さすがのアルフレッドも、もう「何もなかったフリ」などはできなくて、三日間無断欠勤した。一日目にはフランシスから電話がかかってきて「具合が悪い」とだけ告げたら、次の日はそのまま放置された。そして三日目の今日、午後四時を回った頃――まだアルフレッドはぐずぐずとベッドの中でふて寝をしていた――インターホンが鳴った。
 どうせ嫌な予感がしていたのだけれど、おとなしく説教でも聞いて自分を戒める気分でもあったので、のろのろと扉を開けた。すると予想に反して、そこにいたフランシスは慌てふためいた様子だった。
「お、お前、アーサー知らねぇか?」
「は?」
「アーサーだよ、あいつ――」
 ああ、彼もまたアルフレッドと同じように無断欠勤を決め込んだのだろう。アルフレッドと違って責任感溢れる彼のことだから、フランシスが心配する気持ちもわかるが、無理もないことに思えた。
 ――これでアーサーが普通に仕事に出てたら、結構ショックだったかもしれない。
 しかしながら、事態は傷を抉られたのか慰められたのかよくわからない気分で「家には行ったのか」と尋ねようとしたアルフレッドの予想を遥かに超える深刻さにまで達していたらしい。
「あいつ、夜逃げしやがった!」
 忌々しげに吐き捨てたフランシスの言を、一瞬理解できずに戸惑う。
「……なん、だって?」
「おとといだ、お前んちに電話する前に寄った時はいたんだ、家の中もそのままだった。なのに今日行ったら誰も出なくて、管理人が『引っ越した』って――」
「ば、そんな……」
 そんなバカなことがあってたまるか。
「そうか、お前は知らないんだな、わかった……」
 何も言えないでいるアルフレッドに、もう用はないと言わんばかりに踵を返しかけたフランシスは、「あ」とついでのように振り返った。
「早まるなよ」
 そのままバタンとドアが閉まる。
 しばらく呆然と立ち尽くしていたアルフレッドは、やがて投げられた言葉の意味を理解してカッとなった。
 適当に放ってあったTシャツとジーパンを身につけると、寝癖を隠すためにとりあえずキャップを被り、携帯と家の鍵だけをひっつかんでそのまま飛び出した。
 向かう先は決まっている。
 ドンドンドン、とガラスが揺れるほどに叩くと、中にいた管理人は眉をひそめながら顔を出した。
「カークランドの弟だけど、兄が引っ越したというのは――」
「またですか。さっきもお答えしましたけどね、ほんとに急で、移転先も聞いてません」
「……っありがとう……」
 とぼとぼと通い慣れたマンションを後にした。勢い勇んで飛び出してきたのはいいものの、何をすればいいのか皆目検討がつかなかった。
 ふと思い立ってアーサーの携帯にコールしてみた。すぐに流れてきた『この電話は現在使われておりません……』のアナウンスは思いの外ショックだった。
 ――もう二度と会えないかもしれない。
 ゾッとした。
 彼が自ら姿を隠したのなら。広いこのニューヨークで、アメリカで、いや世界で、一人の人を探すことのなんと困難なことか。
「ウソだろ……」
 情けなくも涙がにじみ出てくる。
「どうして君は、いつもそうやって、勝手な……」
 もはや立っている気力すらなくて、ずるずるとその場にへたり込んだ。
 ――いや、諦めるな。
 心の中で自身を叱咤する声がする。
 ――俺にできないことなんかないはずだろう。
 そうだ、手がかりならある。
 彼の家族――父親と、弟。
 彼の弟――すなわち自分の弟でもあるのだが――が店を訪れたあの日、何食わぬ顔で再会を喜んでみせたアルフレッドは、彼と携帯番号を交換したことを今更ながらに思い出した。
 あの時はただ、意識と遠い遥か上の方を滑っていくだけの常套句の応酬に流されるがままで、すっかりそんなことは忘れていたけれど。
 震える指で検索したMの文字列。数コールで、電話はあっさり繋がった。


