双眸を大きく見開いたアルフレッドの前で、男は儚げに笑った。どこか深い愛情や憧憬、諦念を感じさせる笑みだった。
 翠の瞳は森のように深く、呑み込まれてしまいそうな暗い色を湛えている。
「店を守るためには、俺が店に戻る以外に方法はないとでも思ったのか? ……ばかだな、アルフレッド」
 アルフレッド。呼ばれた響きは強くアルフレッドの心を打った。
 呆然と立ち尽くしたアルフレッドは、そのまま天へ向けて慟哭したい衝動に駆られる。さながら森羅万象、雄大な大自然の前に、人がただ祈ることしかできないように。
「お前は本当にばかだ」
 アーサーは繰り返した。泣きたいのはアルフレッドのはずだったのに、なぜだか彼の方が目に涙を浮かべていた。
「ばかだよ、なんで俺のために、こんな……」
 アーサーは「こんな」の先を言わなかったけれど、アルフレッドには彼の言わんとしていることがわかっていた。「こんな卑劣なことを」。そう、アルフレッドにはわかっていた。わかっていた。
 お前らしくない、と激昂するでもなく静かに紡がれた沈痛な響きが、余計に胸に突き刺さった。どうして自分はこんな、馬鹿なことを――愛する人の前に胸を張って立てなくなるようなことをしてしまったのだろう。
 頭の中が真っ白になった。一度踏み躙られ汚された正義の旗は、二度と元に戻らないのだとようやく悟った。
「このまま諦めてくれると思ったんだ……」
 ごめんな、と彼は言った。
「お前にこんなひどいこと、させて……」
「ちがうよ」
 アーサーが自らを責め顔を歪ませるのを、やっとのことで遮った。今までどんな風に声を出していたのか忘れてしまったかのように、舌が重かった。かすれた声は、きちんとアーサーまで届いただろうか。
「ちがうよ、俺はきっと、最初からこういう奴だった……」
 口ではどんなに立派な理想を紡いでみせても、実際は自分勝手で、臆病で、卑怯な俗物だった。高潔で力強く不可能を知らないヒーローなどとは、およそ縁遠い場所に立っていたのだ。そもそものはじめから。
 所詮は持たざる貧乏者の虚勢で、ちっぽけなプライドで、社会の底辺で、希望を失わずに生きるための手段に過ぎなかった。本当はもっとしたたかに、傲慢に生きてきたのだ。
 今はっきりと、愛しい人の深く傷ついた涙にそれを悟ったことで、ショックなのかそれとも安堵したのか自分でもわからない。
 ただ伝えるべくはたった一つだと、感じた。
「どうしても君に、逢いたかった」
 それだけが理由だった。その理由こそが彼の人を最も悲しませるのだとわかっていても、それだけは、知っていてもらいたかった。
 こんなマフィアの事務所のど真ん中で、黒服にきっちりと身を包んだアーサーが顔を覆って泣く様を、どこか可笑しいと感じながらも眺める。
 泣かないでと抱き締めたい。だが泣かせているのはアルフレッド自身だ。きっとその資格もない。
 抱き締めたい。だきしめたいだきしめたい。
 やっと、やっと会えたのに。
 しかしきっと、アルフレッドはその資格を自ら手放したのだ――。
「……君が兄だってことを隠してたって知った時、どうしてあんなに、裏切られた気がしたのか……今じゃもうわからない。あの時、『そんなの関係ないよ、大丈夫だよ』って、どうして君を抱き締められなかったんだろう――。君はいつだって、俺に嫌われるって不安がっていたのに……」
 どうして愛する人をただ愛せなかったのだろう。見くびられたとつまらない意地を張って、ただでさえ自己への罪悪感に苛まれていた彼を、救うどころか深く傷つけた。
 全部アルフレッドが悪いのだ。時が巻き戻せるというのなら、アルフレッドは何でも捧げるだろう。
 今更卑怯に過ぎる言い分だ。神も掬い上げてはくれないだろう。
 犠牲を払えば必ず望むものが与えられるなどと、そんなものは人間の都合のいい願望に過ぎない。生とはもっと非情なものだ。
 だからきっと、過ちを犯したアルフレッドが、一点の曇りもない笑顔で誇りを持ってアーサーの隣に立てる日は永遠に来ないのだと思う。そしてそれが正しい。アルフレッドは、それだけのことをした。これはそれだけひどい裏切りだった。
 アーサーが何よりも誇りにし、何よりも愛した店。アルフレッド自身も仲間としてともに働いた。二人の信頼を、アーサーの気持ちを、軽々売り飛ばして、アルフレッドはアーサーを騙そうとした。
 そんな謀略は笑えることに、アーサーにはすべてお見通しだったというのに。そして彼が倦んでいた過去の過ちへと、再び彼を貶めた。誇りを持ってサービス業に従事していた彼が、再び闇と暴力の世界に足を踏み入れることは、どんなに彼の矜持を傷つけただろう。
「俺が……俺が全部いけなかった……。お前を家に上げるべきじゃなかった、お前にもっと早く兄だって言うべきだった、お前と関係をもつべきじゃなかった、お前を愛するべきじゃなかった、――お前と、出会うべきじゃなかった……俺のせいで、俺のせいで、お前にこんな、こんなことを……」
 決して褒められたやり方ではなかったというなら、確かにアーサーの側もそうなのだろう。兄であることを隠し、流されるままに事態を正そうとしなかった。事が露見すれば、アルフレッドの気持ちも考えずに唐突に姿を消した。思い詰めたアルフレッドが何かをしたとすれば、それはアーサーの責任でもあるのだろう。だが、アルフレッドは自身の愚かな行ないのせいで、アーサーが自らを責めるのは耐えられなかった。
 ああ、どうして自分は、大切な人を悲しませることしかできないのだろう、苦しめることしかできないのだろう。
「ごめんよ、バカで本当にごめんよ……俺は君をカッコよく守るヒーローなんかにはなれないし、もう君の隣に立つ資格もないけど、君に……」
 会いたかった、言いかけた言葉を呑み込んだ。
 アーサーに会いたかった――紛れもないただ一つの本音が、責任をすべてアーサーに押しつけるかのような響きをもつことが、首を絞めつけられたかのように苦しかった。
 もはやアルフレッドには泣く資格もアーサーに触れる資格もないのだろう。断罪を待つように黙りこくって、このまま静かにここを去ろうと、密かに決意した。喪失の痛みは、後から嘆けばいい。今はただ、自身を責め続けるアーサーを解放してやることだけを考えよう。
「俺だって……俺だって、お前とずっと……」
 アーサーがしゃくり上げた。
 するとそれまで部屋の隅で黙って腕を組んでいた男が、苛立ったように、唐突に、本当に唐突に壁を叩いた。
「ああもう! 腹立つなぁ!」
 湿っぽい空気が流れていた部屋に、パシンと威勢のよい声が響いて、アルフレッドは反射的に顔を上げた。俯いていた時にはわからなかった。けれど部屋は思っていたよりずっと、明るかった。
「うるさいから余所でやってやー! さっきから聞いてれば小学生の学級会かっちゅうねん! 理想主義すぎて反吐が出るわ! 人間そんなキヨラカに生きられるかい! 過ぎたことくよくよしとってもしゃーないやん、なぁ! 二人して一緒にいたいならいたらええやろ! そんなくだらんことにウチらファミリー巻き込まれたかと思うと、もう今すぐトマト握り潰して投げつけてやりたくなってくるわ……!」
 彼は今すぐにでもそれを実行しそうな顔で、ぎりぎりと奥歯を噛み締めていた。どうやらよほど立腹しているらしく、呆気にとられたアルフレッドは、耐えていた涙が一筋、自身の頬を伝うのを感じた。
「おい、アントーニョ、うるせーぞ! 何騒いでんだコノヤロー!」
 バァン、と、次いで聞こえた轟音は、蹴り飛ばされたドアが上げた悲鳴のようで、現れた男は、ファミリーを担うボスの一人として、アルフレッドが記憶している人物だった。
 彼は、とりあえず怒鳴りましたといった顔の後で、ようやく部屋を見渡して、突然青ざめる。それはもうほとんど彼の習性のようだった。
「……ってアーサー様! すすすすすいませんでしたぁ!」
 そのままドアも開け放したままに駆けて行ってしまう。
「ほらぁ! アーサーが来てからうちのボスがビビりっぱなしでかわいそうやん! ロヴィーノかわいそうやろ? かわいそうやろ? なぁ! もうあんた、早くそれ連れて帰ってやー!」
 ついに堪忍袋の緒が切れたというように、男はもう一度、壁を叩いた。温和そうな顔つきからは想像だにしなかったヒステリックな訴えに、深くは事情を知らないながらも、もはや反論の余地はなかった。


