のちに、実はフランシスが、とっくにアーサーと連絡を取っていたこと――アルフレッドの悪巧みなど本当に筒抜けだったことを知った。 そうとも知らずにいけしゃあしゃあと店を訪れては「アーサーから連絡はないか」と尋ねていった自分は、どれだけ滑稽に思われていたことだろう。 今更ながらに、情けなくて涙が出てくる。アーサーとフランシスに「なんて意地の悪いことを」と当たるのは、子供っぽい逆切れでしかないと思い止まったが、やはり釈然としない感情は残った。 そんなアルフレッドを見て、フランシスは「アーサーを責めないでやってくれ」と言った。 「だからさぁ、結局、経過はどうあれ、店に損失はないし、二人もお互いの気持ちに正直になれた訳でしょ。お兄さんはもうそれだけでいいよ。お前らがバカなのは知ってたからな。怒る気にもならない」 そうしてアーサー、アルフレッド両名が店にもたらした損失をあっさり水に流し、以後口外することもなかった。 アルフレッドはこの男の「大人」と簡便に称するにはいささか乱暴である、寛容で固執のない在り方には、一生勝てそうにないと、思い知らねばならなかった。つまらないことはネチネチとひきずるくせに、肝心なところでこうしてスパッと男気を見せる。 かくしてあっさり店に戻ることを許された二人には、今までの過失を取り戻せとでも言わんばかりの怒濤の日々が待っていた。 なぜなら、アーサーの不在で上層部の均衡が崩れた間に、料理長イヴァンがついに自分の言を押し通すことに成功したために、試験的に始まったロシア家庭料理風メニューの導入が話題沸騰し、店は連日大忙しであったからだ。 「今は雑誌等でも取り上げられて、物珍しさに一度試してみようという客層が増えているだけでしょう。恒久的に成功するかどうかは、まだまだわかりません。今の頑張りにかかってくるのでしょうね。コスト面でもまだまだ試行錯誤の段階ですし」 慣れない料理法を叩き込まれたらしい菊は疲れ果てた表情で言ったが、不思議とどこか楽しそうだった。 そんな菊を見て、ついにアルフレッドは、ここへ来るまでアーサー以外の誰にも告げていなかった「ごめんなさい」という言葉を、ほとんど無意識に洩らしていた。アルフレッドがこの店を見捨て、自己の利益のために売ろうとした事実を知っている者はそう多くない。それは徹底してフランシスがその罪を水に流してくれたからだった。 けれど、この東洋の神秘にかかれば、何でもお見通しということらしい。「あなたが反省するとは、いい兆候です」と菊はしたり顔で笑った。 「行為の善悪は意思に拠る、という話もありますけれど、確かに『結果オーライ』という言葉もあります」 するとたまたまその時顔を出したフランシスが、そうそう、としきりに頷いて、「アーサーとアルフレッドが戻ってきてくれて、それが一番嬉しいよ、俺は」などと言ったから、不覚にもアルフレッドはそれで泣いてしまった。 そんなアルフレッドをからかうでもなく、二人は交互に背中を叩いていく。 「結局、アーサーとは愛を確かめ合ったんだろ? あの坊っちゃん、あれで結構繊細だから、大事にしてやれよ」 「まぁ、お二人のことですし心配はしてませんけど」 笑みを交わした二人に、今度は「ありがとう」と言いたかったのだけれど、嗚咽が胸につかえただけで、うまく声にはならなかった。 人生の、酸いも甘いも自業自得。 今日も頑張るあなたのために、相応しいおもてなしをいたしましょう――。 「いらっしゃいませ!」 日の落ちた繁華街。人のざわめきとアルコールの匂い。仕事で疲れ切った人々の張り詰めた心を解放し、明日への活力となる楽しい休息を。 おいしい料理、スイーツにお酒、ついでに引き締まった肉体美が行き交うフロアで、夢のような一時。 その扉を開ければ、明るい声とともに、若いウェイターたちが出迎えてくれる。 