それ」
 気に入ってんだからな、なんて言われなくてもわかっている。イギリスが口をつけたあと。
 あと。
「お腹すいたんだよ。……それにしてもこのカップ、汚いな!」
 なんでもないフリをして、カップを食器棚に戻した。
「うっせー! なんか食いにいくか?」
 さすがのイギリスも、けなされるとわかっていて、自ら手料理を提案する無謀な期待はしないまでに賢くなったらしい。
「めんどくさいよ」
 新しいパターンだなぁ、なんて感心してしまったりして。
 これがフランスあたりに吹き込まれた新手の作戦であったなら、ぜひとも裏を掻いてやりたいところだけれど、しかし。
「お前はもー。俺の料理じゃ文句言うくせに」
 あ。
 もうカードを切ってしまった。
 きっと何にも考えてないんだろうなぁ、と思ったら、少し憐れになった。
 君はもう少し、駆け引きってものを覚えた方がいいよ、俺みたいに――なんて。
「当たり前じゃないか」
「じゃあどうすんだよ!」
「『食べない』と『食べるけど文句言う』は違うぞ」
 噛み含めるように、けれど若干恥ずかしかったので目線を外しながら言えば、一拍遅れて、おもしろいくらいにイギリスの顔が輝いた。
「お、お前がどーしても食べたいって言うなら作ってやらないこともないけどな! 勘違いするなよ、俺が食べてもらいたいわけじゃないからな!」
 ああ、幸せってきっと、こういう瞬間のことを言うんだろうなぁ、なんて思ってしまっているアメリカは、だいぶこの素直じゃない兄に絆されてしまっている。
「はいはい」
 いそいそと腕まくりを始めたイギリスを横目に見ながら、「あぁ、どうせならもっとおいしいものが食べたかったなぁ」と若干の後悔を覚えたアメリカは、食器棚のガラス越しに、芳しい紅茶の匂いが漂ってくるかのようなふわりとした形のティーカップに、そっと視線を遣った。

     *

「ハッピーバースデーイギリスー!」
 大きな箱を抱え、ばぁん、とドアを蹴破って入ってきたアメリカに、イギリスはしばらくぽかんとした間抜け面を晒していた。
「ハッピーバースデーって……」
 わかっている。この気の遠くなるような年上の育て親に誕生日などない。
 けれどいいのだ。この文句はいつも、彼に贈り物をするときの口実なのだから。
「まぁまぁ、どうだっていいじゃないか。君の誕生日なんてさ」
「ど……っ、どうだっていいってことはねーだろ、ばかぁ!」
「あぁもう、いちいちうるっさいなぁ。はい、コレ」
 無理矢理に箱を持たせれば「重いな」なんて不審そうな顔。
「落とさないでよ。割れ物なんだから」
 言いながら勝手にキッチンへ向かう。箱をしっかりと抱えながら、イギリスがついてきた。
「今日はあのまっずいスコーン、ないのかい?」
「いきなり来て何だよ……まずいは余計だ、まずいは!」
 イギリスに、箱をキッチンテーブルに置くよう指示して、アメリカは、さっとリビングに足を向けた。
「じゃあ、今から用意しておいた方がいいよ! これからティータイムだからね!」
「はぁっ?」
 鼻歌なぞ歌いながら、ぼふりとソファに身を沈める幸せ。キッチンでは、イギリスがプレゼントの包装を解く音がしていた。
 やがて沈黙。
 そろそろ緩衝材の紙屑に埋もれた宝物を、彼が発掘し終えた頃だろうか。
 気づけば背もたれの向こう、アメリカのすぐ後ろに、イギリスが立っていた。
「なんだよ、あれ」
「誕生日プレゼントだぞ!」
 にこりと笑ってみせたのに、イギリスの顔には呆れたと書いてある。
 そんな態度取って、本当は嬉しいくせに、と声に出さずに呟く。
「どういう風の吹き回しだよ。ティーセットなんて。飲まねぇくせに」
 ああ、またネガティブ思考発揮して。
 疑ってる疑ってる。
「だから、君が飲むんだぞ」
 ソファに乗り上げるようにして体ごと振り向けば、その分だけイギリスも、のけぞって身を引く。
「……スコーンじゃないけど、チョコケーキ焼いたのが、ある。……食うか?」
「あのクッソ甘いやつかい?」
 べし、と頭を叩かれた。

