「おかしい!」
 帰ってくるなり不機嫌そうにソファに寝転んだアルフレッドにびっくりしたように顔を上げたマシューは、何か書き物をしていたらしい。マシューはカナダで大学生をやっているらしいから、その課題か何かなのかもしれない。ついでに言えば今は夏休みなのだそうだ。
「何がおかしいんだい?」
「さっき店に寄ってきたんだ」
「ああ……。何かアーサー兄さんの消息はつかめたかい?」
「それなんだよ」
 アルフレッドはガバリと身を起こした。
「噂が流れてから二週間は経ってるぞ、それなのにフランシスは『まだ何事もない』って言うんだ! マフィアからの接触はおろか、アーサーからの連絡もないって! いったい何をちんたらしてるんだよあいつらは! ファミリーの名折れなんじゃなかったのか!」
 マシューの顔には「マフィアの前じゃ『あいつら』とか『ちんたら』とか言えないくせに……」とでも言いたげな色が浮かんでいたが、敢えてそれは無視をする。善良な一般市民なら、不当な暴力が怖いのは当然だ。そうだ、そのはずだ。
「確かに、このままじゃ何事もなく終わっちゃいそうだね……荒っぽいながらに名案だと思ったけど」
「どうして動かないんだよ」
 アルフレッドはイライラと爪を噛んだ。このままでは、本当にアーサーを見つけ出す手段がなくなってしまう。
 こんな広い世界で、たった一人の人を捜し出す――その深遠さに、今更ながらぞっとした。
 早く、早くしなければ。彼が後ろ暗い気持ちでこの界隈周辺に留まっているであろう今しかチャンスはないのだ。噂も届かないくらい、遠くへ逃げられてからでは遅い。
「……最終手段だ」
 思い詰めた顔のアルフレッドに嫌な予感がしたのか、マシューはびくりと一歩後ずさった。
「直談判だ」
「……誰と?」
「決まってるだろ、その、なんとかファミリーとだよ!」
 自棄気味に叫んだアルフレッドよりも、マシューはすさまじい大声を上げた。
「ええええやだよ! 君一人で行ってよ!」
「なんでだよ! 何でも協力するって言ったじゃないか!」
「だだだだだって僕は一介のカナダの学生であって、何の関係もないっていうか……」
「薄情者だな君は! いいだろう? ちょっとあの店を襲えって言いに行くだけだよ、俺たちに危害なんて及びっこない」
 強い口調で言うと、マシューはびくりと肩を揺らしたが、それでも今回ばかりは、いつものようにアルフレッドの好きにさせてくれる気はないようだった。
「で、でもそれじゃほんとに、君、悪者になっちゃうよ? 今まではただ、『アーサーさんがいなくなった』って噂を広めただけだったけど、そんな、直接『襲え』だなんて……警察が介入してきたら間違いなく捕まるポジションだよ!」
「だってもう手がないんだ!」
 わかってくれよ、と両肩に手を置けば、マシューは迷うように目を伏せた。
「アーサーがいなきゃだめなんだ、俺は、俺は……」
「捕まる覚悟ができてるなら止めないよ。それがものすごく『卑怯』なことだってわかってるなら、僕はもう何も言わない。で、でもついては行かないからね!」
「卑怯、か……」
 アーサーが知ったらどう思うだろう。
 何よりも正義を愛するアルフレッド自身が、この一点の汚点を抱えて生きていくことに耐えられそうにない。アーサーが隣に戻ってきてくれても、彼を欺き虚偽の笑みを顔に貼りつけ続ける自分自身を、果たしてアルフレッドは許せるだろうか?
 ――ああ。
 溢れ出た涙の熱さが、天啓のように唐突に、理解させてくれた。なぜアーサーが自分にずっと真実を言えなかったのか。なぜ彼が、行方をくらませてしまったのか。
 ――強い執着は時に、醜く罪深い感情だ。
 もしもアーサーにこの罪が露見した時は、アルフレッドも何も言わずに身を退こう。これはそういう種類の賭けであり、大罪である。
「やっぱり俺はこの手にアーサーを取り戻さなきゃいけない」
 だってわかってしまった。アーサーがどれだけアルフレッドを愛してくれていたのか。
 すべて赦そう。そして何があってもアルフレッドはアーサーを愛しているし、アーサーの味方だと、強く抱き締めて囁いてやらなければならない。
 それが、一度でも彼を信じられなかった――彼を不安にさせ、一人にしてしまった自分の責任だ。