 ぽい、という擬音がまさに相応しく、事務所を追い出された二人は、呆然と立ち尽くしていた。
「……ごめんね」
 罪にこだわるな、と言われた。清く正しく、完全でなくてもいいのだと。頭ではわかっているはずなのに、どうしても許されるはずはないという強迫観念は消えない。これはそれだけ、アルフレッドが誇り高く生きてきた証拠のように思えた、意外にも。
 ぽつりと傍らの男に言えば、彼はふるふると首を振った。
「俺こそ、ごめん。お前を見くびってたわけじゃない、ただ俺は、俺の汚さをお前に見られるのが嫌だった」
 早口でまくし立てた彼と目が合った。今日初めて彼と、きちんと目を合わせた気がする。遠くへ行ってしまった彼の、感情の読めないクールで冷徹な表情だと思っていたそれが、まったく感情を丸出しに、アルフレッドを見つめてくるのに拍子抜けした。――ああ、真実はこんなに近くにあったのに。
「……おあいこだね」
 ぎこちなく笑うと、アーサーはやっと、憑き物が落ちたかのように嬉しそうに笑う。その顔はまだ、泣き顔ではあったけれど。
「……だな」
 二人の間にわだかまる空気は永遠に消えないのだろう。けれどそれでいいと思う。時とともに薄れ、また些細なきっかけとともに色香を濃くすることもあるかもしれない。それでいい。受け入れるしかない。
「……で、済ませていいと思うかい?」
 教訓的な寓話のラストにはおよそ相応しくないシーンだ。どこか引っかかりを覚えながら、もはや傍らの彼に触れることに、抵抗を感じないだろう自分を、客観的に感じていた。
「よくないんだろうけど」
 躊躇いがちに、きゅ、とアルフレッドの指先を掴んだアーサーの手に、抑えがきかなくなった。手を握り返すどころか肩ごと押しつぶすように抱きしめて、夢中で背中を掻き抱く。アーサーの匂いがした。
「好きだ」
 熱い涙を見られたくなくて、さらに力を込める。
「……俺も」
 背中にしっかりと回された腕が、何よりの幸せだった。この温もりを手に入れるためならば、ああ、確かに、何を犠牲にしても厭わないだろう。後悔もしない。
 ――事態は、ずっと単純だった。
 ごめん、と、贖罪の言葉よりも、ずっとずっと言わなければならないことがあったのだと、ようやくにしてアルフレッドは理解した。
















(2008/6/3)



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