「24卓、バッシング」 すれ違いざま囁いたアーサーに頷き返して、アルフレッドはすぐさまにこやかな笑みを作った。 「ありがとうございました!」 「今日も素敵よ、アルフレッド」 「君こそ」 「また来るわ」 「待ってるよジェニー!」 常連客とのおしゃべりに、元気をもらう。 どんなに疲れていてもスッと背筋が伸びるようなこの感じが、アルフレッドは好きだった。 だが幸福に浸ってボーっとつっ立ってはいられない。ウェイターは忙しいのだ。アーサーの指示に従ってテーブルを片付けに向かう。 「すいませーん」 声をかけられ顔を上げた瞬間に、アーサーと目が合った。 微笑んだ顔がたまらなく愛しい。 ――ああ。この店でアーサーと二人、ともに生きていこう。 十年先、二十年先のことは考えず、輝ける今を、精一杯。 晴れやかな気持ちで一日を終え、店内の閉め作業をしているまさにその時、店に久方ぶりに訪れた平穏は、フランシスの慌てふためいたような声にぶち壊された。 「アーサー!」 「なんだよ、騒がしいな」 邪険な態度もお構いなしに、フランシスは慌てている。 「お、お前ヴァルガスファミリーのとこで何やったんだよ!」 アーサーが行方不明の間、彼は表向きには一流ホテルのレストランで修業していたことにしようと話が落ち着いた。その密約をあっさり破って、フランシスがその忌むべき名前を出したのは、よほど動転していたからに違いない。何事だろうとアルフレッドは不安になった。それはアーサーも同様のようで、戸惑ったように小首を傾げる。 「な、何って……」 「なんか警察から指名手配書回ってきたんだけどー!」 「しめ……っ!」 思わずアルフレッドが、フォークやらスプーンやらが大量に入った籠を引っ繰り返してしまったのを、誰も責められないと思う。 アーサーはといえば、「やっちまった」程度の顔をしていた。悪戯が見つかった子供じゃないんだぞ、と肩を掴んで揺さ振ってやりたい。 「ほ、ほら、昔取ったなんとやらっていうか、つい血が騒いでな……」 抗争とか久しぶりで、とかなんとか、もはやアルフレッドには理解できない――したくもない――文脈が続いた。 「もーお前はどうしておとなしくしててくれないの! ほとぼり冷めるまで、お前はキッチンな! 絶対ホールに出てくるんじゃねぇぞ!」 きつく言い渡されてしゅんとうなだれたアーサーに――怒られている理由はともかく、その様子はかわいらしい――、やりとりを遠巻きに眺めていたらしい、キッチンの中から、ひそひそと不穏な話し声がかけられた。 目が合った菊は、ぱっと顔を逸らしてしまったが、二人が何を話していたのかは、続くイヴァンの諫言から知れる。 「……フランシスくん、本気なの? 知らないよ僕は、食中毒とかクレームとか……」 「どういう意味だオラァ! ……って菊まで頷くな!」 ああ、と店内の数人が向けた微妙な視線に気付かず、心外だとでも言いたげなアーサーだったが、生憎アルフレッドも、彼の立場を擁護することはできなかった。 キッチン勢の猛烈な反対に遭い、やむなく洗い場に押し込まれたアーサーは、最初の一週間ほど食器のすすぎを怠り叱責を受けたが――食洗機を使いながらなぜ料理から洗剤の味が……と訝った料理長自ら指導にあたった結果、アーサーは勤続四年目にしてようやく「運転中」表示の時に、勝手に自己判断で洗浄機を開けてはいけないということを学んだ――その後は順調に仕事をこなし、よく働く手指はいつも荒れ気味だった。 後戯としてその指にハンドクリームをなじませてやる瞬間は、まもなくアルフレッドの一つの楽しみになった。 (2008/6/11)
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