     *

 箱から顔を覗かせた、真っ白な陶器。子供用なのか、アメリカのアニメがプリントされているが、きちんと実用には耐え得るだろう。オレンジ色のものと、一瞬迷って白にした。
 値段は想像どおり、大量生産の規格品らしいそれ。著作権料が上乗せされたくらいか。といっても、問題にならないくらい些細だ。
 イギリスがケーキを切り分ける間、ちらりと食器棚に目を遣った。イギリスお気に入りの茶器は、数日前見たときと同じように、定位置に大きな顔で収まっている。勲章をつけたように輝いて見えるのは、イギリスに愛された跡を、その身にまとっているから。
 やがてコポコポコポ、と温かな湯気を立てて、目の前の真っ白なカップに、茶色というよりは黒に近い液体が注がれる。次にイギリスが手元に引き寄せたカップには、こちらは本当に茶色と呼ぶべき、透明度の高い液体が。
 けがれを知らない純白の肌に、そっと唇がつけられる様を穴の開くほど眺めて、アメリカは胸のすくような満足感を覚えた。
 倣うように、自身もコーヒーに口をつけて一言。
「酸味が強すぎるよ」
 通ぶったことを言えば、イギリスはじとりと睨みつけてきて、笑いを堪えるように、アメリカは見目悪いケーキに手を伸ばす。
 一口噛み締めれば、じわりと甘さが広がって、逆に苦いような酸っぱいような、不思議な感覚だった。
 大きめに切り分けられたケーキを、砂糖を入れないコーヒーで無理やり胃の中に流し込んでアメリカは一息ついた。椅子の背もたれに全体重を預け、天井を仰ぐ。一仕事やり終えた気分だった。
 イギリスはといえば、カップに描かれた漫画をためつすがめつしながら、もぐもぐとまだ口を動かしている。その唇がまた、カップに落とされた。
 アメリカは思わず上がる口角を隠し切れずに俯いた。
 こうして何十回と紅茶をイギリスの喉に運んで、このカップにもイギリスの色素が沈着すればいい、と思った。
「ねぇ」
 おもむろに声をかければ、「あぁ?」と見返してくる。
 よくそんな平然とした顔で、このケーキを食べられるなぁ。
「あのティーセット、もう汚いよ、捨てちゃえば?」
「……ハッ」
 したり顔でイギリスが笑った。
 その悪どそうな顔、やめてほしい。
「で、お前のくれたコレを代わりにしろってか? お前、そんな回りくどい嫌味言いにきたのかよ。だめだぞ、あれは前の上司にもらった大切な――」
 件のティーセットを見つめながら、何か思うことがあったらしい、イギリスは唐突に言葉を止めると、静かにフォークを置いた。
「そうだな。……もうそんな時期かもな」
 その聞き分けのいい穏やかな顔は、時の流れの残酷さを知り尽くした顔だった。
 アメリカはどことなく面白くない気分で、静かに食器棚を見やる横顔を眺める。
 何でも悟り切ったような大人の顔。
 ガタリと音を立てて立ち上がり、プレゼントが入っていた箱を手に取ると、アメリカはガチャガチャとやや乱暴に、イギリスお気に入りのティーセットを中に突っ込んだ。
「な……っ、ちょっ、オイ! 何してんだよ!」
 ああ、そうそう。その顔だよ。
 嬉しくなって、心の底から笑顔が溢れ出すかのようだ。
「もういらないんだろ? 俺が帰りがてらに処分しておいてあげるよ!」
 そしたらここに、俺があげたティーセットをしまうんだぞ、と言えば、イギリスは虚を突かれたように目を瞬いて、それから顔を真っ赤にして笑った。
「ばか、お前、こんなふざけた茶器、アフタヌーンティーに出せるかよ」
「だから君だけが使えばいいんだぞ。君と、俺だけが」
「ぷ……っははははは!」
 イギリスのバカ笑いはしばらく止まらなかったから、アメリカは少々気分を害して、さっさと箱を小脇に抱えると、玄関へ向かった。中でカチャカチャと、年代物の陶器が断末魔を上げている。
 ――喚いたって遅いぞ、君たちは時代の遺物になったんだ。
「待てってアメリカ!」
 パタパタと、フローリングを鳴らすスリッパの音。
「……サンキュ」
 笑みを形作った唇に、貪りつきたい衝動を懸命にこらえながら、アメリカは別れの言葉を紡ぎ出した。
 歌うように庭を抜け、二度、三度と振り返り、彼の人が家の中で静かに過ごしていることを確認する。
 箱から、一番色の染みついたカップを取り上げた。口をつけた跡が、はっきりとわかるそれ。
 乾いた唇は、その子供じみた疑似的な接吻に、ちゅ、という音すら立てなかった。















 


(2008/1/9)



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