「父さんはちょうど今朝の便でイギリスに帰っちゃって……まだゴタゴタしてるのかな、eメールは送ったけどまだ見てないみたいだ」
 ニューヨークの高級マンション、まさに摩天楼と呼ぶにふさわしいビルの一室に、アルフレッドはいた。
 差し出されたコーヒーはのどごしも滑らかなアメリカン。一口飲んで、それで心臓を食い破るような焦燥はずいぶん楽になった。
「僕にも一言も連絡はないよ。いったいどうしてアーサー兄さんは行方をくらましたりなんか」
 テーブルの向こう、ソファに腰かけた顔は不気味なほど自分によく似ている。
 それでいていつも柔和に構えた表情や、自信なさげに発されるやわらかい言葉遣いが、決定的に彼と自分を分けていた。
「……俺、ほんとは君のことなんか何にも覚えてない」
 ぽつり、と零した告白に、彼は一瞬戸惑った顔をしたけれども、何も言わずに続きを促した。
 そう、こんなふうに自分を殺していちいちアルフレッドを立ててくるところも、目障りで意味不明で、それでいてどことなく懐かしくて心地いい。
「君のことも……アーサーのことも。……俺、あの日までアーサーが俺の兄だなんて知らなかったんだ」
 マシューは何を思ったのか、とりあえずアルフレッドが落ち込んでいることだけは伝わったらしい、口元に運んでいたカップを置いて、俯くアルフレッドの顔を覗き込むように身を乗り出す。
「そうかぁ……小さかったもんね僕ら、しょうがないよ。僕だってさ、毎日のようにおじさんがアルバムを取り出しては君たちの話をしてくれなかったら、きっとアルフレッドたちのこと知らないままだったと思うよ」
 優しい声色。なんとなく、この見ず知らずの青年がどのように育ってきたかがわかった気がした。
 それはまるでアルフレッドと対照的で、今更ながらに子供っぽい嫉妬心を覚えた。それは生きるために、長らくアルフレッドが封じ込めてきた感情。
「アーサー兄さんは言ってくれなかったの? 君と、アーサー兄さんが兄弟だって」
「隠してたんだろ。俺とアーサーは、その……」
 こんなところまで、他人も同然の彼に言う必要があるのか甚だ疑問だったけれど、言葉は洪水のように口をついて止まらない。きっとずっと、誰かに何もかもぶちまけて、楽になってしまいたかったのだ。
 マシューはまるで鏡の中の自分の分身のようで、なおさら抵抗がなかったのかもしれない。
 ――ああ、君ならわかってくれるだろう? 兄弟。
 アーサーとアルフレッドの出会い、突然始まった関係、アーサーへの想い――全部話してしまうと、なんだかそれだけで赦されたような、救われたような気分になった。それはきっとすべてを聞いてなお、マシューの顔には嫌悪一つ浮かばず、ただただともに悲しむような表情が浮かんでいたからかもしれない。
「それでアーサー兄さんは、もう君の傍にはいられないと思ったんだね……」
 力なく投げ出していた両手をぎゅっと握り込まれた。その手の大きさまで瓜二つで、なんだか安心する。
「君がそんなことで落ち込んでてどうするのさ! 元気出しなよアルフレッド!」
「そんなこと……か」
「そうだよ、そんなことだよ! 君の前ではすべてそんなことだ! アーサー兄さんから聞いたよ、君は今まで家族なんていないも同然に生きてきたって……。今更、与えられた『家族』なんて、君には関係ない。これからは君が新しい『家族』を作るんだろう?」
 この青年がここまで熱っぽく語れるのだとは思ってもみなかった。
「ねぇ君は、兄弟だってわかっても、まだアーサー兄さんが好きなんだろう?」
 ならそれでいいじゃないか、と言うマシューに、力なく首を振ってみせる。
「だってアーサーは、こんな大事なこと、俺に話してくれなかった……。俺はアーサーにとって、その程度の存在なんだよ……」
 握られた手にはさらに力が込められる。言いながら思わず、今まで堪えていた涙が零れて、アルフレッドは慌てて顔を背けた。
「過ちは誰にだってあるよ。特にあの人は君のこととなると周りが見えなくなるんだから。君と、……ずっと恋人同士でいたかったから、隠してたんだろう? わかってあげてよ」
 どうしてこんなことを、赤の他人――いや、その言い草は明らかに間違っているが――に諭されなければならないのだろう。
 なんだか悩んでいた自分がひどく滑稽で、大声で笑いだしたい気分だった。けれど笑い声の代わりに出てきたのは小さな嗚咽で、視界を揺らす涙も止まらない。
「アーサーに会いたい」
 ぽろりと出た本音に、「よく言った」とでも言いたげに、マシューは顔をほころばせた。
「うん」
 そのままアルフレッドの隣まで移動してくると、彼はそっとアルフレッドの頭を抱え込んだ。
「会えるよ。絶対会える」
 胸にじわりじわりと舞い戻ってきた無責任な希望に、素直に身を預けることにして、これではどちらが弟かわからないな、とアルフレッドはぼんやり思った。
















(2008/5/17)



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