 耀から聞いたビルは、最近できたばかりの小綺麗なテナントビルだった。今やその全室が、ヴァルガスファミリーの活動を支える事務所として機能しているらしい。もっとも耀とその同郷人のネットワークが確かな情報を掴んでいれば、だが。
 だが訝るまでもなく、ビルの前には黒塗りのイタリア高級車が並んでいる。もとより隠す気もなさそうだ。
 今更ながらに引き返そうとする両足を叱咤して、アルフレッドは拳を握り締めた。やはり泣き倒してでもマシューについてきてもらうべきだったかもしれない。正直、ここから一歩も動けそうにない。
 ビルを睨みつけたまま固まっていると、唐突に入り口から一人の女性が出てきた。
 その顔には見覚えがあって、咄嗟に身を隠そうとしたけれど、時は既に遅かった。
「あら、あなた」
 向こうもアルフレッドを認識したらしい。マフィアの仲間だという品のいい男性と一緒に、アーサーの偵察に来店した女性だ。
 まあいい。あそこの店員だとバレているならそれもそれで話が早いだろう。
 店のことで話がある、と告げると、ビルの一室に案内された。
 そこでコーヒーを出され、「少し待ってて」と言い残すと、彼女は奥に引っ込んでしまった。
 ――待ってて、って言われても……。
 正直アルフレッドは泣きそうだった。そもそも「話がある」だなんて自分にしては比較的格好よく話を切り出せたのも、彼女が一般人となんら変わらない柔らかな物腰を備えていたからだ。いきなり強面の男に出てこられても困る。たとえば最初に店にきた金髪のオールバックの男のような。
 想像しただけで怖くなってきて、アルフレッドは懐の銃を確認し、そわそわとそう広くもない室内を見渡した。
 せめていっそ、ボスだとかいうあの情けなさそうな兄弟のどちらかが出てきてくれればいいのに。アーサーに泣いて土下座を繰り返していた姿を思い出し、少し気が楽になる。
 いや、待てよ。腐ってもあのオールバックをはじめとするマフィア連中を束ねる「ボス」である。あんな顔して、実はすごく怖いのかもしれない。
 じゃあやっぱりアーサーってすごい人なんだな。
 そんな人がアルフレッドの特別な人で、愛を語り合った経験もあるだなんて。
 大丈夫だ、アーサーのためなら、大丈夫。
 ぐ、と決意を新たにしたところで、ようやくガチャリと、あっけないくらいにあっさりその扉は開いた。
「お待たせー」
 にこやかに入ってきた男に見覚えはなかった。その人当たりの良さそうな笑みにホッとする。
「御苦労さん! なぁ、自分店やめたんやって? そんな奴が何の用やねん」
「え……」
 まったく見ず知らずの人間に経歴をスラスラ言い当てられて、アルフレッドは思わず戸惑う。構わずアルフレッドの向かいのソファに腰かけた彼は、なんの毒気もないようでいて、それでいてひどく情のない笑顔を浮かべた。
「ま、用なら分かり切ってるけどな。なんであの店を襲わんかって話やろ?」
 来訪の意を告げる前から、考えていることを言い当てられて、若干おもしろくない気分になる。
 そんなに分かりやすい行動を取ったつもりはない。本来ならばこんな行為は、アルフレッドの信条に反するものだ。アーサーへの気持ちゆえに決断したことを、アルフレッドのアーサーへの想いがいかに大きいか微塵も知らないのであろうこの男にさらりと指摘されたことは、不可解にすぎる事態であった。
 これがフランシス相手だったら驚きはしなかっただろう。そろそろフランシスも、アーサーを探すと言いながらこの街に留まり続け、逐一店の様子を窺ってくるアルフレッドに不信感を抱いているはずだ。
「そうしたいのはやまやまなんやけど、残念ながらウチらにも事情があんねん。……お、なんや自分、外で待ってるんとちゃうかったんかー」
 彼が「自分」と語りかけたのはアルフレッドではなかった。音も立てずに部屋に入ってきた人影には見覚えがあった。
 体にフィットした真っ黒なスーツにグレーのシャツ。パリッと着こなした様は、映画の中のマフィア上層部さながら。
 アルフレッドは瞬時に、自身の計略が相手に筒抜けである理由と、目の前のマフィアの語る「事情」とやらの中身を理解した。
 理解せざるを得なかった。
「……アーサー……」
 狂おしいほど待ち望んだ再会は、凍り切ったようにか細く紡がれたアルフレッドの呼び声で、幕を開けることとなった。
















(2008/5/31)



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