車のキーを弄びながら鼻歌なんぞを歌っているアーサーは、たまのオフで大層機嫌がいいようだった。
「早くしろよ!」
 中に声をかけるが、呼ばれた方はのんびり屋と呼ぶのものんびり屋に失礼であるようなスローペースな男だったから、「待って下さい」と情けない声を出すだけだった。これで五回目だ。
 見兼ねたアルフレッドが無理矢理トランクを閉めて玄関に運ぶ。
「あ、待ってよ――」
「何かあったらあとで送ってあげるから」
 マシューはしょうがないとでも言いたげに、白い熊のぬいぐるみを抱き寄せて、後に従う。満足したようにアーサーが頷いて、三人はエレベーターを降りて地下の駐車場に向かう。
「ワオ! この高級車が――」
「父親の車だ。これは車検とか面倒だから名義移さなかったけど――いるか?」
 目の前に横たわる黒光りのボディを一瞥して、アルフレッドは「いらないよ」と肩を竦めた。
 もはや仕事に復帰した身だ。与えられた財などに興味はない。
 このマンションもその他の不動産も、面倒だから放置していたけれど、もはやマシューが休暇を終えてカナダに戻ってしまう以上、父親に返すべきなのかもしれない。
 そう言うと、アーサーはエンジンをかけながら、「うーん」とはっきりしない声を出した。
「あの人も、もういらねぇって売りに出そうとしてたくらいだから……いっそ売っちまった方がいいかもな」
「じゃあ売ったお金は返しておいてくれよ」
「お前はもー、貯金はいくらあったって困らないだろ。老後のためにもさ」
「今だけを見て生きていくことにしてるんだ。それに、誰かに養われたり、贖われたりする人生はごめんだね」
 冷たく言い放つと、アーサーはもう何も言わなかった。そうだ、この件に関しては、彼にも父親にも、アルフレッドに口出しする権利はない。
 ――生きていく、自分の力で。
 いまや「新しい」家族を手に入れたから。
『エアーカナダ、7399便にご搭乗のお客様……』
 アナウンスが聞こえると、ざわめく空港のロビーで、マシューは腰を上げた。
「じゃあ、また。アーサー兄さん、アルフレッド」
「また遊びに来いよ」
「はい、二人もいつかカナダに遊びに来て下さい。いいところですから」
 今にも泣き出しそうな顔で無理矢理笑みを形作ったマシューの頬をむにっと掴んで、そのままアルフレッドは彼の腕の中のぬいぐるみの頭を撫でた。
「またね、クマ二郎」
「クマ吉さんだよ」
「えーっ、そうかい?」
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 帰国したら一番に本場のメープルシロップを送ってもらう約束を取りつけて、アルフレッドは搭乗口に消えていくマシューを最後まで見送った。
 これまで十九年間存在を知らなかった兄弟たち。この数か月で、ずいぶんと自分の数奇な運命を実感することになった。
 一介のウェイターのはずだったのに。まったく。
 けれどこうでなくちゃ、人生はおもしろくない。
 傍らの「兄」兼「恋人」を見下ろせば「何ニヤニヤしてんだよ」と眉をひそめられた。
「いやぁ、これからは二人っきりだな、と思って」
 腹が立ったので、すぐには出すつもりのなかった話題を振ってみた。案の定、彼はみるみるうちに真っ赤になった。
「は? ――はぁっ?」
「君、今借りてるマンション、適当に急いで決めたから気に入ってないって言ってたろ? 一緒に……その……暮らさない、かい……?」
 言葉を選びながら慎重に提案する。
 アルフレッドの頭の中には、もはや夢のような人生設計が出来上がっていた。少なくとも私生活の面においては。
 アーサーは恐らく頷くだろう。だが、細心の注意は払わねばならない。
 特にアーサーは気恥ずかしさが頂点に達すると、容量オーバーで訳のわからない行動に出がちだ。
「……どこで?」
 ほら。
 ――今それが問題なのかい? 訊く順番間違ってるよ。
 声には出さない。
「当面の間は、あのマンションでいいじゃないか。マシューも帰ったことだし。それから二人で、ゆっくり不動産屋回ったりして決めようよ」
 他意も下心もありません、といった爽やかな笑みを顔に貼りつけて、何気なく言えば、アーサーはすっかり誤魔化されて、「そうだな」なんて笑った。
「じゃあ決まり」
 手を握って、駐車場まで歩く。
 アーサーはしばらく気恥ずかしそうにきょろきょろしていたけれど、空港の片隅で熱烈なキスを繰り返しているゲイカップルを目撃してからは、どうでもよくなったのか、軽く距離を縮めてくることさえした。
「どうする? このあと市内で食事でもするか?」
 エンジンをかけながら問うた横顔に、何言ってるんだい、と吐き捨てた。
「これから君のマンションに行って、荷物をまとめなきゃ! 今日は俺達、すごーく忙しいんだぞ」
「え?」
「思い立ったが吉日って言うだろう。今日から同棲するんだから、ぼやぼやしてられないよ! ほら、早く!」
「え? え?」
 訳がわからないままに発進してしまった車。そうなればもう、彼は運転に集中するしかなくなる。
「明日は俺も君も仕事だろう? とりあえずいるものだけ持って、いらないものもできる限り今日のうちに処分しておきたいね」
 ぺらぺらと今後の予定を語り始めたアルフレッドに、アーサーはとりあえず頷いていたが、本当にわかっているのかどうか。
 二人で暮らすということ。
 二人で仕事を終えて、手を繋いで帰って、一緒にシャワーを浴びてベッドに入って、愛を囁き合って、そうして翌日の昼過ぎまで眠りこけたら、買い物に行って食事をして、また手を繋いで出勤しよう。 
 そうやって一日中、愛しい人と一緒にいられる。
 この同棲生活が、店の皆にはいつ露見するだろうか。意外と早いかもしれない。アーサーはうっかり者だから。
 今度、指輪を贈ろう。仕事中はつけてもらえないだろうけれど、家にいる時だけでも。
 前だけを見つめるアーサーの翠の双眸を眺めながら、アルフレッドは鼻歌を歌った。身から溢れ出るような幸福感は、とても自分の内側だけでは処理し切れそうにはなかったから。


 今日から始まる二人の生活に、仕事を離れて私人に戻った一ウェイターの、期待は尽きない。















Serves you right!

The END















25.5(裏にあります)のエロスでシメです!
もう少しだけお付き合いくださいませ…orz
 


(2008/6/14)



あとがき
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